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最高裁判所大法廷 昭和29年(あ)1671号 判決

主文

原判決中、被告人らに関する部分を破棄する。

本件を仙台高等裁判所に差し戻す。

理由

一、序論

本件弁護人および被告人本人等の上告趣意は多種、多岐に亘つており、中には重複したものや繰返しとみられるものもあるのであるが、つぶさにこれを検討すれば、その多くが憲法違反を、若干が判例違反を、その余が訴訟法を含む各種の法令違反、事実誤認、再審事由および量刑不当を主張しているものということができる。

そして、所論違憲、違法の主張(例えば、弁護人田中吉備彦の上告趣意第一点、「原裁判所の構成の憲法三七条一項違反論」、弁護人青柳盛雄の上告趣意第二点、第三点、「共犯者の証人尋問の憲法三一条、三八条違反論」、弁護人池田輝孝の上告趣意第二点、「刑訴三二一条一項一号二号各後段の憲法三七条二項違反論」、弁護人上村進ほか一三〇名の上告趣意第九点、弁護人上田誠吉の上告趣意第二部、「共謀共同正犯理論の憲法二一条、三一条違反論」、その他、本件自白、自認の任意性を否定した弁護人上村進ほか一三〇名の上告趣意第一点ないし第八点、共犯容疑者の自白と憲法三八条三項との関係を論じた弁護人青柳盛雄の上告趣意第一点、弁護人の交通権と憲法三四条、三七条三項との関係を論じた弁護人佐藤義弥の上告趣意第四点、公判廷の証言無視は憲法三七条一項、八二条違反であると主張する弁護人岡林辰雄の上告趣意第四点、第五点、訴因と認定に関する問題を論じた弁護人大塚一男の上告趣意第三点、A1自白における伝聞部分の採証を非難した弁護人大蔵敏彦の上告趣意第一点、など。)のうちの、あるものに関しては、既に、これと関連した幾つかの判例をみており(例えば、憲法三七条一項にいう公平な裁判所の裁判の意義についての昭和二二年(れ)第一七一号、同二三年五月五日大法廷判決、集二巻五号四四七頁、憲法七六条三項にいう裁判官が良心に従うという意味についての昭和二八年(あ)第一七一三号、同三二年三月一三日大法廷判決、集一一巻三号九九七頁、憲法三八条二項、三項の趣旨および共謀共同正犯理論と憲法三一条との関係等についての昭和二九年(あ)第一〇五六号、同三三年五月二八日大法廷判決、集一二巻八号一七一八頁、など)、その余の憲法違反や判例違反の主張には、その実質において事実誤認をいうに帰するものが多く、結局、論旨の大部分は、あるいは直接原判決の事実誤認を主張するものか、さもなくば間接的にこれをいうものであるとみることができる。

事実誤認の主張は、もとより刑訴四〇五条の上告理由にあたらないものではあるが、被告人らが第一審以来極力主張し続けているのは要するに無実という点であつて、第一、二審判決、殊に原判決が特に心血を注いで来たのも、実に、この事実認定の問題であつたということができる。当審においても、事実誤認の有無は、正に、本件審判の核心をなすべきものである。

よつて、職権をもつて、原判決の事実の認定に誤がないかどうかを、以下に検討する(記載を簡潔にするため、原判決の例にならつて、略語を使用する。例えば、国鉄とは日本国有鉄道、A2とはA2株式会社、労組とは労働組合、国鉄側とはA3労組福島支部、同福島分会または福島地区労働会議の関係被告人、A2側とはA2松川工場労組または同鶴見工場労組ないしA2労組連合会の関係被告人、農協とは農業協同組合、A4自白とは被告人A4の検察官および裁判官に対する自白、A5自認とは被告人A5の裁判官および検察官に対する不利益な事実の承認を含む供述、1017A6調書とは検察官A6に対する昭和二四年一〇月一七日附供述調書、1026A7調書とは裁判官A7の同月二六日附証人尋問調書、1028第一回A8調書とは検察官A8に対する同月二八日附第一回供述調書、107勾留尋問A7調書とは裁判官A7の同月七日附勾留尋問調書を指すが如きである。)

二、本論

(一)、問題点。

原判決第一〇章破棄自判の認定によれば、昭和二四年八月一七日午前三時九分頃東北本線金谷川駅松川駅間、東京基点二六一粁二五九米四〇糎(勾配一〇〇〇分の一〇・三、カーブ半径五〇〇米)の地点で、折柄、同所へ進行して来た青森発奥羽線廻り上野行上り一四輌編成四一二旅客列車(機関士、同助手および車掌乗務、一般旅客約六三〇名乗車)が、突如、脱線、顛覆、破壊し、それによつて乗務の機関士、機関助手等三名が死亡するという事故が発生したが、右は判示第一に示されている被告人A9以下一七名(国鉄側七名、すなわち昭和二四年八月当時A3労組福島支部闘争委員兼同支部福島分会執行委員長被告人A9、同福島支部委員被告人A10、同支部福島分会有給書記被告人A11、同支部執行委員被告人A12、同分会執行委員A13、同支部事務所出入り元国鉄福島保線区永井川線路班線路工手被告人A4、福島地区労働会議雑務手伝被告人A5、A2側一〇名、すなわち同月当時A2松川労組組合長被告人A14、A2労連松川派遣A2鶴見労組執行委員被告人A15、同松川労組副組合長被告人A16、同労組青年部副部長被告人A17、同労組青年部常任委員兼青年部宣伝部長被告人A18、同労組青年部宣伝部員被告人A19、同青年部員被告人A20、同青年部員被告人A21、同青年部文化部員被告人A22、同労組書記被告人A23)のうち、被告人A18、同A23(A2側)を除く、その余の一五名が、判示第二、(一)および同(二)のような動機ないし経緯から、判示第三の各謀議、すなわち、同(一)、昭和二四年八月一五日午前一一時頃からのA3労組福島支部事務所における被告人A9、同A10、同A11、同A12に被告人A4を加えた国鉄側被告人五名間の列車顛覆に関する謀議、同(二)、被告人A4退出後、同日正午頃からの同事務所における被告人A9、同A10、同A11、同A12に、A2側を代表して出席した被告人A15を加えた国鉄側被告人四名とA2側被告人一名間の右同様の協議、被告人A15の同人が松川に帰つた後のA2側被告人A14、同A16に対する右報告と同人らの賛同による国鉄側被告人右四名とA2側被告人右三名間の前同様の謀議、同(三)、同月一六日午後九時頃のA2松川工場構内八坂寮組合室における、同日までに国鉄側被告人の少くとも一部の者と謀議を遂げ、A2側への連絡事項を協議していた国鉄側被告人A5とA2側被告人A14、同A1、同A17、同A20間の被告人A5の連絡に基く国鉄側被告人一名とA2側被告人四名間の前同様の謀議、同(四)、同日午後九時三〇分頃からの同組合室におけるA2側被告人A14、同A1、同A15、同A17、同A20、同A19、同A22、同A21のA2側被告人八名間の前同様の謀議、および同(五)、同夜までの福島市内における国鉄側被告人の何人かからの国鉄側被告人A13に対する連絡とこれに対する同人の承諾による国鉄側被告人間の前同様の謀議、を経て順次共謀し、以上の謀議に基き、同第四、(一)のように、同日午後一〇時三〇分頃から被告人A21、同A22、同A20においてA2松川労組事務所より松川線路班倉庫ヘバール、スパナ各一挺(証第一号の六、五)の持出に赴き、これを持参し、同(二)ないし(四)のように、同日午後一二時頃杉妻農協事務所裏に集合、出発した被告人A12、同A13、同A4が、同月一七日午前一時三〇分頃右バールとスパナを携え松川労組事務所を出発した被告人A15、同A19と松川駅上り信号機の少し手前で出会し、合流して、前記地点に到り、右五名共同して同日午前二時四分頃から二〇数分間に亘り、同所で前示バール、スパナを使用して鉄道線路外軌継目板二箇所および内軌継目のボールト、ナツト一個を取り外し、犬釘、チヨツク等相当数を抜き取つたことによるものであり、同第五のように、被告人A18、同A23は、被告人A14の依頼により、被告人A19が右犯行に赴いた際、同月一六日夜前示事務所に宿泊し、翌一七日午前二時過ぎ頃まで眠らないでいて、被告人A19のために虚偽のアリバイを作る任務に当つた、というのである。

右によれば、原判決は本件を謀議、実行行為(バール、スパナの持出し、線路の破壊作業)およびアリバイ工作の三部門から成る計画的な犯行であると認定していることが明らかであるが、謀議は本件の発端をなすものであり、しかも原判決が特にこれを重要視していることは、本件実行行為はもとよりアリバイ工作といえども、すべて、右各謀議に基いて敢行されたものとしていることおよび本件ではただ謀議のみに関与し、自らは何ら実行行為に出でなかつた被告人A9、同A10、同A11、同A5、同A14、同A1、同A17の七名に対しても、これを共同正犯として、重い責任を負わしめていること、その他判文全体からこれを窺うことができる。

原判決の前示認定によると、本件謀議は国鉄側のみの謀議、国鉄側とA2側との連絡謀議、A2側のみの謀議の三組から成るものとされているのであるが、就中、連絡謀議は国鉄側のみの謀議とA2側のみの謀議とを結びつける枢軸であり、しかも原判示によれば、右国鉄側のみの謀議、A2側のみの謀議すら、互に相手方の参加と協力とを予定または前提とするが如き内容のものであつたとされているのであるから、この連絡謀議の存否は自然その余の謀議、ひいては本件事案の全般的な構造にまで影響を及ぼす程重要なものとみざるを得ない。

原判決の認定した本件連絡謀議は二つである。その一は原判示第三、(二)の前示被告人A15による連絡謀議であり、その二は原判示第三、(三)の前示被告人A5による連絡謀議である。以下この二つの連絡謀議につき、順次、原判決の認定の当否を検討する。(論旨中、特に原判示第三、(二)の謀議を問題としたものとしては、弁護人上村進ほか一三〇名の上告趣意第三四点、第三五点、第三八点、弁護人岡崎一夫の上告趣意第一点四、五、弁護人大塚一男の上告趣意第五点、弁護人柴田睦夫の上告趣意第三点、弁護人A15義彌の上告趣意第三点、第五点、弁護人松本善明の上告趣意第三点、弁護人袴田重司の上告趣意第二点その三、弁護人大蔵敏彦の上告趣意第二点、第三点、弁護人田中堯平の上告趣意五、被告人A9の上告趣意第一章九ないし一一、第八章二(12)、第一〇章四、被告人A10の上告趣意第三章第二節四(2)、被告人A11の上告趣意一〇、一二(9)、(10)、被告人A15の上告趣意第三、被告人A14の上告趣意第一章第三節、第六節、第七節、被告人A1の上告趣意第四章、被官人A23の上告趣意原判決第七章第七節についての二、等があり、特に原判示第三、(三)の謀議を問題としたものとしては、弁護人上村進ほか一三〇名の上告趣意第二〇点の二後半、第三六点後半、第四〇点、第四一点、弁護人A24辰雄の上告趣意第二点、弁護人大塚一男の上告趣意第六点、弁護人A15義彌の上告趣意第一点、弁護人関原勇の上告趣意第二点三1、弁護人能勢克男ほか一一名の上告趣意第一点第二(二)、弁護人A13正義ほか一名の上告趣意第五点、弁護人岡崎一夫の上告趣意第一点六、弁護人松本善明の上告趣意第三点第二四(三)、弁護人牧野芳夫の上告趣意第一点、弁護人田中堯平の上告趣意四、弁護人A25喜八の上告趣意、弁護人上田誠吉の上告趣意第一部第六章第二節、弁護人庄司進一郎の上告趣意(二)、被告人A14の上告趣意第二章第一節、被告人A1の上告趣意第四章第四点、第五章第一点、被告人A17の上告趣意第三章、第五章の一部、被告人A22の上告趣意第八章第三項、被告人A18の上告趣意第一〇第一章第三点の一部、被告人A5の上告趣意第二章第一節後半、被告人A11の上告趣意第二部一二(11)、被告人A13の上告趣意第一章第一節一、二(9)、等がある。)

(二)、原判示第三、(二)の謀議について。

原判示第三、(二)によれば、A2側の被告人A15は、昭和二四年八月一五日正午頃、A2側を代表して、A3労組福島支部事務所に赴き、被告人A4退出後もそこにいた被告人A9、同A10、同A11、同A12と、列車顛覆の実行の日時、場所、国鉄側A2側の双方から出すべき人数、役割、国鉄側から参加すべき三名の氏名、爾後の連絡等につき協議し、これを諒承して松川に帰り、その結果を被告人A14、同A1に報告し、その賛同を得て、右被告人七名間に列車顛覆に関する謀議が成立した、というのである。

この謀議は、第一審第六回公判における検察官A26の冒頭陳述第一六項(但し、第一審第七四回公判における起訴状訂正で更に修正)で、原判示第三、(一)の謀議と包括して、被告人A9、同A12、同A10、同A11、同A4、同A5、同A27による謀議として表示され、更に右冒頭陳述第二一項(前同様修正)において、その日の午後五時三〇分頃被告人A15が松川に帰つた後A2松川工場構内八坂寮で被告人A14、同A1に報告をして謀議をしたという事実として表示されていた部分であり、第一審判決は判示第三、(六)で、これを被告人A4参加の謀議に続いて行われた別の謀議であるとし、参加者より被告人A5を除き、詳細に謀議内容を認定して、顛覆せしむべき列車の指定を除いては殆どその具体的な打合を終つたかの如く窺える判示をし、更に同(七)で、前記冒頭陳述と略ぼ同様に被告人A14、同A1とA2側の役割について詳細な報告の謀議があつたものと認定したが、原判決は第七章第七節においてその当否を検討した結果、同判断に示されているような心証を得て、原判決挙示の「証拠の標目」(45)ないし(47)の証拠により、前記第三、(二)のような謀議の事実を認定したものである。

そこで、原判決が本謀議を認定する証拠として挙示している右(45)ないし(47)の内容を点検すると、主たる証拠は関係被告人の自白、自認であつて、同判決は(46)被告人A1の(イ)1025第五回A6調書、(ロ)1026A7調書、(ハ)1028A28調書、(47)被告人A5の(イ)1110〔第二回〕A8調書、(ロ)1110A7調書の五通を直接の証拠としてこの謀議を認定したものであり、右A1自白をその最も有力な証拠とし、右A5自認をもつてこれを支える証拠としたものであることが明らかである。従つて、本謀議が認定できるか否かは一に右A1自白とA5自認の証拠としての価値いかんにかかつているものということができる。

本件で証拠として取り調べられている被告人A1の自白を録取した書面は、甲、書証、イ、1017A6調書、ロ、1018第二回A6調書、ハ、1019第三回A6調書、ニ、1020第四回A6調書、ホ、1020A7調書、へ、1025第五回A6調書、ト、第六回A6調書、チ、1026A7調書、リ、1028A28調書、ヌ、1030A28調書、ル、112第九回A6調書、オ、119A6調書、ワ、119A7調書、乙、物証、証第三七号(司法警察員A29宛の「行動」と題する書面)の一四通であり、同自白は本件の全貌を伝える証拠として、本件検挙の端緒を作つたA4自白と相並んで、本件自白、自認中の最も重要な自白とされているところのものである。

しかしながら、A1自白はその内容を精査すれば、これが同一人の供述かと疑われる程、供述変更の跡が目まぐるしく、中には原判決が明らかに虚偽、架空と断じた事項すら含んでおり、甚だ不合理な自白であることを否定することができない。第一、被告人A1は、終始、1017A6調書以来どの調書にも、昭和二四年八月一二日午前九時頃国鉄側からA2側の被告人A14に対し、「明一三日に重要会議を開くから出席してくれ」との電話があつたとして、その状況を詳細に供述している。この電話は国鉄側とA2側との結びつきの発端をなすものとされていたところのものであるが、原判決は明らかにこれを虚偽としている。第二、被告人A1は、同月一三日は独りで福島に赴いたのか、それとも被告人A15と二人で福島に赴いたのかの点につき、しばしば供述を変え、1017A6調書、1020A7調書では、同日は被告人A15と二人で福島に行つたと述べておきながら、1025第五回、第六回各A6調書、1026A7調書では、その日は独りで福島に行つたのであると供述を変更し、更に1028A28調書、112第九回A6調書、119A6調書、119A7調書、証第三七号では、同日は被告人A15と二人で福島に行つたのであつたと供述を三転している。同日はA3労組福島支部事務所で会合(第一審判決によれば謀議)があつたとされているところ、1017A6調書から1020A7調書に至るまでの供述では、被告人A1は当日は午前八時二〇分頃松川駅で被告人A15と一緒になり、別々に往復切符を買つて、八時半頃の汽車に乗り、九時頃福島に着き、同人と共に右事務所に行き、同所で当時A3労組福島支部執行委員長第一、二審相被告人A30が座長になつて約二時間謀議が行われたこと、被告人A15も発言したこと、同日は午後四時半頃福島発の汽車で同人と二人で松川に帰つて被告人A14にその報告をしたこと等が詳細に述べられているのに、1025第五回A6調書、1026A7調書では、その日は、被告人A14から「A15が行けないから福島へは君一人で行つてくれ」と言われたので、被告人A1が独りで午前一一時過ぎ松川駅発の汽車で福島に行き、一一時四、五〇分頃A3労組福島支部事務所へ赴いたこと、同所では前示A30が座長となつて謀議が行われたが、それは一〇分か一五分で終つたこと等を詳細に供述しておきながら、その後、1028A28調書以降の調書では、最初の供述に逆戻りして、その日は午前一一時頃被告人A15と同道して福島に赴き、A3労組福島支部事務所における謀議に参加したこと、その謀議では被告人A15の紹介があり且つ同人の発言もあつたこと、謀議は、一五分位で終つたこと等を詳細に述べており、供述変更の跡歴然たるものがある。第三、被告人A1は、同月一五日A3労組福島支部事務所における原判示第三、(二)の会合には同人が自ら出席したのか、それとも自らは出席することなく、ただ被告人A15のみが出席し、同人からその報告を受けたに過ぎないものであつたか、どうかの点に関し、最初は、同日も被告人A15と一緒にこれに出席したと述べていたのに、途中、その日は自分は福島に行かず、その日の会合のことは、同日これに出席した被告人A15から聞いたものであると供述を変更している。同日は同事務所で、協議が行われたものとされているところ、被告人A1は、1017A6調書以降1020A7調書に至るまでは、同日は午前八時二〇分頃松川駅で被告人A15と一緒になり、九時頃二人でA3労組福島支部事務所に行き、謀議に参加したと述べていたのに、1025第五回A6調書以降では、その日は被告人A15のみが福島に行つたのであつて、自分は福島に行かず、その日の会合のことは、これに出席して午後五時半頃福島から松川に帰つて来た被告人A15から聞いたものであると供述を変えている。これも供述の顕著な変更といわなければならない。第四、A1自白には、1017A6調書以来1028A28調書に至るまで、実に、根強くいわゆる顛覆謝礼金のことが繰り返されている。その間にあつて、この謝礼金のことが出ていないものとしては、僅に、1025第五回、第六回各A6調書と1026A7調書とを数えることができるに過ぎない。この顛覆謝礼金は、同月一七日夜被告人A14からA2側の被告人らに対し、本件犯行の報酬の趣旨で金員が授与されたというのであつて、本件の性格の一斑を示唆するが如き感じを与えずにはおかないところのものである。特に、A1自白はこの謝礼金自白の嚆矢であつて、この自白に続いて忽ち被告人A23を除くその余のA2側被告人らの自白に現れ、その授受された時の情景は、どの自白にも、あたかも符節を合したかの如く、いかにもまことしやかに述べられているのであるが、その自白の内容、殊に金額およびその使途についての供述は、幾変転したばかりでなく、その裏付証拠は現われず、被告人A21、同A22の如きは遂にはそれが全く虚構であつた旨供述するに至り、検察官も公判ではこの謝礼金のことは強く主張せず、原判決はこれを虚偽架空と断じているのである。

もちろん、人には記憶違や錯覚ということがあり得るし、記憶力には個人差があり、また人として記憶が薄れるということもやむを得ない。そして、記憶違や錯覚にはその是正ということが考えられ、また記憶の喚起ということもあり得る。しかし、それには理由がなければならないし、まして、前記のような、重要にして、事いやしくも自己の行動に関する事項について、記憶違をしたり、錯覚を起したりするというが如きことは、甚だ稀な事象であると考えざるを得ない。A1自白における右のような事項についての甚だしい供述の変更を、ただその記憶違や錯覚の是正ないし記憶の喚起ということ(供述の補充訂正)で片附け去ることができるものではない。A1自白における右のような供述の変更や虚偽は、これを被告人A1が他意あつて殊更に事実を曲げて供述したことによるものとみるべき節もないとすれば、それは、同人が、あるいは、自己の経験しなかつたことや記憶の薄れたことについて、取調官から尋ねられた際、ただひたすら迎合的な気持から、その都度、取調官の意に副うような供述をしたことによるのではないかとの疑さえあつて(第二審第六〇回、第六六回公判における証人A28の各供述参照。)、どこまでよく真実を述べたものか、またどの供述に真実があるのか、その判断に苦しまざるを得ない。原判決自らが、「A1自白は何分にも変化が甚だしく、他に有力な補強証拠がなければ到底措信し得ない」としているのも、一にこの間の消息を伝えて余りあるものというべきである。

そして、A1自白における不自然と不合理は、原判決が本謀議を認定する証拠として挙示している1028A28調書に至つて極まつている。同調書はその形式に奇異な点があるばかりでなく、その内容においても甚だ不自然なものを持つている。すなわち、これには「二三ノ二」項なるものがあり、同項の末尾には供述人A16の署名栂印があつて、更に二四項以下がこれに続いているのであるが、二三ノ二項以下はその前とは紙質も墨の色さえも異つたものがあるように見受けられ、また契印にも疑いがあるし(一審証第六冊二二六丁以下)、同項には、「私はこれまでの調で、八月一三日A15と一緒に福島に行つたことはないと申しましたが、それは調べる方でそう言うので、それを幸い、一回でもA15の名前を少くしてやろうと思つたからで、また一五日A15と一緒に福島に行つたと言つて図面まで書いたのは、調官からその日出張しているのではないかと言われたので、どつちみち関係した以上大差はないと思つて、与えてくれた地図にいい加減なことを書いたのであります。」という趣旨の記載があるのである。その上、右調書は、前記のとおり、被告人A1が八月一三日はA15と二人で福島に赴いたと供述を三転し始めた調書であり、折角一度影をひそめていた顛覆謝礼金のことが再び頭を抬げている調書でもあるのである。特に、この調書は従前のA6調書における矛盾した供述を総合して単一の調書に取り纏めるために行われた取調の際のものであつて(第二審第六〇回公判における証人A28の供述参照)、その作成の目的からいつても正確なものでなければならないのに、結果は却つて、前記のとおり、従前の調書よりも遙かに疑点の多いものとなつていることは、看過できないところである。ただ、その間にあつて前示1025第五回、第六回各A6調書、1026A7調書の三通のみは、その作成された時期(勾留理由開示の後、程なくのことである。)あるいはその内容(特に顛覆謝礼金のことも出ていない点。)からみて、他の自白調書に比し短所の少いものがあるようにも考えられるのであるが、これ等の調書とても原判決の認定に副わず、且つ原判決が虚偽と判断した事項(例えば、前記八月一二日の電話連絡の件、A3労組福島支部執行委員兼闘争委員第一、二審相被告人A31の同月一三日A3労組福島支部事務所における会合への出席、被告人A15からの報告による被告人A13の同月一五日同所における会合への出席、その他同日被告人A15が福島から松川に帰つた時刻の点等)が供述されているのであつて、果してよく本謀議に関する部分のみを措信すべきか否かの点については、なお依然として疑問は存するのである。

次に、当裁判所の提出命令により提出され、当裁判所が領置したいわゆる「諏訪メモ(証一三一号の一)は、当裁判所において公判にこれを顕出したのみで、事実審におけるが如き証拠調の方法は採らず、従つて当裁判所が直ちにこれを事実認定の証拠とすることはできないとしても、少くとも原判決の事実認定の当否を判断する資料に供することは許されるものと解すべきところ、同メモの記載によれば、昭和二四年八月一五日午前一〇時三〇分よりA2の団体交渉が開かれ、被告人A15もこれに出席したが、同人の資格問題が論争となり、結局会社側で納得されるに至つて、同人の発言は相当長く継続し、午前中の最後頃まで発言していたのではないかと窺われる節もあつて、この点をも参酌するならば、A1自白における被告人A15が右団体交渉から退席した時刻に関する供述は殊に疑わしいことになり、旁々原判決が第一審第一七回公判における証人A32の供述を殆どただ一つの拠り所として、これと牴触する諸証言(第一審第六七回公判における証人A33、同A34、同第二二回公判における証人A35、同A36、同第七二回公判における証人A37、同A38、第二審第二一回公判における証人A39の各供述、等。)を悉く排斥し、同被告人は同日午前一一時一五分松川駅発の下り列車に間に合う時刻に団体交渉の席を出たとの原判断には疑なきを得ないのである。

原判決が本謀議を認定するに足る最も有力な証拠としたA1自白すら、その真実性には、数々の疑があることは、右に述べたとおりである。そこで、原判決が同自白の有力な支柱としたA5自認について考えなければならない。

本件で証拠として取り調べられている被告人A5の不利益な事実の承認を含む供述を録取した書面は、イ、1028第一回A8調書、ロ、1110第二回A8調書、ハ、1110A7調書、ニ、1112第三回A8調書の四通であり、同自認は被告人A5を半ば被疑者、半ば参考人たる地位に置いて取り調べた際の供述であるとみられ、A4、A1両自白間の間隙縫う証拠として高く評価されて来たところのものである。

しかしながら、このA5自認も、その内容を精査すれば、被告人A5は一旦、1110第二回A8調書では、同月一三日のA3労組福島支部事務所における前示会合につき、そのような会合は見て知つていると供述しながら、その後、1112第三回A8調書ではこれをはつきりしないと変更し、その会合には原判決が当日は不在であつたと断じた前示A31が出席し、発言もしていたことになつている等信用できないものがあるばかりでなく、原判決挙示の前示1110第二回A8調書、1110A7調書といえども、実は、本謀議については、被告人A5は、原判示第三、(二)の協議には自らは何らこれに参加せず、ただ被告人A15が八月一五日に組合事務所に来て被告人A9、同A11、同A10、同A12と会議のようなことをしているのを、A25能伯と将棋をさしながら見ていたという程度の供述をしたに過ぎないものであつて、到底これのみをもつて本謀議を認定することができるような証拠でないのはもちろん、これと前示諏訪メモとの関係を考慮すると、右程度の供述の信憑力すら疑わしいことにならざるを得ず、果してよくA1自白の支柱たり得るか否かは大いに疑問の存するところである。

以上のとおりであつて、原判決がその挙示するような前記証拠によつてこの謀議の存在を肯定したことには疑問があり、結局本謀議に関する証拠は極めて薄弱であるといわざるを得ない。

(三)、原判示第三、(三)の謀議について。

原判示第三、(三)によれば、国鉄側の被告人A5は、昭和二四年八月一六日、列車顛覆につき国鉄側の要望事項をA2側の被告人A14らに連絡するため、既にそれまでに国鉄側被告人らの少くとも一部の者との間に列車顛覆に関し謀議を遂げ、A2側への連絡事項を協議した上、松川に赴き、A2松川労組組合大会終了後の午後九時頃A2松川工場構内八坂寮組合室で被告人A14、同A1、同A17、同A20らと相会し、その席上、列車顛覆に関し、国鉄側からはA12、A13、A4の三名が赴くこと、顛覆せしむべき列車は福島駅発午前二時四〇何分の上り旅客列車、すなわち四一二列車であること、決行の時刻は午前二時から二時半頃とすること、右列車の前の貨物列車は運休になつており、作業時間は十分あること、松川からも二名バールとスパナを持つて参加ありたきこと等の連絡をなし、A2側では被告人A14らからこれを諒承する旨を答えて、列車顛覆の謀議をした、というのである。

この謀議は、第一審第六回公判における検察官A26の冒頭陳述第二三項、第二四項(但し、第一審第七四回公判における起訴状訂正で更に修正)で述べられており、第一審判決は判示第三、(八)でこれと略ぼ同趣旨、すなわち昭和二四年八月一六日午後八時四〇分頃A2松川工場八坂寮組合室で国鉄側被告人A5とA2側被告人A14、同A1、同A17、同A15、同A20、同A19との間に被告人A5より国鉄側の連絡として顛覆さすべき列車、その前の貨物列車が運休になつていること、決行の時刻、国鉄側から赴くべき者の氏名、松川からも二名バールとスパナを持つて参加ありたきこと、万事よろしく頼むという申入れがあり、被告人A14よりこれを承認し、実行に関する時刻等につき謀議が行われた旨の事実を認定したが、原判決は第六章第五節および第七章第八節前半においてその当否を検討した結果、同夜かかる謀議のできるような時間ないし場面があつたことを肯定し、ただその時刻はも少し遅く、午後九時頃であり、且つその参加者からは被告人A15、同A19の両名が除かるべきであるとの判断に到達し、原判決挙示の「証拠の標目」(48)ないし(55)の証拠によつて、前記第三、(三)のような謀議の事実を認定したものである。

そこで、原判決が本謀議を認定する証拠として挙示している右(48)ないし(55)の内容を点検すると、主たるものは関係被告人の自白、自認であつて、同判決は(48)被告人A20の(イ)1011〔第三回〕A6調書、(ロ)1119A7調書、(49)被告人A1の(イ)1025第六回A6調書、(ロ)1026A7調書、(イ)1028A28調書、(50)被告人A5の(イ)1110〔第二回〕A8調書、(ロ)1110A7調書、(ハ)1112〔第三回〕A8調書の八通を直接の証拠としてこの謀議を認定したものであり、右A1自白をその最も有力な証拠とし、右A20自白、A5自認をもつてこれを支える証拠としたものであることが明らかである。従つて、本謀議が認定できるか否かも一に右A1、A20の両自白とA5自認の証拠としての価値いかんにかかつているものということができる。

しかるところ、A1自白の信憑性に乏しいことは既に検討したとおりであり、その自白中、原判決挙示の1028A28調書はもちろん、たとえ1025第六回A6調書、1026A7調書であつても、本謀議に関する部分のみを特に真実とみなければならない程の特段の事情があるとは認められない。却つて、A1自白は、原判決挙示の前示三調書を含め、悉く、本謀議に被告人A15と同A19も加つたと述べており、原判決の認定と符合しないものがある。

原判決が本謀議を認定するに足る最も有力な証拠としたA1自白は、その信憑性には疑問があつて、原判決がこれを証拠としたことには疑なきを得ないこと右のとおりである。そこで、原判決がA1自白の有力な支柱としたA20自白、A5自認について考えなければならない。

本件で証拠として取り調べられている被告人A20の自白を録取した書面は、イ、106A6調書、ロ、107A7調書、ハ、107勾留尋問A7調書、ニ、109第二回A6調書、ホ、1011第三回A6調書、へ、1011A7調書、ト、1012第四回A6調書、チ、1014第五回A6調書、り、1022A6調書、ヌ、1023A6調書、ル、111A6調書、オ、115A6調書、フ、115A6調書、カ、1110A6調書、ヨ1110A6調書、タ、1119A7調書の一六通であるが、A20自白は、本件自白、自認中、A1自白に次いで変化の多い自白であり、また原判決が架空と断じた前示顛覆謝礼金の自白を含んでいるのであつて(原判決が本謀議認定の証拠としている1119A7調書にして然り。)、同自白中の本謀議に関する部分のみを特に信憑性があるとしなければならないような特段の事情があるともみえない。却つて、同自白が最初は自分も初から本謀議に加つた如く述べておきながら(106A6調書、107A7調書)、後になつて自分は途中からこの謀議に加つたのであると供述を変更し(109第二回吹笛調書以降)、また本謀議参加者に終始被告人A19を加えている等、疑問とすべきものを持つており、なお本謀議の時刻の点についても必ずしも原判決の認定に副わない供述をしているのである。

次ぎに、A5自認もその信憑性には疑を容るべき余地のあることは既に検討したとおりであるが、なお、原判決挙示の1110第二回A8調書、1110A7調書は、その内容を精査すると、本謀議に関しては、ただ、昭和二四年八月一六日夜A2松川工場構内八坂寮の階段をA12りながら(尤も、1112第三回A8調書ではその場所もただ八坂寮でという漠然たるものになつている。)自分が「汽車は何時か」と聞いたところ、被告人A1が「二時四〇何分だ」と答えたので、私は変なことを言うなあと思つて、「帰る汽車何時だ」と聞き直すと、被告人A1は「九時半だ」と答えたという趣旨のものに過ぎない。A5自認はこれを記憶の薄弱か意識した嘘による虚偽の供述か、将たまた真相の留保とみるべきかの問題は、兎も角(被告人A5の1110第二回A8調書、1110A7調書、1112第三回A8調書、第一審第四五回公判における同人の証言以後の供述、第一審第七八回公判における同人の供述、第二審第五八回公判における証人A8の供述参照)、いずれにしても、A5自認そのものは、何ら本謀議の存在を肯定した供述ではないのである。

その上、原判示の被告人A5が昭和二四年八月一六日までに国鉄側被告人らの少くとも一部の者との間に、列車顛覆に関し謀議を遂げていたとか、A2側に対する所要の連絡をなすべきことを協議していたとかいう点に至つては、原判決は何らこれを首肯するに足りるだけの証拠を挙示していない。また、本謀議の内容の一つとされている「列車顛覆には国鉄側からはA12、A13、A4の三名が赴く」との連絡事項に関しても、国鉄側において既にその時までに、被告人A13が顛覆作業に参加することにつき、同人の諒承を得ていたという明確な証拠は何ら掲げられていない。原判決によれば、被告人A5はただ本謀議に参加したことのみによつて、共謀共同正犯として、共犯としての責任を問われているものであるところ、共謀共同正犯における共謀または謀議は罪となるべき事実であつて、その認定は厳格な証明によらなければならないものであることは、当裁判所の判例とするところである(昭和二九年(あ)第一〇五六号、同三三年五月二八日大法廷判決、集一二巻八号一七一八頁)のに、右のような諸点については、かかる厳格な証明があつたとは到底みがたいのである。

しかも、本謀議は内容的にも甚だ不合理なものを含んでいる。すなわち、諸般の証拠(特に、証第八号の「入門券」)によれば、被告人A5が当日A2松川工場を訪れたのは午前一一時五八分であるが、その時は顛覆さすべき列車の前の列車たる一五九貨物列車の運休は未決定であり(第一審第五一回公判における証人A40の供述、原審第八四回公判における証人A41の供述によれば、その運休が確定したのは同日午後一時頃で、同日午後五時一〇分頃までにはそれが各関係駅に通報されている。)、同人はその運休確定を知らずしてA2松川工場に赴いたことにならざるを得ないし、本謀議が行われたという同日午後九時頃までに被告人A5がその決定の連絡を受けていたと認めるに足りるだけの証拠は掲げられておらず、旁々、午前一一時五八分に入門した被告人A5が午後九時頃になるまでその重要な任務を放任していたとの原判決の認定には疑問があるといわなければならない。なお、原判決によれば、本謀議は、原判示第三、(二)の前示謀議との関連において意味があるものとされているものであるところ、既に検討したように、若し原判示第三、(二)の謀議の存在に疑があるとすれば、本謀議存在の余地まで疑わしくなり、その他、本謀議があつたとされている頃の前示八坂寮における人の出入についての関係諸証人、被告人らの各供述は、原判決もいうとおり、実に千態万様であつて、そのいずれを採るべきかの判断に苦しむようなものであること、および、前記のとおり、A1自白、A20自白は本謀議の出席者に被告人A19を加えているのに、当のA19自白には、何ら本謀議についての供述が見当らないことは、被告人A19がこの謀議に参加しなかつたことの証左であるというよりは、むしろ、本謀議の存在を疑わしめる事情であるように認められ、かかる重要な謀議がA2松川労組組合大会終了後の僅々五分間位の間に至極簡単に行われたという原判決の認定にも無理があるといわざるを得ない。

以上のとおりであつて、原判決がその挙示するような前記証拠によつて本謀議の存在を肯定したことには疑問があるといわなければならない。

三、結論

右のように、原判示第三、(一)ないし(五)の各謀議のうち、前示第三、(二)および同(三)の二つとも、その存在に疑があるとすれば、国鉄側とA2側との連絡は断ち切られることにならざるを得ない。蓋し、原判決によれば、原判示第三のその余の各謀議は、互に相手方の参加と協力とを予定または前提とするが如き内容のものであつたとされているのであり、しかもこれらの各謀議は、右二つの連絡謀議を介して相互に結びつき、被告人A18、同A23を除くその余の国鉄側被告人七名とA2側被告人八名とが順次列車顛覆に関し共謀をしたことになつているからである。しかも、原判決によると、本件実行行為は、それがバール、スパナの持出であると線路の破壊作業であるとを問わず、また本件アリバイ工作といえども、すべて、右第三の謀議に基いて行われたものであるというのであり、本件実行行為、アリバイ工作は原判決認定の謀議、殊に国鉄側とA2側との連絡謀議なくしては到底考えられないところのものである。従つて、若しこれら二つの連絡謀議の存在に疑があるとすれば、それは自然他の謀議、ひいては実行行為、アリバイ工作、結局本件事実全体の認定にまで影響を及ぼすものと考えざるを得ない。

尤も、これに対しては、仮りに右二つの連絡謀議の存在に疑があつたとしても、その余の謀議、実行行為、アリバイ工作にして各その認定ができる限り、国鉄側とA2側との間に何らかの連絡があつたことは自ら明らかであるとする考え方や原判決が判示第三の各謀議を認定する証拠として挙示しているものないし本件記録中の諸証拠を根拠として国鉄側とA2側には何らかの連絡がなされた疑が濃厚であるとする見方があり得る。

しかし、右は強いて、前示二つの連絡謀議に代るべき何ものかを想定しようとするものであつて、もとより、原判決の認定の趣旨に副わないところであるばかりでなく、共謀共同正犯における共謀または謀議は罪となるべき事実であつて、その認定は厳格な証明によるべきものであることは、前記のように、当裁判所の判例とするところであり、また当裁判所としては、既に述べた如く、諏訪メモ等を公判に顕出したに止り、何ら事実審におけるが如き事実の取調はしなかつたのであるから、検察官すら主張せず、従つてまた原判決も認定しなかつたような、共謀または謀議に類する事実を、ここに自ら新しく認定するが如きことは、上告審たる当審として、なすべきことではないのである。

以上考察し来たつた如く、原判決認定の判示第三、(二)および同(三)の謀議には二つともその存在に疑があつて、原判決中被告人らに関する部分は、結局、すべて、判決に影響があつてこれを破棄しなければ著しく正義に反する重大な事実誤認を疑うに足りる顕著な事由があるものといわなければならない。

よつて、その余の事項に関する判断はこれを省略し、刑訴四一一条三号、四一三条本文に従い主文のとおり判決する。

この判決は、裁判官田中耕太郎、同A42克、同垂水克己、同A13潔および同下飯坂潤夫の各反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。

裁判官田中耕太郎の反対意見は次のとおりである。

多数意見は、法技術にとらわれ、事案の全貌と真相を見失つている。しかもその法技術自体が、証拠の評価と刑訴四一一条の適用において重大なる過誤を犯している。従つて私として到底承服することができない。

一、供述の信憑性について

多数意見はA1自白、A5自認およびA20自白の任意性は否定しないが、その供述の信憑性について疑いがあるものとする。ところで任意性は有無のいずれかであり、その中間はあり得ない。しかるに信憑性になると無数の段階が存在する。

多数意見が供述の信憑性を疑う理由は、同一人の供述内容相互の矛盾とくに度重なる変転に存する。しかしながら矛盾した供述が犯罪事実(共謀の事実もふくめて)全体に対して重要な意味をもたない場合においては不問に付しても差しつかえない。このことはとくに、しばしば引き合に出されたいわゆる「顛覆謝礼金」に関する供述についていい得られる。これは任意性の存否を判断するについての一つの参考資料にはなり得るが(尤も私はこれによつて任意性を否定しない)、犯罪事実の存否には直接関係がないから、これを切り離して考えなければならない。さらにこれについての信憑性の疑いの存在を以て問題になつた他の諸点に関する供述の信憑性を否定する根拠とはなし得ない。

我々は例えば八月十三日にA1が単独で福島に出かけたか、A15と同行したかどうかの事実に、本件犯罪事実の認定上重要性を認める必要がない。またA15が八月十五日午前に松川から福島に出かけたかどうかについても同様である。かりにこれが「諏訪メモ」によつて否定されても、A15の実行行為参加の事実が否定されないかぎりは、その刑責に影響があるとは考えられないのである。ところが上告論旨はこれらの点を非常にクローズ・アツプし、これが否定されると、犯罪事実の存在自体が架空に帰するかのように主張し、そうして多数意見がこれに引きこまれてさような錯覚に陥つたのである。

本件においてとくに争われた原判示第三、(二)の謀議(八月一五日正午頃からの国鉄福島支部におけるA15参加の連絡謀議)および同(三)の謀議(八月一六日午後九時頃からのA2八坂寮におけるA5による連絡謀議)が、本件犯罪事実の認定にどの程度の重要性をもつているかは別問題として、かりにその重要性を認める多数意見の立場をとるとするも、単に供述の間に矛盾変転があるからといつて、これらの二謀議の存在を否定するのははなはだ早計である。裁判官は種々の原因や動機から無意識的にまたは意識してなされる真実と虚偽が混合した供述から真実を把握するのである。裁判官は同一人の二つの矛盾した供述のいずれか一つを真とすることもできれば、その二つの真実性を否定することもできるのである。矛盾した二供述は相殺されて零となるものではない。

多数意見は変更や虚偽をふくむA1自白について、「被告人A1が他意あつて殊更に事実を曲げて供述したことによるものとみるべき節もないとすれば、それは同人が……ただひたすら迎合的な気持から、その都度取調官の意に副うような供述をしたことによるものではないかとの疑さえあつて、どこまでよく真実を述べたのかまたどの供述に真実があるのか、その判断に苦しまざるを得ない」という。また変化の多いA1自白について「同自白中の本謀議に関する部分を特に信憑性があるとしなければならないような特段の事情があるとも思えない」という。多数意見は供述に矛盾、変化がある場合に、反証のないかぎり一応信憑性のないものと推定する、我々には全く耳あたらしい理論を提唱しているようである。同じ論理からすれば、供述が一致一貫している場合に一応信憑性あるものと認めなければならないであろう。しかし証拠評価についてかような法則はどこにも存在しないのである。

原審は、A1自白について全然疑いをもたず、安易に結論に到達したのではない。それは多数意見が引用するように、「A1自白が何分にも変化が甚だしく、他に有力な補強証拠がなければ到底措信し得ない」と認めつつ、しかも直接審理にもとづいて熟慮を重ねて慎重に判断を下したのである。かような点に事実審裁判官の苦心が存するのである。

裁判官の証拠評価はいうまでもなく自由である。この評価は直接審理をした者でなければ容易にできないことである。上告審の裁判官たる我々としては、根本的な点に関し明かに経験則に反するような認定が存しないかぎり、第一審九十五回、第二審百十一回開廷し、証人延べ二百四十人以上を取り調べて到達した結論を尊重せざるを得ないのである。

二、謀議について

次に多数意見は共同正犯について存すべき謀議の概念をはなはだ窮屈に解している。

およそ数人が共同して犯罪を実行した場合に、共同意思が存在するのは当然である。これは個人犯罪の場合に意思が存在するのと同様であり、上告人側が主張するごとく実行行為から逆算して存在を擬制するものではない。意思と行為とは同時存在である。ただ共同正犯の場合においては共同意思の成立に比較的長い時の経過をとることがあること、また実行行為には加わらないで、共同意思の成立だけに参与した者(共謀共同正犯)があり得ることが個人犯罪の場合とちがつている。

共同意思はただ存在が確認されればよいのであり、その成立の過程は問題ではない。要求されるのは単なる意思の合致だけである。これは英話のアグリーメント、(合意)ドイツ語の「共同の決意」(ゲマインザーメル・エントシユルス)である。従つて「共謀」とか「謀議」とかいう表現は、数人の者が一定の場所で一定の日時を定めて集合し、座長をきめて一定の事項を決議することを必要とするかのように受けとれるから、適当とはいえない。いわゆる「共謀」、「謀議」は意思の合致を招来する一つの経過、一つの方法にすぎない。その以外に種々の経過、方法が考え得られる。従つてドイツでは学説で「共同の決意」には「前もつての相談」は必要でないとされている。また決意の成立が黙示的でもよいという判例がある。大規模な犯罪を秘密裡に計画する場合には、前にのべたような「謀議」などしないで、ある者が指令を出すとか、電話、手紙、街頭連絡とか、他の集会の機会を利用するとかの方法をえらぶにちがいない。また共謀が存するためには関係者が相互に氏名を知ることは必要でなく、会合した度数のごときも関係がないのである。

英法のコンスピラシーにおける「合意」も、身振によつてもよく、合意当事者間の役割や実行に用いる手段の決定は必要でないとされている。コンスピラシーの訴追における合意の立証の仕方は、通常それが機敏かつ秘密裡に行われるから、非常にゆとりのあるもので差しつかえないとされている。英法では日本とちがつて実行行為が存せず、謀議だけで犯罪を構成するにかかわらず、さように解せられているのである。

ところが多数意見による「謀議」の概念は以上のべたところの考え方とはほど遠い、社会的現実からかけ隔つたものである。尤もこの点では原判決も「謀議」の概念にとらわれたような部分もある。

およそ本件において第一審判決と原判決が認定している相次いで行われた数個の謀議は、事案全体から見れば巨大な山脈の雲表に現れた嶺にすぎない。それらを連絡する他の部分は雲下に隠されている。我々がもしその隠れた部分を証拠によつて推認することができるならば「謀議」の存在を肯定できるのである。我々は雲表上の部分をひろい上げて、これのみを意思合致の立証に本質的なものと考えてはならない。この故にかりにこれが自白の任意性または信憑性の欠如から否定されても、雲の下の部分が立証されているかぎり、それは意思合致の立証方法として十分である。従つて上告人側が極力攻撃するところの、「何人かから何等かの方法によつて連絡を受けこれを承諾した」という原判決の判示以上に認定できない場合があるにしても、上にのべた「謀議」の性質上やむを得ないのである。

要するに謀議、というのは意思合致を立証するためには、その成立の経過があらゆる節々において明かにされ、首尾一貫した一つの物語として表示される必要は少しもない。自白がいやしくも任意性あり、信憑し得べきものなら、「片言隻語」でも足りるのである。

多数意見は「共謀共同正犯における共謀または謀議は罪となるべき事実であつて、その認定は厳格な証明によらなければならない」とし、原判決が諸点について厳格な証明を欠いていることを主張している。しかし「厳格な証明」とは適法な証拠調を経、反対尋問にさらされたという手続的の意味のものであり、上述のような、いわゆる共謀共同正犯における謀議の性格に適合する立証の仕方と裁判官の自由心証を否定するものではないのである。

三、連絡の切断について

多数意見は第二の重大な誤謬を犯している。それは原判示第三(二)と同(三)の謀議の存在に疑いをいだくことのほか、この疑いを前提として「国鉄側とA2側との連絡が断ち切られることにならざるを得ない」と断定したことである。これは事実を無視した形式論理である。雲表に現れた四つの嶺の中中間の二つが雲に隠れたからといつて、他の二つが消えるわけはないと同様である。残存する謀議はそれら立証されているかぎり独立のものとして事実上存在し、時間的に先行するものの存否によつて影響を受けない。かりにAの謀議によつてBの謀議を開くことが決定されたとして、Aの謀議の存在が否定されても、それはBの謀議の存在に当然影響するものではない。多数意見が「二つの連絡謀議の存在に疑ありとすれば、それは自然他の謀議、ひいては実行行為、アリバイ工作、結局本件事実全体の認定にまで影響を及ぼすものと考えざるを得ない」といつているのは、相互に独立した事実の間に常に因果関係が存在しなければならぬかのごとき錯覚に陥り論理的飛躍を犯すものであり、到底肯定することができない。

かりに二個の連絡謀議が否定された場合に、国鉄側とA2側との連絡の事実は、当然否定されなければならないか。ところが原判決の挙示する各証拠中連絡の事実を肯定するに足るものが実に多数存在する。これらは被告人A4の供述(10・1A26調書)中のA11、A12の各発言とA4自身の供述、A4の供述(10・2A7調書中)、A19の供述(10・5A7調書)、A20の供述(10・7A7調書、10・11A6調書)中のA14の発言とA22の供述(10・18A8調書)中のA1の発言である。これらの証拠からして八月十五日前後に国鉄側とA2側との連絡があつたこと、列車顛覆の実行行為の場所、時刻、双方からの参加者の名と人数、バール、スパナの盗み出し分担者の名と人数等が判明し、共同意思が成立したことがきわめて明瞭である。とくに国鉄側からA12、A13、A4の三名が、A2側のA15、A19の二名よりも現場に早く到着したので、A2側を迎えに遠方信号の所まで線路伝いに赴き、そこでA2側と出逢つて一緒に現場に引き返した事実(A4、A19両自白参照)は、国鉄側とA2側との間に事前の連絡があつたことの何よりの有力な証拠である。本件の性格や意思合致が前述のように隠微の中に行われるを常とする実状にかんがみるときに、我々は連絡の事実についてこれ以上有力な証拠を期待できないのである。

多数意見は上述の考え方を「強いて、前示二つの連絡謀議に代るべき何ものかを想定しようとするものであつて、原判決の趣旨に副わないところである……」というが、原判決としては二つの連絡謀議について確信をもつていたからこそ連絡の事実の立証をこの二つの謀議にかからしめたのである。もしこれらの謀議が崩れ去るおそれのあることを予想していたならば、原判決は必ずや前にかかげた諸証拠をも予備的に挙示して連絡の証明手段として利用したにちがいない。原判決が一層周到に、連絡の事実の立証を二つの謀議だけに集中しないで、もつと包括的に前示の諸証拠を引用していたとすれば問題はなかつたのである。のみならず原判決が二つの謀議を認定するためにかかげた証拠標目は排他的網羅的のものとはいえない。すなわちそこにかかげられなかつたものでも適法な証拠調を経ているものなら、その事実の認定に供されていなかつたと断定することはできない。

これらのことは結局大局には関係のないところの、立証すべき事項と証拠の挙示に関する純然たる技術的の問題を出でない。多数意見は私が上にのべたような見方を原判決の認定の趣旨に副わないとするが、その実多数意見こそ原判決の趣旨を理解していないのである。

多数意見はかような見解を、「原判決も認定しなかつたような、共謀または謀議に類する事実を自ら新しく認定するごときは、上告審たる当審としてなすべきことではない」とする。しかし「共謀」「謀議」等の有無は別問題として、とにかく意思の連絡、共同意思の成立が認められればそれでよい。これは原判決が取り上げてきたところであり、これを原判決挙示の諸証拠で認めることは、新たな事実を認定することでもなければ、上告審の権限を逸脱することでもない。

要するに多数意見は国鉄側とA2側との間に連絡が成立した経緯を、前後首尾が論理的に連絡した手続的な関係と見、その一節に疑いがあることによつて爾後の手続全部に疑惑が生ずるように解している。それはあたかも相次ぐ手形の裏書において一つの裏書が不適法の場合には爾後の裏書は連続を欠くことになるというような、民事法的理論を、これと全くちがつた刑事裁判における事実認定に杓子定規に適用したようなものである。かような論理的の誤謬の結果、多数意見は二つの連絡謀議に対する疑いが「自然他の謀議、ひいては実行行為、アリバイ工作、結局本件事実認定全体の認定にまで影響を及ぼす」と考えた。これは我々として到底認め得ない形式論理である。

四、刑訴四一一条三号の適用について

次に一応多数意見の立場をとることを想定して、これが刑訴四一一条三号、四一三条本文を適用し、主文の破棄差戻の結論に到達した点を考察する。

私は原判決とその証拠資料からして、さらにいわゆる「諏訪メモ」を考慮に入れての上で、原判決に刑訴四一一条三号の「判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認」があるとは考えない。同条は上告審の使命性格にかんがみ、それが事実誤認の理由によつて原判決を破棄できる場合をいちじるしくしぼつている。破棄をする場合には、

(1)まず事実誤認が些細なものでは足らず、重大なものであることが要求されている。これは控訴審については要求されていないことに注意しなければならない。重大性の判断は誤認された事実が事件全体に対して有する価値からしてなされる。この価値判断は審理の全経過、記録全体にもとづいてなされなければならない。

(2)次に重大な事実誤認が存在しても、それが判決に影響を及ぼす程度のものであることが要求されている。「判決に影響を及ぼす」というのは有罪か無罪かの決定および刑の量定を左右するものと解すべく、判決理由に影響があるだけでは足りない。

(3)さらに「原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認める」ことが要求されている。正義に反するとは人間に備わつている自然的な正義感情から承認できないような結果になることである。すなわち罪を犯した者が処罰を免れたり、罪を犯さない者が処罰されたり、刑の量定がはなはだしく不当であつたりする場合には著しく正義に反するといえよう。

刑訴四一一条三号の適用は要するに刑事司法の全精神と上告審の使命性格からしてなされなければならない。その精神はたとい原判次に些細な事実誤認、瑕疵があろうとも、事案の全体的評価からして結論において重大な不正義が存在しないかぎりは、原判決を維持すべく、よほどの不正義が存する場合にはじめて原判決を是正するという趣旨である。従つて本条は上告審裁判官に対し、原判決の各局部に対する法技術的な批判を、さらに大所高所からして総合的に再批判することを要求し、そのためにははなはだ広汎な裁量権を裁判官に与えているのである。

ところで多数意見は刑訴四一一条三号を適正に解釈適用したであろうか。一歩譲つて問題になつた二連絡謀議の存在が多数意見の認めるように疑わしいものとする。しかし国鉄側とA2側との連絡の事実を推認し得る証拠資料は記録中に実に数多く存在していること上述のごとくである。ところで上告審がこれらを援用して連絡の事実を認定することを、多数意見は原審が認定しない事実を新しく認定するものとして排斥する。かりに一歩譲つてこの見解を是認するにしても、記録全体からして連絡の事実が推認できるなら、少くともこの事実は原判決に「判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認」が存在しないと判断することについての有力な資料となり得るのである。というのはかような判断は、技術的の意味の証拠による事実認定とは全然別個の観点からなさるべきものだからである。

さらに本件の焦点は何んといつても、第一審判決と原判決が認定したような列車顛覆の犯罪事実が被告人等によつて計画、実行されたかどうかに存する。原判決挙示の証拠によつてこの事実を肯認すると否とは、刑訴四一一条三号の適用に重大な関係がある。何となればこの事実の存否の認識は、事実誤認が重大なるかどうか、判決に影響を及ぼすかどうか、また原判決を破棄しなければ著しく正義に反するかどうかの判断に重要性をもつているからである。ところで多数意見者は二つの謀議に対する疑いによつて連絡が切断されるという形式論理から、本判決理由において爾余の点とくに実行行為の問題に立ち入らなかつた。もし多数意見者がこの重大問題について何等かの心証をももたずに四一一条三号を適用したとすれば、多数意見者の考え方は理論的に誤つている。もし多数意見者にして心証として犯罪事実を肯認しているとすれば、同条の裁量権の行使による破棄は不当といわなければならない。もし犯罪事実が上告趣意書の主張するごとく架空なものと認めるなら、原判決を破棄し、無罪の判決をなすべきである。

原判決が、最も重要な問題である実行行為の有無をはなれて共同意思の成立に関する過程の一部に存する、本質的でない事実の誤認(かりにそれが存するとするも)によつて破られることは到底理解できない。それは実行に関係しなかつた者の中誰れが謀議参与者になるかの問題たるにとどまる。

五、各グループだけの謀議と実行行為について

次に多数意見のように、原判示第三(二)と同(三)の謀議が疑わしいものと仮定しても、また国鉄側とA2側との連絡を他の証拠によつて認定できないものと仮定しても、原判示第三(一)の、八月十五日午前十一時頃のA9等国鉄側だけの謀議と、第三(四)の、同月十六日午後九時半頃からの、A14等A2側だけの謀議および第三(五)の同月十六日夜のA13等の謀議は立証されている。多数意見は連絡の事実をその他のすべての事実に先行し、他の事実の存在の前提条件であるように観念し、これを過大に評価するが、これらの謀議について証拠が存在するかぎり、その存在を否定できないのである。そうだとすれば、実行行為がなされたことが立証されるかぎり、すなわち国鉄側としてはA9、A10、A11、A12、A4、A13の六名の被告人とA2側としてはA14、A16、A15(実行行為に参加した点で)、A17、A19、A21、A22、A20、A18、A23の十名の被告人は、あるいは各謀議参加者、あるいは実行行為者としての、あるいはその幇助者としての責任を免れ得ないことはきわめて明瞭である。

多数意見のように連絡が断ち切ちれると見ると、国鉄側とA2側とは実行行為において偶然に競合したことになる。かような結論は経験則上到底認めることができない。かりにしかりとするも各グループに所属した者の責任は否定できない。

かりに多数意見に従つて二つの謀議を疑わしいものと認めるなら、上掲の被告人中A5については残余の謀議に参加した証拠がなく、また実行行為に参加していないから、この事件に関係がなくなり、無罪ということになる。

二つの謀議がのぞかれることは、爾余の被告人等、とくに謀議のみに関与した実行行為者でないものの量刑に影響を及ぼすことがないかどうか。量刑については、私は謀議に何回参加したかは問題ではなく、本犯罪の共同の意思の決定と実行にどれだけ関与したかだけが問題となると思う。つまり謀議への関与については量ではなくて質が問題である。従つて二つの謀議がのぞかれても当然に関与者の量刑に影響を及ぼすものとはいえない。

六、結論

要するに多数意見は原判示第三(二)と同(三)の謀議がその存在に疑があるとして刑訴四一一条三号と四一三条本文に従つて、原判決中被告人らに関する部分を破棄し、本件を仙台高等裁判所に差し戻すべきものとした。従つて多数意見はその余の事項に関する判断を省略した。私も多数意見に対する立場を明かにすることに限局した。結論として私は原判決を根本において正当と認めて維持し、本件各上告を理由ないものとして棄却すべきものと考える。何故に本件犯罪事実の存在を疑わないかについて、および各上告趣意についての私の意見は、垂水裁判官の意見と大綱において同様である。

附言する。多数意見者は事件発生以来十年を経過しようとしている今日でも、本件を第二審裁判所に差し戻すことによつて、なんらかの新しい証拠資料が見出され、真実の発見に資するものと思つて差し戻したものであろうか。犯罪事実を立証する証拠は記録の示すものだけで十分である。新な証拠は到底期待できず、またその必要もない。もしかようなことを期待しないで、連絡に関して、前に述べたような立証すべき事項やこれに対する証拠挙示というような純然たる法技術的な点に関して瑕疵があると考えて、これを是正せしめる意味で差し戻すならば、これはいたずらに下級審に負担を課するだけで、有害無益である。かような場合にこそ差戻の廻り道をさけて、刑訴四一一条三号に当らないと認めて上告を棄却すべきである。いずれにしても差戻の結果は、審理のためさらに第二審第三審数年という年月を要することになりそうである。これでは裁判の威信は地を払つてしまう。

私は多数意見者がこれらの点に全く思いを致さなかつたとは考えない。それにもかかわらず多数意見が破棄差戻にふみ切つたのは、主としてその謀議に関する見解とその上告審観とくに連絡の事実を他の証拠によつて認定することが、原判決の認定しない新な事実の認定になるから上告審としてできないという、先にのべた解釈に起因しているのである。これは一見理論的、良心的かのように思われる。しかしかような主張はおそらく何人も、法律専門家であつても容易に理解し得ないところである。それは刑訴一条の示す刑事訴訟法の目的に副わないのみならず、犯罪事実の認定に関する実務上の経験からはなはだしく遠ざかつた結論である。

私は罪を犯さない者が処罰せられたり、十分な証拠がないのに処罰されたりすることがないことが、刑事司法の鉄則であると確信する。同時に罪を犯した者が、十分な証拠がある場合に処罰さるべきこともまた根本原則であると確信する。憲法や法律に拘束されながら、しかも木を見て森を見失わないこと、法技術の末に拘泥して大局的全体的判断を誤らないこと、これ裁判所法が最高裁判所裁判官に法律の素養とともに高い識見を要求している所以である。我々として最高裁判所の在り方について深く思いをいたさざるを得ないのである。

裁判官垂水克己の反対意見(但し冒頭第一のその一の合憲論、第二のその九までの任意性論などは補足意見)は次のとおりである。

被告人等に関する原判決には、これを破棄しなければ著しく正義に反するような重大な法令違反、事実誤認はなく、論旨主張のような憲法違反もない、本件上告はすべて棄却すべきである、との結論に私は到達した。その理由として注意すべきものを以下にのべる。

第一法律問題

その一 原審は「公平な裁判所」でないか(先決問題)

弁護人田中吉備彦上告趣意第一点は次のように主張する、「本件の審判をしたA9、A13、佐々木三裁判官によつて構成された仙台高等裁判所第一刑事部は憲法三七条一項にいう公平な裁判所とは認められない。公平な裁判所とは、まず、その構成の上で当事者の一方に不当に利益または不利益となる裁判をするおそれのないようにされている裁判所を意味すること判例の示すところである。裁判官の配置、裁判事務の分配等は毎年あらかじめ当該裁判所の裁判官会議の議によつて定め(下級裁判所事務処理規則六条一項)、個々の事件は右定められたとおり単独裁判官もしくは合議体(部)に機械的に順番で分配されるべきで、人為的、政治的に分配されてはならない。裁判官の選択を裁判所の長や裁判官会議がすることも許されない。本件分配に適用された昭和二六年度同裁判所事務分配規程二条末項の「裁判官会議において特に他の部に配布することを適当なりと認むる事件は適当にこれを配布する」との規定も違憲性を持つ。当時の同裁判所石坂長官の書簡によるとその指図に従い人為的に本件は右刑事部に配付されたように認められるから原裁判所は構成上憲法の右条項にいう公平な裁判所でない。従つて原審における審理も判決もすべて無効である。」と。

当裁判所大法廷判例は、「憲法三七条の「公平な裁判所の裁判」というのは構成その他において偏頗の惧なき裁判所の裁判という意味である、かかる裁判所の裁判である以上個々の事件において法律の誤解又は事実の誤認等により偶々被告人に不利益な裁判がなされてもそれが一々同条に触れる違憲の裁判になるというものでない。」とする(昭和二二年(れ)一七一号同二三年五月五日判決)。

ある一つの裁判所の内部(並に管下簡易裁判所)における裁判官の配置、裁判事務の分配等は、毎年あらかじめ相当の資格経験ある裁判官の会議(旧裁判所構成法下の部長会議、現裁判所法下の裁判官会議)の議によつて決めるべきこと明治二三年の裁判所構成法、最高並に下級裁判所各事務処理規則の定めるところで、そのねらいとするところは、裁判所内部における裁判官の負担のバランスを図ることのほか、各裁判所の内部構成、民刑事件の分担等に関する限り、外部の干渉を排し当該裁判所の自治に任かせ、よつて民刑裁判の不覊独立公平を確保するにある。裁判官の配置、事務分配等の決定は司法行政に層するが、少くともこれだけは性質上、みだりに上級裁判所も干渉することを許されない。けだし、好悪によつて、当事者が裁判官を選び、裁判官が事件を選び、また、第三者殊に行政部が事件の担当裁判官を選ぶことは裁判所の独立をおびやかすこと甚しいからである。特に、事件が起つてから、君主、行政部がこれを裁判すべき臨時的査問委員会を組織しその裁判官を選定する如き憲法前時代の特別裁判所はヨーロツパ諸国民がその弊害の深刻なのに懲りわが憲法が継受したように憲法をもつて特別裁判所を禁止しているところである点に鑑みれば、特定事件についての行政機関による裁判官の選定に類する措置は司法権の独立のため厳格に避けられなければならない。

では、事件は当該裁判所に受理された時点に従い順次各部に機械的に配付されるべきか。否、もし、そうすると、同じ部に巨大事件が重複してその審判に長年月を要し、裁判官の健康、定年期の切迫などにより、その他、克服し難い困難に直面することが起る。また民事刑事の当事者が予め事件配付の順番を知るなら(これは不正手段によらないで知ることも可能であろう)、事件が自己の欲する部に配付されるべき時期をねらつて訴や上訴をすることもできる。それゆえ仙台高裁の所論分配規程二条が裁判所自治の精神に従いその最高司法行政機関である裁判官会議において事件を順番通りでなく適当に配付できるように規定したことは相当であつて違憲でない、と私は解する。

そして、本件があらかじめ同裁判所裁判官会議の議により第一刑事部において配付を受け審判することに決せられ、その後この決議に変更を見なかつたことは記録中の当裁判所の照会に対する村田同裁判所長官の報告によつて明らかである。石坂書簡がいわれるようなものであるなら、これは原判決言渡後A9順次郎裁判官個人に宛てて出された私的書状で、もし同裁判官が読んだ後は裁判所の公の書類綴りに綴り込む筈のない性質のものであり、弁護人に入手の経路は不明であるが、その内容からは石坂長官の所論のような特別の指図はうかがい得ず、他にこれをうかがうべき資料はない。記録上石坂裁判官にはこれについての説明は求められていない。もし、これについて石坂現最高裁判所判事に此の間の事情の報告を訴訟上求めることになつた場合には、同裁判官は証人たる立場に立つ訳である。上告審裁判官が違憲の論旨における原裁判所の構成が公平でなかつたという事実上の理由の真否を判断ずるに当り、一面証人たる立場に立つことは、本件裁判官の地位に立つことと相容れない。少くとも合議の際には、刑訴法二〇条四号の「裁判官が事件について証人となつたとき」に当る結果をもたらすだろうから、除斥の理由となると私は考える。そしてこのことを理由として裁判官本人が回避を欲するにおいては回避を理由ありとしてよい、と、私は考える。

さて、石坂仙台高裁長官が当時独断で裁判官会議の議によらず本件を右第一刑事部に分配すべきことを指図した事実ありとせば、前記判例の趣旨からいつて、原判決は「構成その他において偏頗の倶なき裁判所の裁判」といえるか否か。これは、まさに、当裁判所として判断すべき憲法問題であつて、しかも先決問題であること明らかである。

もしその構成が違憲なら、われわれは原判決内容における他の法律判断、事実判断に立ち入ることを許されず、原審での被告人陳述、証人、鑑定人尋問、検証等の結果も一切本件において証拠とすることを許されない筈である。この論旨に対し多数意見が単に「違憲の主張に関しては幾つかの判例をみており(例えば憲法三七条一項にいう公平な裁判所の裁判の意義についての昭和二二年(れ)第一七一号同二三年五月五日大法廷判決、)」と判示するに止めた理由は判らない。当裁判所は弁論を聴き原審で取調べた証拠をも職権調査して事実誤認の実質判断に入つた以上、原審の構成を合憲と判断した筈である。田中上告論旨が右判例を挙げて原審判の違憲を主張するのに、そういう判例があると判示するだけではナンセンスである。本件差戻後の審理のためにも最高裁判所らしく正面から明らかに適憲性を判示し今後の紛議を一掃すべきであつた。しかし、多数意見は結局黙示にその適憲性を判示していると私は解するから、(他の少数意見裁判官も恐らくそうであろう)、この部分の私見は結論において多数意見の補足意見となろう。

その二 共謀共同正犯に関する法律関係

一 実体刑法関係

AがBを教唆しよつてBが犯意を生じて犯罪に着手し、あるいは、Aが責任能力もしくは故意なきCをそそのかしよつてCが客観的には犯罪に当る行為をしたときは、Aは自分が正犯としてしたのと同じ刑事責任を負担する。もしBやCが実行に着手しなければAは罪責なく、また、B・Cが、既遂のとき、更に結果発生のときは、Aもそれに応じて既遂なり結果なりについて罪責を負担する(従属性)。この場合Aは他人の行為を利用してその意思を実行に移すものといえる。共同正犯の場合にも右教唆や間接正犯の場合と同様に考えられる。

「いわゆる共謀共同正犯が成立するには、二人以上の者が特定の犯罪を行うため、共同意思の下に一体となつて互に他人の行為を利用し各自の意思を実行に移すことを内容とする謀議をなし、よつて犯罪を実行した事実が存しなければならない」(昭和二九年(あ)一〇五六号練馬事件同三三年五月二八日大法廷判決)。

数人が、自分らの全員もしくは一員(さらに自分らとともにその犯罪を実行しようとする将来の同志)の手で、ある具体的犯罪を実行すべきことを共謀の上、その一員(ないし将来の同志)の手で実行したときは、共謀共同正犯であつて、共謀しただけの者についても「他人の行為をいわば自己の手段として犯罪を行つたという意味において」(右大法廷判決)共同正犯が成立する。

共謀は甲から乙、乙から丙へと伝承的になされうる(右大法廷判決)。かような場合、一般に、甲は、丙がどんな人(氏名、人物)であるかを必しも知る必要はない。また、丙が犯罪を実行するのに責任なき第三者を利用し間接正犯の方法により、あるいは、第三者を教唆したとしても、甲や乙の共謀者としての罪責の成立には消長を来さない。

また、「謀議は、犯罪の性質によつては、犯行の日時、場所、手段等につき必しも具体的にこれを決定するを要せず、犯罪実行の決意のみを連絡協議し、実行に関する具体的内容の決定は実行者の便宜に任しても犯罪の成立には差支えない」(大審昭一八・三・二判決)。

共同謀議は対談に限らず電話、手紙、街頭連絡などによつて行われるから、その成立の日時、場所は広きにわたることがありうる。

謀議にのみ関与した者の正犯としての犯罪の成立には、(1)謀議関与(2)これによる犯罪実行(並びに結果発生)の事実あることを要し、犯罪実行がなければ謀議関与だけでは罪とならぬ。この意味で謀議関与は、故意の態様の如き内界の事実でなく、外界の事実であり、「罪となるべき事実」(犯罪構成事実)の一部である。けれども謀議関与は「罪となるべき事実」の全部でないことは明らかである。共謀と実行との総体が共謀関与者にとつての「罪となるべき行為」である。罪証はこの総体について存することを要するが、共謀の部分の証拠は共犯者の自白のみによつて認めることも適法である(右大法廷判決)。

共謀は以心伝心意思を連絡すること等により黙示的になしうるか。右大法廷判決の触れないところであるが、私は積極に解する。すなわち、事情によりこれを認めることはできる。数人が現場で犯罪を共同実行する場合につき、判例が「共同正犯たるには、行為者双方の間に意思の聯絡あることは必要であるが、行為者間において事前に打合せ等のあることは必ずしも必要ではなく、共同行為の認識があり、互に一方の行為を利用し全員協力して犯罪事実を実現せしむれば足るのである。」(昭和二三年一二月一四日集二巻一三号一七五一頁現場で全員犯罪共同実行の場合の判例)というのもこの観念から出ている。この点は本件被告人A13、A12、A15、A19の罪責に関して大切な点である。

共謀のみに関与した者の犯罪着手の時期は実行者の着手の時期であるといえよう。この点は、間接正犯、教唆、事前幇助と同じであつて、共謀共同正犯も所詮は他人を利用しての犯罪であり、その成立に従属性を有する訳である。

忘れてならないことは共謀は「罪となるべき行為」の一部に過ぎず、それ自体独立の犯罪を構成しないことである。共謀のみに関与した者が一回共謀に関与しようと、二回共謀に関与しようと、これによる実行者の実行があつた以上、共謀者の共同正犯の成立には影響がない。単に犯罪の情状に影響するだけである。

二 訴訟法関係

(一) 推理による認定

上告論旨は、原判決は、例えば被告人A13は犯罪を実行したと認められるから共謀したと認める、共謀したと認められるから実行したと認めるというようにいうがこれは循環論法である、犯罪の実行を認めることから遡つて共謀を推認する如きは採証法則違反であると主張する。また多数意見は、被告人A5が原判示第三(三)の謀議にただ一回参加したことだけで共謀共同正犯としての責任を問われているものであるところ共謀は罪となるべき事実であつてその認定は厳格な証明によらなければならないのに右の点については厳格な証明があつたとは到底みがたいという。

およそ公判廷に出され適法な手続で取調べられた証拠能力ある証拠方法は厳格証拠である。かような証拠方法である以上間接証拠もまた厳格証拠であること多言を要しない。法廷に現われた証拠にはあるいは公訴事実の証明にプラスとなるもの、マイナスとなるもの、その信用性の差等種々のものがあろう。個々の証拠価値は証拠全体の証拠価値によつて影響され、証拠全体の証拠価値は個々の証拠価値によつて影響される。ある判決が認めた事実はその判決が採用措信した全証拠の推理による総合から生れたのであつて、採用された証拠は同時的に互いに補強し合うとされているものであり(循環論法ではない)、どの証拠もしくはどの事実が先に是認されたかを必ずしもいい得ない場合が多いのは当然である。同時に、原判決が採用した証拠中の一部が上告審において証拠能力もしくは信用性が疑われると判断してもその余の原判決採用の証拠によつて原判決の事実認定が是認されることがあることは勿論であり、判例も屡々肯定するところである。情況証拠、推理による事実認定が許されぬ法廷は世界に恐らくあるまい。(大審院時代に幾つかの判例、昭和二五年一〇月一七日同年(れ)七二五号第三小法廷判例がある)。場合により、結果から原因を推認し、実行の証拠が犯意や共謀の一証拠になることも許される。ウイグモアによれば、有罪の意識から有罪すなわち犯罪行為への推理は常に行われその証明価値は何人も疑わないという。ケニー教授はいう「英法では情況証拠なるが故に信用されぬということはなかつた。また直接証拠なるが故に情況証拠に優先すべしという法則もない」と。

(二)謀議回数が控訴審判決の認定したほど多かつたことを上告裁判所が是認できない場合

共謀のみに関与する行為は「罪となるべき事実」の一部ではあるが、それ自体独立の犯罪ではないから、ある被告人が数回謀議に関与したとの公訴に対し、一審裁判所がそのうち一回の謀議関与を認める場合でも、別に、その余の謀議(一罪の一部)について無罪の言渡をすべきでない。恰かも「脅迫と暴行を加えて強取した」との訴因に対し、裁判所が暴行のみによる強取を認める場合、別に脅迫の点について無罪を言渡すべきでないのと一般である。してみれば、控訴審判決が「脅迫と暴行を加えて強取した」事実を認定したのに対しても、上告裁判所は「脅迫を加えた点は是認できない、暴行を加えて強取した事実は是認できる」と判断した場合は原判決を破棄せず、上告を棄却すべきこと明らかであろう。(脅迫を加えたらしくないとの判断が上告審で取調べた新証拠によつてなされたとしても同様であろう)。また控訴審が甲の教唆による乙、丙、丁の共同犯罪実行を認定したのに対し、上告審は甲が教唆し乙が実行したことは疑わしく、丙、丁の共同実行の事実は是認できると認める場合、原判決中甲、乙に対する部分を破棄し差戻すのはよいが、丙、丁については事実誤認なしとして上告を棄却すべきことも当然の法理であり常識であると考える。判決は被告人個人別になさるべきこというまでもない。果してそうなら、本件原判決が認定した被告人A15の原判示第三(二)の八月一五日正午A3労組に赴きその幹部四名と謀議連絡した事実が、従つてA15が同日松川に帰つてA14、A1にこれを報告連絡しその賛同を得た事実が疑わしく原判決のこの部分が是認できないとしても、原判決中A15の加わつた他の謀議及び脱線作業加担の事実認定が是認できるなら同被告人一人に関する上告は棄却すべき筋合である。その他の被告人についても、もしA15の右一五日正午謀議関与の有無に拘わらず顛覆謀議もしくは脱線作業への関与あるいはその幇助が是認できるなら、それら被告人の上告を棄却すべき筋合である。原判決を見よ。例えば、A15はA19とともに現場に行きA4、A12、A13と脱線作業に参加している。この部分ほA4やA19が目撃したその旨の供述等もある。A4は判示第三(一)のようにA15が来ない前八月一五日午前一一時頃国鉄側被告人A12ほか三名と謀議しA12とは集合の時刻、場所まで打ち合わせそしてA15、A19が持つて来たバール、スパナを使つて脱線作業をしたと原判決は認定している。原判決の認定によれば、仮りに諏訪メモによつてA15参加の一五日正午謀議がなかつたとしても、当審としてこの実行行為の部分は動かないものとして是認できるにおいてはこの部分に関係するA15を含む被告人の各上告を棄却することのできる関係にある。

だから、原判決中A15関与の右謀議連絡以外の謀議関係、道具盗み出し及び脱線作業を認めた部分が是認でるか否かは当審として必ず検討しなければならない問題である。しかるに多数意見はこれを怠つている。多数意見は結論としていう「判示第三(二)(最初のA15参加の)、(三)A5参加の各謀議の存在に疑があるとすれば、国鉄側とA2側との連絡は断ち切られる。それは自然他の謀議、ひいては実行行為、アリバイ工作、結局本件事実全体の認定にまで影響するものと考えざるを得ない」と。

これはむしろ、ある謀議の存否が犯罪もしくは罪責の成否に如何なる影響があるかの法的価値判断には盲目で、単に原判決認定通りの謀議が是認できないときは破棄差戻すべしとする、そして問題の二つの謀議を除いて他の共謀ないし実行行為に参加したことの原認定を是認できるか否かを当審で判断することは許されないとする。理解できない説である。われわれは当審で新しく原審と異る事実を認定をしょうとはいわないのである。

われわれは各被告人別に原審認定事実のいずれの部分が是認できるか否か、是認できる部分によれば当該被告人の罪責は肯定できるか否かの事後審査をすべきであり、それには原判示の一切の共謀及び盗み出し、脱線作業、顛覆致死結果の全体を検討すべきであると信ずる。記録の読みが深くなく、普通のことである証拠全体の立体的総合判断、法的価値判断をしょうとしないで、部分をみて判決しようとすることはわれわれの到底、承服できないところである。

(三) 共謀の証拠

ケニー教授は「……計画的謀殺罪は直接証言により証明されることは殆んどありそうにない」といい、ウイグモアは、人の内心の意図、企図、計画はその人の言動により証明されるのが普通であるところから、本人の言葉を直接聞いた証人の証言によつて本人の意図、企図、計画を認定することは伝聞証拠禁止則の例外として裁判所の裁判の認めるところである、という。

英法のコンスピラシー(犯罪通謀罪)は合意(通謀)自体を犯罪構成要件とするが、この合意においては手段、役割を定め被害者を特定することを要しないとされる。その起訴状における犯罪事実の記載例は詐欺罪についていえば「A・BとC・Dは某月某日から某月某日までの間色々の日に某州において相共にかつ他の氏名不詳者等とともに他人に対し……との旨申入れその他人を欺岡すべきことを共謀したものである」という程度の包括的なもので(共謀回数も必ずしも明示するを要しないことに注意)、これは公判の進展に伴い変更されたり明確化されたりもしようが、その基本とするところは包括的な犯罪構成要件にあてはめての記載である。陪審は包括的な訴因事実の存否を判断するので、詳細な赤裸の事実を判断するのでない。イギリス陪審制を継受したフランス一七九六年法は公訴事実の存否につき陪審に発問する制度をとつたが、ある事件では発問数二〇及び三万、ある事件では六千に及んだという(法曹会雑誌七巻一〇号拙稿)。かような仕事は今日の陪審や裁判所の職能ではない。今日では、詳細な状情の把握は各陪審員によつて差異はあつても結局小異をすて大同に就き訴因を肯定できる点で一致するなら、陪審は罪責ありとの答申をすべきものとされる。これによつて事実及び罪責の決定は終り、公判は終る。判決書は作成されず陪審がどの証拠を措信したかは秘密に付される。

コンスピラシーもわが刑法下の教唆、共謀などと同じく他人に知れないようにすることが共通の特性であるためと思われるが、ケニ―によればコンスピラシーにおける合意の立証の場合、証拠の許される範囲は広いという。すなわち第一に、このような合意は通常機敏にかつ秘密裡に行われるから、これらの合意は通常は合意後の当事者の行為からの推論によつてのみ証明が可能である。……バラバラに独立した数個の行為に基いて一つの推測的解釈がなされ、これら推測的解釈の総合から一つの推論が引出される。かように必要とされる状況証拠は屡々広範囲にわたり、広く時を異にし遠く所を異にして行われた行為をも包含する。第二に、コンスピラシーの各当事者は合意に加わることにより互いに他の協同者を合意の目的実現のための自己の代人とするものである、従つて他の協同者によつてその目的達成のためなされた事後の行為は、被告人がコンスピラシーからの脱退通告後の行為を除き、すべて被告人に対する証拠として許容される、と。そして「コンスピレ―夕ーのうちの一人が共同意図遂行のためにした行為及び発言は、他のコンスピレーターに対する証拠とすることが許される。」という判例もあるようである。

アメリカ法でもコンスピラシーの証拠について判例は「具体的合意の証拠は有罪認定上不可欠のものではない」といい、また「情況証拠、被告人の行為等が合意のあつたことを推認させるものであれば足りる」という。

コンスピラシーにおいては通謀それ自体が客観的犯罪事実の全部でさえあるのに、コンスピラシーの証拠について以上のような考が行われている。以上のような考をわれわれは普遍的真理であり、特別立法のない限り世界いずれの法廷にも、わが法廷にも通用する性質のものであることは最早や疑ないと考える。

(四) 伝聞証拠

上告論旨は原判決の伝聞証拠採用の違法、違憲を主張する。

ドイツ、フランス、オーストリヤ、イタリヤには英米のような厳格な証拠法はない。わが旧刑訴法も同様であつた。が、現憲法が施行されるや刑訴応急措置法はその一二条一項において、「証人その他の者(被告人を除く)の供述を録取した書類又はこれに代わるべき書類は、被告人の請求があるときは、その供述者又は作成者を公判期日において訊問する機会を被告人に与えなければ、これを証拠とすることができない。但しその機会を与えることができず、又は著しく困難な場合には、裁判所は、これらの書類についての制限及び被告人の憲法上の権利を適当に考慮して、これを証拠とすることができる。」と規定した。

この立法の一つの参考となつたかも知れないと思われるのはアメリカン・ロウ・インスチチユート一九四二年公刊のモデルコード・オブ・エヴイデンス(模範証拠法典)である。これはアメリカのコンモン・ロウの不確実と錯雑とが反省された後、証拠法の権威者である学者、法曹達で組織されたその「証拠委員会」の労作で、一つの案である。その説明中に「出来事を覚知した人の報告した供述は、彼自身宣誓の上反対尋問に曝されてしたこれについての証言よりも通常価値が少いことは誰も否定しないであろう。(垂水註、これは彼の国で証人が偽証しないことが通例である一般の実例を前提とするように私には思われる。)もし報告が間接経路を経て来ているならその価値に対する疑は増す。これらの真理の正当性はこの法典規則も是認するところである。けれども同規則は伝聞は価値なしとの立言の上に立つものでないこと判例と同じである。同規則は、わが国のあらゆる裁判所で進化発展させられたコンモン・ロウ上の規則は余りにも錯雑微妙で完全かつ急進的再検討を必要とするに至つたことは疑ない事実として確認しているものである。」「同規則はコンモン・ロウを大きく自由化するものである。」という。そして大幅に第五〇三条ないし五三〇条において伝聞証拠を許容する場合を規定している。

もちろんこれは一試案に過ぎないが、銘記すべきことは、わが憲法三七条二項の母ともみられるアメリカ連邦憲法修正六条の下でも右証拠法典が模範として通用すると主張されていることであり、その根底にこれが各州に通用してよい条理であるとする考が横わつていることであり、このことは検討に価する。

右模範規則五〇三条は「伝聞供述の証拠は、その供述者が(a)証人として利用され得ないこと、または(b)現に出頭して反対尋問に従つたこと、のいずれかを裁判官が認めた場合には、証拠として許容される。」と規定する。

その註釈は(a)項は「コンモン・ロウにおける急進的変化をもたらすもの」「全体としていずれの現存立法よりもリベラルなもの」、(b)項は最近の権威者達における若干の支持を受けている」という。

わが応急措置法は右アメリカの模範法典に近い基礎理念に立つているようにみられる。

さて、わが最高裁判所は、前示刑訴応急措置法一二条一項を違憲とする論旨に対し、「右条項本文の規定は……被告人の請求がないときは……裁判所はその書類をそのまま証拠とすることができる趣旨であり、弁護人からその証人喚問請求が一旦抛棄された以後は始から請求のなかつた場合と同一に見て差支ない。右措置法の条項の立法理由は、憲法三七条二項により被告人が証人審問権を行使維持できるのにこれをしない場合は何等被告人の権利を害するものでないとの見地に立つこと疑を容れない。この場合裁判所はそのままこれを証拠に採つても何等被告人の憲法及び右措置法の右条項上の権利を害するものでない。」との意味を判決した(昭和二三年(れ)二九四号同年七月二九日大法廷判決)。

更らに「憲法三七条二項に、刑事被告人はすべての証人に対し審問の機会を充分に与えられると規定しているのは、裁判所の職権により、又は訴訟当事者の請求により喚問した証人につき、反対訊問の機会を充分に与えなければならないというのであつて、被告人に反対訊問の機会を与えない証人その他の者(被告人を除く)の供述を録取した書類は絶対に証拠とすることは許されないという意味をふくむものではない。従つて、刑訴応急措置法一二条において、証人その他の者(被告人を除く)の供述を録取した書類は、被告人の請求があるときは、その供述者を公判期日において訊問する機会を被告人に与えれば、これを証拠とすることができる旨を規定し、検事聴取書の如き書類は、右制限内において、これを証拠とすることができるものとしても、憲法三七条二項の趣旨に反するものでない。」と判決した(昭和二三年(れ)八三三号同二四年五月一八日大法廷)。

次いで、現行刑訴法の下で、最高裁判所は「刑訴法三二一条一項二号は、伝聞証拠排斥に関する同三二〇条の例外規定の一であつて、(イ)このような供述調書を証拠とすることの必要性及び(ロ)その証拠について反対尋問を経ないでも充分の信用性ある情況の存在することをその理由とする。そして証人が検察官の面前調書と異つた供述をしたことによりその必要性は充たされるし、また必ずしも外部的な特別の事情でなくても、その供述の内容自体によつてそれが信用性ある情況の存在を推知せしめる事由となると解すべきものである」との意味の判決をした (昭和二九年(あ)一一六四号同三〇年一月一一日第三小法廷判決)。

また「憲法三七条二項が刑事被告人はすべての証人に対して審問する機会を充分に与えられると規定しているのは裁判所の職権により又は当事者の請求により喚問した証人につき、反対尋問の機会を充分に与えなければならないという趣旨であつて、被告人に反対尋問の機会を与えない証人その他の者の供述を録取した書類を絶対に証拠とすることを許さない意味をふくむものではなく、従つて、法律においてこれらの書類はその供述者を公判期日において尋問する機会を被告人に与えれば、これを証拠とすることができる旨を規定したからといつて憲法三七条二項に反するものでないことは大法廷判例(昭和二四年五月一八日)の示すところであるから、刑訴法三二一条一項二号後段が違憲でないことは明らかである」と判決した(昭和二九年(あ)一五四号同三〇年一一月二九日第三小法廷)。

さらに、最高裁判所は、被疑者Aの検察官に対する供述調書中に被疑者Aは「Bから「BがC・D・Eとともに四人で火焔瓶を投げつけてきた」という話を聞いた」旨の供述記載がある場合について次のように判決した、「右伝聞の供述の原供述者Bに対する反対尋問権について考えるに、この場合反対尋問をなすべき地位にある者は被告人Bであり、反対尋問をされるべき地位にある原供述者もまた被告人Bであるから、結局被告人Bには憲法三七条二項による原供述者に対する反対尋問権はないわけである。従つてその権利の侵害ということはありえないことは明白である(被告人Bは、欲すれば、任意の供述によつてその自白とされる供述について否定なり弁明なりすることができるのであるから、それによつて自らを反対訊問すると同一効果をあげることができるのである)」(昭和三〇年(あ)一九四一号いわゆる横川事件同三二年一月二二日第三小法廷判決)。

私は以上の最高裁判所判例は支持し得られると考える。

イギリスでは被疑者逮捕後二四時間内に治安判事(簡易裁判所判事)の面前にこれを引致し、同判事は軽い罪については通常即日略式判決を言渡し、重罪については事実上公開された法廷で予備審問(プレリA43リー・エグザミネーシヨン)を八日以内に終り、直ちに起訴状が作られる。被告人が罪状認否手続(アレーンメント)で公訴事実に「有罪」の答弁をするなら裁判官は何等証人を調べないでも刑を言渡すことができる。未成年者に対し即刻一〇分間内に裁判官が死刑を宣告した実例さえも(一九三三年中にも二件)ある。有罪答弁者は総事件の九〇パーセント前後にも達するようである。罪状認否手続で被告人が「無罪」の答弁をすればここに争点が成立し陪審公判が即日もしくは極めて短時日内に開かれ多数証人の尋問が当事者によつて行われ、原、被告の主張、弁論は通常争点たる狭い犯罪事実に限られ、簡潔適切である。陪審手続の始から終りまでが(殺人事件などを含めて)五開廷に平均二五件、あるいは二八件完了したこともあるくらい、一般に適切な直接、口頭の集中審理がスピーデイに行われる。一審判決に対する上訴は一九〇七年刑事上訴法によつて、原裁判官の承認または全国唯一の刑事上訴院の認可がなければ許されず、一審判決を破棄すべき法律上の事由は大きく局限され、結局大幅な裁量に任されているので、同上訴院の実体的事後審査を受ける事件は極めて少い。

一体、陪審は普通市民によつて抽籤で公平に選出されるものだから、一審の陪審の判断の当否を仮りに二審で新しい陪審を選出してさせてみても、その判断が質において一審のそれに優るという保障はなく、時の経過や陪審員の予断の虞もなしとしない、などの考慮から陪審公判は事件の新しい時期に一回行われることが必要にして十分とされねばならない。公訴事実の審理は直接多数証人を十分調べた一審の審理だけで足りる。このことが英米で上訴審の事実審理が原則として排斥され全訴訟が迅速に終結する理由と考えられる。もし第二、第三審で事実の調査をするなら実質上書面審理が大いに物をいう弊に陥る。

さらに一般に、証人が公判廷で故意、忘却などにより真実を述べない虞が英米ではわが国より少いのではないかと想像する。モーセの十戒以来偽りの誓は神をおそれない所業であるというような信仰の生活をしている人々の多いと思われる国々と異り、わが国では、国民が裁判における真実発見が如何に社会的重要作用であるかの認識に徹せず、公徳よりも私情にひかれ法廷では「知らぬ存ぜぬ」と証言しながら、法廷外では「表て向きにはいえないが本当は是々の事実は私が見たのだ」と洩らす如き傾向があることは(わが弁護士中にもこれを知つている人は乏しくないのではないか)刑事政策や証人心理を研究する者の看過できないことと思われる。

もし、公判の証言が信用できると否とを問わず公判の証言と物的証拠、鑑定だけで裁判する制度を採り、捜査過程での供述調書はすでに供述の際、被疑者と認められる者の反対尋問に曝されない限り証拠能力なく、伝聞証拠も英米法程度に原則として証拠能力なしとし、犯罪を否定する被告人が一〇人の中九人になつても一向構わぬということを国民の総意が承認するなら、裁判官も当事者も誠に楽なものであろう。それでも国民の正義感と公共の福祉が害されないとわが国民がみるなら、かような立法も国会をパスするだろう。わが国民が証人となりまた陪審員、参審員となつて甚しく不適任でなく、専職裁判官の裁判に劣らないであろうことに国民が自信を持つならかような改正案も国民の間から出るであろうが、かような案は公的にも私的にも殆んど出たことがない。

わが国で、もし(1)一般に証人が公判に出て真実を述べることに国民が自信を持ち、かつ(2)国民が、陪審を構成する老若男女十二名の陪審員が新聞、ラジオや裁判外の関係人の直接間接の発言や事実に関する意見に耳を藉さず、数日、十数日にわたる公判でも構成を変えることなしに証言や弁論を専ら聴くことをいとわず(これは専職裁判官なら本職だからできる)、そして(3)その判断結果が少くとも専職裁判官の裁判と同じ位に国民から信頼されるなら、わが国でも大きい犠牲を払つても陪審制あるいは参審制が立法されるであろう(4)それにしても第二、第三審で事実の調査が場合により続審ないし覆審の程度にまで広く深く行われる余地が残されている限り、上訴審が検討すべき証拠の中では二審殊に一審の公判調書その他の調書のほか捜査過程における調書、供述録取書等の書類が重要な地位を占めることは避けられないとみなければならない。

そうだとすれば、すでに捜査過程において他日の証拠の消滅、証人の忘却等に備えて証拠保全のためにも捜査官が被疑者、関係人の供述を録取しなければならないことは必至となる。これが現行のわが実例である。換言すれば、事実審理を(陪審制によりあるいは兎に角上訴制限により)一回性のものとしない限り上訴審では間接書面審理が実質上行われる。フランスのアンシヤン・レジームの下における糺問手続では糺問判事が検察官の公訴を待ちもしくは待たずして被告人その他を訊問して調書を作り検察官の意見書を徴し事件を合議体に送る。合議体は主任判事から口頭で記録の朗読または内容の報告、意見を聴いた後、非公開法廷で被告人の最初かつ最終の訊問を行い判決した。かような、検察官、被告人の主張、意見や証拠を殆んど全部訴訟記録により、それも主任裁判官を介して認識する、裁判の完全な間接書面審理主義は英米法の知らないところであり、ドイツにおいても前世紀から学者が正当に説明する理由によつて排撃されている。いうまでもなく、大量証拠書類の朗読は陪審員には理解し難く苦痛でしかなく、上訴審裁判官にしても主任裁判官の報告を聞き落し証拠書類を殆んど熟読熟考せず忘れることなしとせず、直接心証を得がたく、被告人に有利にも不利にも事実の把握の点において直接口頭審理の場合に比し甚だ及ばない傾向があるからである。

以上の次第であるから、わが国でも、もし、事実問題に関する上訴が著しく制限され、事実審理は一審で一回限りを原則とし、捜査の開始から第一審公判開始までの時間を極めて短かくし、殊に一般的に公判証言の信用性がもつと高くなるなら、また交互尋問や弁論がもつと簡潔適切なものになるなら、(また、事実の有無に関する裁判前の公の言論が裁判所侮辱罪として取締られるなら、)殊にそのために、わが国民が思い切つて専職裁判官裁判よりも素人裁判制に踏み切り、陪審制(素人の合議体が有罪無罪の評決をする)あるいはドイツ起源の参審制(裁判官と素人との合議体が有罪無罪と刑の量定を裁判する)の立法を見るなら、その暁こそ(裁判の有罪無罪の結果が今日と如何に異るか、また、それに国民が満足するか否かは判らないが)公開法廷における直接主義、口頭主義、当事者主義のスピード審判が行われるであろう。その暁にはアメリカ模範証拠法典がアメリカの伝聞証拠禁止法則を自由化したのとは逆に、わが国では同法典の線にまで伝聞証拠禁止則を厳格化されてもよいかも知れない。が、訴訟の構造と実質がかように改まらない限り上訴審の書面審理、そのための捜査過程における供述調書の集積による証拠保全は運命的に跡を絶たないに違いない。

われわれは勿論憲法三七条二項を尊重しなければならない。が、立法や解釈に当つては上述のわが現代の国民的傾向が頭にはいることもやむを得ないのかも知れない。

最後に、一つの事を附加する。陪審制では証拠法は厳格であるが、判決書は作られなく、陪審が如何なる証拠を採用したかは不明である。陪審員が証拠を誤解しあるいは証拠によらないで有罪の答申をしたとしてもこの違反は判らない。これに反し、わが刑訴法は判決書には事実認定をした証拠の標目をかかげることにしている点恐らく世界にユニークなものであろう。そうすると、例えば、度々にわたる共謀行為、予備行為、実行行為の如き一連の出来事についての関係者の一供述は一部は措信でき、他の部分は措信できない場合があるから、判決書中に証拠として互いにくいちがう供述を含む供述をそのまま証拠標目として列挙するときは裁判所は矛盾を鵜呑みにしたかのように思われるので、原判決のように、判決書に措信部分を示しあるいは更に措信した理由(これはわが度々の判例によると判決に示す必要なしとされている)さえも示すことが多くなり、その極原判決の如き一巻の著書のような大部なものが出来上る。これは判決に証拠が欠けていないことや採証法違反がないことの担保になる点において長所のある制度である。しかし、経験則に従いつつ判決挙示の証拠のどの部分を措信してどの部分の事実を認定したかを必しも十分に判示し得ないのが当然な場合もあることはいうまでもない。要するに判決挙示の証拠の全体を経験則、採証法則に従いつつ総合判断するときは判決の事実認定に到達し得るなら、その判決は是認されるべきである。微に入り細をうがつた検討によつて表面的な証拠の欠缺、くいちがいを論じ、証拠全体の底にあるもの、その全貌を見ない如きは承服できない。裁判所は錯雑混迷の諸証拠から幾つかの真実の線を発見すべきであり、全国の事実審、事後審は多年これをやつて来ているのである。そしてその真実発見の理由、心証は必しも判示し得べき限りでない。

各上告論旨における伝聞証拠禁止則違反の主張は前記判例の趣旨により採用できない。また、公務員が職務上必要な事実の調査を自らもしくは上司、同僚、部下とともにしてなした報告書は伝聞にかかる部分があつても必しも証拠能力を欠くとはいえないと私は、考える(アメリカ模範証拠法典参照)。伝聞証拠採用の違法、違憲の論旨に対し本判決が判断しないのは納得できない。

第二事実問題

その一 謀議直前(八月一三日)までの事情

原判決が認定した冒頭の事実、すなわち、判示第一の、被告人等の経歴、労働組合上の地位等、同第二の、(一)国鉄側、(二)A2側の各罷免解雇反対闘争等の激化、過激手段実行意図の発生、国鉄、A2両労組幹部の提携、本件共謀直前までの事情に関する事実認定は、その挙げた証拠によつて是認することができる。

この事実は犯罪構成事実そのものではないが、この事実もしくはこの事実に関する証拠は、原判示第三ないし第五事実(犯罪構成事実)に関する証拠の判断をするのに見のがすことを許されない大切な一資料であるばかりでなく、この冒頭事実に関する証拠は判示第三以下の全犯罪事実特に判示共謀成立の情況証拠とすることを許される性質のものであること多言を要しない。原判決は結局挙示した適法な全証拠を総合して冒頭事実を含む全判示事実を認定したのでその証拠は互いに影響し合い全事実に共通するものであること一般事件の場合と異らない。上告論旨は原判決の循環論法や推測想像による認定の違法をいうが、原判決が右のような関係で事実認定をしたことはその全趣旨に照らせば明らかであるから、この論旨は採用できない。詳細は後のわれわれの説示で明らかとなろう。

原判決冒頭(第一、第二(一)(二))の認定によると、要するに次のような事情であつたことが理解される。すなわち、A3労組福島支部及び同支部福島分会は昭和二四年五月頃からA3労組中央闘争委員会の闘争方針に則り国鉄予算の増額要求、人員整理反対の運動を続け、また、A2松川労組は松川工場を含む二八工場が人員整理を伴う独占事業として指定されたことに反対しつつあり、この二大労組は東北地方における反対闘争の中核ともいうべきものであつた。原判示にはないが、これは公知の事実であるが、同年六月一〇日東神奈川のA3労組員が国鉄当局の業務命令に服せず人民電車と表示し赤旗をかかげた六輌編成電車を運転したという人民電車事件が起こり、同六月三〇日にはA44党員、その影響下の労組員、朝連関係者を含む百数十名以上の者が福島県平市警察署内において数時間にわたり暴行、脅迫しあるいは監房を破壊して被逮捕留置人一名を奪還し、看守巡査を監房に閉じ込め、同署玄関には大赤旗が交叉掲揚されていたといわれる平事件が起こつた(これも公知の事実)。七月四日と一二日に国鉄人員の大量整理(約九万四、五千名)が発表され(公知事実)、八月一五日A2松川工場では全工員三一八名中三二名が解雇され(一審判決引用A45証言)、原判決判示のような経緯から、被告人らのうち国鉄側の七名は七月四日から八月一五日までの間に罷免、解雇され、A2側のA15は七月末、その他のA2側(A21を除く)八名は八月一五日解雇されるに至つたが、八月当時は被告人A9(分会執行委員長)、A10、A11、A12、A13は判示A3労組支部、分会の最高幹部、被告人A14、A1、A17は判示松川労組最高幹部、また鶴見工場のA15はA2労組連合会から判示反対闘争指導のためオルグとして派遣されて来た(記録によると八月一〇日に福島市に来た)者であり、いずれも険悪な状勢の下に反対闘争の策源点にあつて指導的役割を果たしつつあつたことが判示によつてうかがわれる。また、被告人A5は福島地区労会議(その事務所はA3労組福島支部事務所や同福島分会事務所と同一建物内で隣合つている)で雑務を手伝い、この地区の各労働組合役員らと緊密に連絡を保つ立場にいたと見られる。次に、被告人A4はA46小学校を出て以来四年間、近くの永井川線路班(これは本件列車顛覆現場の北隣の線路班)に線路工手として勤務中、七月四日解雇され、その後はA3労組福島支部幹部から毎日同支部に来るように言われて出勤していたが、八月当時は一九歳であつた。また八月当時はA2側のA19は二〇歳、A20、A22、A21は一八歳、いずれも身軽に行動できる青年であり、A17、A18はこれら青年部員の上に立つ者、A23は松川労組書記として同労組の行動に協力すべき立場にあつた者である。

原判示によると、六月三〇日(平事件当日)A2松川労組員が福島市内を県庁に向つて無許可行進した事件(県会赤旗事件)が捜査の対象となり、七月一日郡山市で無許可行進事件(郡山デモ事件)が起つた直後、七月四日国鉄側被告人A10、A12、A13三幹部及び線路工手A4は多数の福島国鉄職員とともに人員整理によつて解雇されてしまつた。福島A3労組幹部が数十日来反対闘争に没頭して来た馘首が、かように先ず右幹部三名を含めて断行されたことは同労組幹部、労組員にとつて相当のシヨツク、憤激、脅威であり黙止できないところであつたに違いない。そのため、即日(七月四日)同労組員が整理反対を叫んで国鉄福島管理部事務室に侵入し(福島管理部事件)、同月七日には国鉄被馘首者(約三〇名)が伊達駅事務室に押しかけ駅長を脅迫したという伊達駅事件が起つた。そして、かような騒然たる事情のうちに、同日被告人A9委員長も前記福管事件の責任者として馘首され、A4は伊達駅事件参加者として起訴された。

七月一五日夜には、罷免された国鉄職員が国鉄三鷹駅で入庫中の七輌電車を乗務員、乗客なしで暴走脱線させて破壊し無辜の六人を轢死させたという三鷹事件が起こつた(公知の事実)。

さらにその頃福管事件、伊達駅事件の関係者が起訴されるに至つた。かような馘首、起訴を見るに及び、福島A3労組幹部らは、馘首された者であると否とに拘わらず、同労組ないし国鉄労働者殊に自分自身に加えられた(もしくは加えらるべき)かような打撃的措置に対し一層憤激し幹部としての責任上からも従来に勝る強力な反撃に出でなければやまないという共通の感情を持つたであろう、また同労組員のうちにもこれに同調する者が少くなかつたであろうことが判示事情から察せられる。原判決が、かよう事情の際、「被告人A9、A10、A12、A13、A4を含む国鉄福島労組被馘首者中には、これを目して警察当局の労働者並びに労働組合に対する不当な弾圧であるとして憤激し、吉田内閣の行政整理に対する報復、警察当局に対する反撃として何らかの事件を引起そうとする意図を抱く者、更には人為的に列車事故を引起すことを煽動する者及び列車事故を起すことは簡単で、アリバイさえ確実にしておけば容易にできると考える者も現われるようになつた。」と判示する点はその挙げた証拠によつて是認することができる。それには次のような証拠もある。

△ 七月八、九日頃判示A3労組支部事務所に幹部A31、A48、A10、A9らがおりA4ら被馘首者二〇名位が集つた時、A31かA48かが被馘首者らに「君達は列車脱線事故をやれ、やる時はアリバイを確り作つてやれば大丈夫だ」と指導した(原判決証拠(29)(ハ))。

△ 八月四日A10はA4に対し「労働者を弾圧する者は警察だ、吾々は断乎として闘わねばならない、列車事故を起す時にはアリバイを確り作つてやれば大丈夫だ」などと話した(同証拠(29)(ロ)(28))。

△ 八月五日被告人A9は福島県庁秘書課で国鉄福島管理部総務課長A49に対し「こんな小さな事件でゴタゴタしているのはどうかと思う、その中大きな事件が起るかも知れない」といつた(同証拠(35))。

△ 被告人A13が国鉄をやめた(七月四日)後、本件列車顛覆(八月一七日)前に、その隣室居住者A50に対し「近頃は大分列車妨害が多いね」「子供の列車妨害が多いですね、今後は行政整理があつて皆がやつきになつているから顛覆事件などもあるのではないか」「お山の曲り角の様な急カーブの処の犬釘等を抜けば直ぐ引繰り返える」と話したことがある(同(26))。

右原判示の趣旨は、要するに、七月四日から八月三日(被告人A11が懲戒免職)にかけて馘首された国鉄職員(被告人A9、A10、A12、A11、A13ら労組幹部及びA4を含む)のうちには、人為的に列車事故を引起すような強力な報復、反撃を、(自分ら仲間の手で従つて自然、福島附近方面で)実行しなければ駄目だという考を持つに至つた者が、あちこちに期せずして幾人か現われた、いわば、被馘首者らの間で誰言うとなくかような声が出た、そして彼らは仲間のうちにかような意向のあることを知つた。尤も、当時はこの意向はまだ固まらない、統合されないものに過ぎなかつたが、彼らの間に、自分ら仲間の手で列車事故を引起そうという気運が起りつつあつた、という意味と解され、このことは証拠により肯認できる。

右A50証言によつても、A13が「皆が行政整理でやつきになつているから今後は顛覆事件などもあるのではないか」と、第三者的態度でいいながらも、A13が同じ国鉄被馘首者仲間の手で今後顛覆事件が起るかも知れないとの情勢判断を持ち、なお、「山の曲り角の急カーブで犬釘等を抜けば引繰り返える」といい顛覆の場所、手段にまでA13の考が及んでいたというようなことも見られる。とも角、A13のこの話は単なる四方山話以上の何ものかであつたので右証人の印象に残つていたように思われる。 (A50証人が真実に反してかような証言をする理由があるとは考えられない。)

しかるに、原判示によると、八月一二日朝国鉄福島支部副執行委員長A51、同郡山分会執行委員長A52らが前記郡山デモ事件(七月一日)容疑者として逮捕、郡山市警察署に留置されたことを契機として事態はにわかに悪化し、被告人A9、A10、A12、A11ら福島A3労組幹部はこれに激昂し、A12は即日判示声明書を起草、翌一三日これを印刷発表し、その中において「……警察当局が多数労働者を検挙投獄して罪に陥入れようとし、政略的弾圧とデマで挑戦するならその挑戦に応ずるであろう、……遠からず労働者の偉大な力を知つて貰わねばならない……」との趣旨のことをいつた(原判決証拠(31))。「そしてこの頃以降右被告人らは国鉄の人員整理、労組幹部の逮捕は警察当局ないし吉田内閣の労働者及労働組合に対する弾圧であるとの見解の下に、ついに、これに対する反撃、報復として人為的に列車顛覆事故を惹起せしむべきことを現実の問題として取上げるとともに当時馘首反対闘争中のA2側を引入れて相共に右計画を実行に移すことを企図するに至つた。そして八月一三日午前中判示A3労組福島支部事務所で行われた伊達駅事件関係者打合会に出席した被告人A4に対し被告人A11はA4を右計画に引入れる意図の下に同人に対し来たる一五日A3労組福島支部に来て貰いたいと依頼してその承諾を得た。」と原判決は判示する。

△ 証人A53(原判決証拠(28))はいう「八月一二日新聞記事取材のためA3労組福島支部へ行つたところ、A30、A11、A9、A10、A12その他六、七人いたように記憶する。その日は同支部副委員長A51が検挙されたので右の人達は非常に騒いでいた、「警察当局は労働組合を不当に弾圧する……」「この際特にでかいことをして当局を覚醒させなければ駄目だ」等とお互に憤慨していた、そして私に対し「今に見ていろ大きなことをして見せるから」と興奮して話した。」(このような発言を判示のような事情の下で部外者たる新聞記者の聞いているところでしたということは、かような考が右国鉄被馘首者らの間に大分広まつていたこと、従つて国鉄側被告人らもかような意図を抱く者があることを大体知つていたであろうことを推測させる一資料となる。)

一方、原判決は、「A2会社は八月八日頃人員整理の枠を発表したので労組側では翌九日から整理反対闘争に入つたが、偶々同月一三日早暁同労組青年部常任委員A54が前記(六月三〇日)県会赤旗事件参加容疑者として逮捕されたので、同労組副組合長被告人A16はA54釈放要求のため福島市警察署に赴く前、同日正午頃前記福島地区労働組合会議事務所に立ち寄つた。」と判示する。そして「八月一三日(土曜日)午前一一時五〇分頃A2松川労組副組合長A16はA3労組福島支部に行つた、その際同支部にはA3労組同支部執行委員長A30、被告人A11、A12、A5がいたことは諸般の証拠上明らかで被告人等も争わないところである」といい(原判決七章四節)、被告人A9もその際そこにいたことは証拠上認められる(七章四節四)といつたことは是認できる。

なお「その際被告人A4に対し、右計画に引入れる意図の下に、A11から情を告げずに明後一五日右事務所に来て貰いたい旨を依頼してその承諾を得、またこの日(一三日)正午頃国鉄側被告人の何人かから、松川副組合長A16に対し、国鉄側において列車顛覆の計画のあること、その具体的方法について明後一五日国鉄支部で協議すべきことを打明けてA2側からの出席を要請した」との原判示第二(一)末段認定事実の是認できることについては、後に、その一〇「八月一三日における列車顛覆企図」で説示する。

その二 列車顛覆事故の発生と捜査の開始

一 事故の発生

昭和二四年八月一七日国鉄東北本線(全部単線)福島駅を南下し次の金谷川駅を深夜同午前三時〇六分(夏時間、今の午前二時〇六分頃)に通過した上り四一二旅客列車は一四輌編成で、現に一般乗客六三〇名位、機関士、機関助手らが乗つていたが、午前三時〇九分頃時速五〇粁で判示a村大字b内の鉄道線路東京基点(原判決や証拠中上野基点とあるのは東京基点の意味)二六一粁二五九米四〇糎の地点(原判示レールの仮称A継目)まで来たとき、前部牽引機関車(炭水車を含む)とこれに続く荷物車二輌、郵便車、客車各一輌の全輌、六輌目客車の前軸が脱線し、機関車(炭水車も)は右脱線始点から上り松川駅方面に向つて約六〇米先で逆倒顛覆し、二輌目荷物車後部車輌は車体外に分離し、三輌目荷物車の車体の前部、後部が破損し、前部車輪の約二分の一が車体外に移動して破壊された。(右荷物車二輌と郵便車は乱雑に横軌道外に飛出し、脱線顛覆はひどい状態であつた。)

このため前部乗務機関士A55(四三才)機関助手A56(二七才)は受傷即死、機関助手A57(二三才)もその場で間もなく死亡した。

右現場(線路外軌脱線始点A継目の個所)は、右(西南)は山、左(東北)は低く幅一〇米余の大豆畑雑草地帯を隔てて青田で、鉄道線路は半径五〇〇米のカーブで右にまわり、あと一・七粁余進むと松川駅に着くというところ、人家の稀な淋しいところであつた。

(原判決によると、判示カーブ線路の外側のレール一本はその両端の各継目において鉄の継目板が取外されていた。原判決は、そのうち判示列車の前部車輪が最初に接触した金谷川駅寄りの外軌継目(脱線始点)をA継目、同じレールの反対末端、松川駅寄りの継目をB継目と仮称し、このレールに並行する内側レールのうちA継目に対応する継目をC継目という。)

以上は原判決挙示の証拠によつて是認できる。(殉職した忠実な前部機関士達の機宜の急制動措置がなかつたら客車の顛覆、乗客の死傷も起つたかも知れないかどうかは記録上明らかでない。)

△ 一審証人A58はいう、同人は同列車に客扱車掌として偶々三輌目荷物車に乗つていたが、その時一瞬の間に列車が物凄い音響と共に電燈は消え車が傾斜した、彼の乗つていた荷物車は機関車にぶつかつており、機関車は蒸気が噴いていて側に寄れない、客が「機関士が生きているから助けなければならない」と叫んだ、機関士が生きているのが判つたのは客が機関車の側に行つて「おう」と呼んだら「おう」と答えたので「誰だ」と叫んだら「A57」といつたということであつたから、と(原判決証拠(75))。

△ 一審の五日間にわたる検証の立会人A59は供述する、同人は機関士として同列車後部補助機関車に乗務し東京基点二六一粁五〇〇米附近に来たとき、前の方から非常制動がかかつて来たので、約二、三秒間レギレ―夕ーをしめて非常制動をかけたが制動がかかつてから七〇水位進行して停車した、前方に行つて脱線車輌とレールの端を見たところ継目板のボールトがなくなつていたので列車妨害だと直感した、という。(原判決証拠(74))

△ A60鑑定書(昭和二五年七月二五日附)によると、脱線顛覆の場合には軌条は継目部で分離しないでS字のように曲るのが普通であるのに、本件の場合には、一本の軌条は継目部で分離し、分離した軌条が略直線のまま約一三米先に離れており、これに継目板がついていない。この軌条はその前後の軌条と力学的つながりがなく横方向の束縛がないためカーブ外側での車輪の横圧によりたやすくカーブ外側にはずれ出かけたところ、後続車輪が続いてこの軌条に衝撃したためこの軌条が一三米も先に飛出したのである。これによつてもこの軌条の両端の継目板が事前に取去られていたものと推定される。のみならず犬釘が枕木より著しく離れて散乱し、犬釘頭部の首にま新しいキズがあり押収のバールの爪と合致し、枕木の犬釘穴のところに右バールの爪の形と合致する圧痕があり、軌条支材が割れないでその止釘が離れており、軌条支材の止釘穴近くに右バールの底部と合致する圧痕がある。本件のような脱線の場合、犬釘が抜けてもその場所からあまり離れないのが普通であり、軌条支材が割れないで止釘が離れているのは故意に抜かれたものと推定され、圧痕等が押収のバールの爪の形と合致することから事前に右バールで抜かれてあつて、これによつて脱線顛覆が起つたものと考えられる。(大意)という(原判決証拠(79))。

△ A61鑑定書(昭和二五年八月三日附)によると、本件脱線顛覆原因はA継目より上り第一外側レールの両端の継目板、同レールの犬釘とチヨツク木の多数が取りはずされていたためである。非常ブレーキをかけたことは脱線顛覆の原因ではない。理由は、犬釘、枕木にテコ跡がある。脱線のためレールが外力で定位置から動かされるときにも犬釘は半ば浮上つた状態にしか抜けないのが普通なのに、本件では犬釘が離れた場所に多数発見され、レール断点附近の枕木にも犬釘がなく附近にも発見されなかつた。レールが脱線等によつて横に移動すればチヨツク木は横に押されるから、チヨツク木を固定する四頭釘は枕木からは抜けるが、これがチヨツク木から抜ける筈はない。レールは二本のボールトによつて継目板に連結し、この継目板はさらに別に二本のボールトによつて次のレールに連結している。張力を加えた糸を切る場合必ず一ケ所で切れるように、本件列車によつてレールが引切られる場合にも、継目板のボールト二本が切れるだけで、継目板は残りの二本のボールトで他のレールに連結されたままになつている筈である(本件内側レールの断点はまさに左様になつている)のに、本件外側レール継目板が両方のレールから全然離れていたのは二ケ所で切断されたということであり、本件のように二つの継目板が離れていたことは同時に四ケ所が切られたということであつて、列車脱線の際の現象としては到底ありえない。だから本件犬釘、チヨツク木、継目板は人為的にとられたものである。脱線顛覆の順序は、本件機関車の前輪が外軌上をA継目に接近したとき、A継目板が取去られていたため、A継目手前の外軌は車輌の重さのため沈下したのにA継目より先の外軌は沈下しないので、双方の高低差は二糎を越えたであろう、一方、内軌は普通状態で沈下が少かつたため機関車はやや外方に傾きつつ、前輪がA継目の先の二糎以上高い軌条の先端に激突した、レールには漣模様などの、運転士が非常ブレーキをかけたと思われる痕跡がある、このため一、二秒後機関車及び炭水車がA継目を通過し終る頃列車の車輪は強いブレーキがかかり車輌はレールの上をすべり始め、炭水車は早く脱線したかも知れないが、機関車はA継目を過ぎレール上を蛇行したが、B継目までの外側犬釘、チヨツク木が少いので、機関車の蛇行運動によりA・B間のレールは外方に押されて移動した、そのため機関車外側車輪はB継目の手前でレール内方に脱線し枕木上を走り次のレール正面に(A継目への衝突の場合のそれに一〇倍するシヨツクで)衝突して脱線し、更に傾斜を増しつつ約三〇米進んで顛覆しこれによつてその後の車輪も脱線した、A・B間のレールが外方にズレ出し且つ前方に移動したために生じたA点附近の間隙に車輪が落ちてこのレールを上り方面外方に約一〇米飛ばしたものであると考えられる。(大意)という(原判決証拠(80))。

これらの鑑定、押収物、その他本件脱線顛覆の状況に関する挙示の証拠によれば、本件脱線顛覆は予め人が押収のバール、自在スパナを用い判示のようにカーブ外側軌条一本の両端の継目板(AとB)を完全に取外してこのレール一本を遊離しやすい状態に置き、C継目のボールトのナツト一個を外し、犬釘多数を抜取つておいたために起つたものであることを原判決が認めた点は肯認できる。

二 捜査の開始

原判決挙示の証拠によれば次のような事情であつたことがわかる。

本件列車顛覆は即刻現場から国鉄福島管理部、国家地方警察福島県本部、福島地区警察署、福島地方検察庁に順次急報され、国鉄当局、警察当局(A62を含む)多数が現場に急行し、福島地方検察庁検察官A26諫は検察事務官A63、同A64を伴い事故発生後約二時間にして現場に到着し、A63はA64の補助で(八月一七日午前五時三〇分から)顛覆現場の検証、捜索、証拠物の差押に従事した。

脱線始点のA継目は犬釘、ボールトが解かれていて、外軌は前外方に約一三米はね飛ばされ土砂に突きささつていた。

内軌C継目ではボールトが一本は外れ二本は三つに切断され、一本は継目板とともに軌条についたまま少しく松川方面に移動していた。前示青田からボールト一本、犬釘一二本、軌条支材一個、バール(一・四五米)と自在スパナ一挺その他が発見された。

国警福島県本部鑑識課員A65らは現場の採証に従事中午後四時半から五時頃現場の脱線顛覆した車輌の撤去が終らない間に、多分その列車の前から三輌目の車輌の下敷になつていた継目板一枚を発見し、その直後、附近の線路西側(上り方面に向つて右側)の、軌条から離れた崖ぷちで継目板一枚、ボールト四本を発見し、それらの状況を写真に撮影領置し(証七三号の一と二の継目板、同七四号の一ないし四のボールト)、これらの押収物は福島地区警察署に保管された(原判決七章一三節(一))。

白井検察事務官は前記の軌条についたままであつた継目板二枚やバール、自在スパナ各一挺、軌条支材(前記水田からの一本、線路附近にあつた一〇本)、犬釘(前記水田からの一二本を含め現場附近にあつた三八本)等を押収した。

本件列車の撤去が完了したのは一七日午後七時三三分、線路の復旧開通は一八日午後二時五九分であつた(証一一号の二、三)。何しろ死傷者、乗客の救護と大いそぎの復旧工事とに数百名が活動する大混乱の中で、複雑広汎な検証、捜索をし、その結果を精確に記述し押収物の保管に完璧を期することは相当困難であつたろうと思われる。

以上の検証の結果と押収物の状態ないし列車交通状況だけから見ても(鑑定をまつまでもなく)一応次のことが推測される

(1) 軌条や継目板(二ケ所にせよ一ケ所にせよ)、多数の犬釘、軌条支材等が外れている状態に人為的になされたことの形跡がある。

(2) 現場附近の青田の中から発見されたバールとスパナは鉄道線路工事に用いるものであり、犬釘や軌条支材に右バールの爪に合致する痕跡があるところから見ると、何者かがこれを用いて右取外し作業をしたと思われる。

(3) その作業目的は列車の脱線顛覆を引起こすに十分な程度にレールをゆるめることにあつた、単なる悪戯や嫌がらせではなく、偶発犯ではなく、本格的、計画的であつたと思われる。

(4) 線路のカーブの外軌をゆるめたのは、カーブ地点では列車の車輪が遠心力でカーブ外軌を横に外に押す傾向があるため顛覆が容易であることを犯人は知つていたからではなかろうか。

(5) 本件顛覆個所を本件列車の直前に通過した列車は、上り準急旅客一一二列車で、これは一七日午前一時二七分頃福島駅発、途中無事に同一時五九分頃松川駅を通過した(原判決証拠(96)後部機関士108証言)。だから、これだけからいうと、右脱線作業は同一時五十七、八分頃以後に着手(若しくは再着手)され同三時〇九分本件列車が現場に来るまでの間(約六、七十分間)に終つたのであろう。

(6) 一人の犯人が重いバールとスパナを持つて来てあれだけのものを取外し、抜取るなどの作業を六、七十分間にすることはむつかしいので、犯人は二人以上ではなかろうか。

(7) 犯人は現場附近の地理や列車の通行しない時間などをよく知つている者ではないか。

(8) 犯人は作業完了後、万一犯罪用具を持つているところを他人に発見されることを虞れ、かつ、身軽になつて一刻も速く逃げのびるため、また逃げた方角をたやすく覚られなくするためバールとスパナを現場附近に棄てたのではなかろうか。

右側(2)(4)(5)(6)(7)を総合すると犯人は二人以上であり、素人でなく、汽車電車事業の従業員もしくはその前歴者あるいはこれらの者の協力を得た者のように(もちろん左様とは限らないが)思われる。尤も、犯人はことによると、レールのカーブ地点で継目板を外すなどのことをすれば列車が脱線顛覆しやすいことを何時か何処かで起つた脱線顛覆事故の実例を新聞、ラジオなどで知つた素人であるかも知れないが、素人が脱線顛覆作業の伝受を受けても第三者に怪しまれないで練習することは困難であり、練習もしないで六、七十分間にあれほど本格的な作業に成功することは困難ではあるまいか。

従つて捜査当局の中には幾分でもこれに近い考えから本件顛覆はあるいは鉄道関係者もしくはこれと関係ある者の仕業ではないかという嫌疑をも持つて、早速バール、スパナの出所や現場附近の素行不良者その他の者の動静について聞込み内偵などによる捜査をした者があつたとしても常識上自然なことで、これをしないのはむしろ手落であろうといわなければならない。そうだとすれば本件列車顛覆はまさに一大事件である。

△ 九月二九日福島県議会で警察隊長A67は発言した「本件顛覆事件発生当時私も現場に行つたが、犯行状況から見て、数人が共同して行つたものでその仲間の中には多少とも技術的な経験ある者及び土地の事情に精通している者が必ずおるとの見込の下に、犯罪現場、現場に残された工具の類、工具を盗出した松川駅保線倉庫等を中心として元鉄道職員あるいは現場附近にいたと思われる者、松川附近の不良者等を対象として県下で七〇〇名以上の者にわたつて捜査し、最初一〇日間でこれを二〇〇名に、その後更に五〇名に整理し、その間a町の不良を中心として十数名を逮捕取調べたが、それらの者からは容疑をつかみ得なかつたところ、別に捜査を続けていた一捜査班が有力な証拠を握り二一日に至り確信を得二二日から容疑者八名を留置目下取調中である(大意)。」(原判決五章二節挙示の同議会速記録写証一三〇号)

当時警察は国鉄側被告人A10、A12、A13らの動静を探り、本件発生の約二日後にはA50に対し被告人A13の動静を探つてもらつた結果、A50はA13と同じ家に住んでいたA68を訪ね同女からA13は八月一四日米沢市に行き一六日福島市に帰つたと聞きこれを捜査当局に話した(原判決六章四指摘の一審公判一六回A50、A68各証言)事実もあるが、この方からは未だ容疑者を掴めない状態にいたところ、一方現場附近の素行不良者らの足取捜査を行い事件発生当夜における彼らの行動、同夜彼らが出合つた者などを洗い、A69その他幾人かを取調べ九月一〇日頃からA70、A71、被告人A4を取調べている中、A70、A71からこの二人が本件発生当夜(八月一六日夜)福島市a所在黒岩虚空蔵尊祭礼に行つた際出会つた友達A4が「今夜あたり列車の脱線があるのではないか」といつた(いわゆるA4予言)との供述を得た。これが手がかりとなつてA4が本件列車脱線顛覆の相談にも脱線作業の実行にも加わつたこと並びに共謀者、実行参加者が誰であつたか(人違いないこと)を確認する自白をするに至つた。(このことは証拠により原判決五章二節説示のとおりと認められる。)

その三 バール、スパナの紛失 被告人A4の「予言」

一 バール、スパナの出所わかる

福島保線区松川線路班勤務A72、同班工手長A73の原審公判各証言、押収のバール、スパナを綜合すると、一七日朝本件事故現場附近でバール、スパナ各一挺が発見されてから、その出所を詮索するため調査したところ、八月一六日(夕刻)までには同線路班(事故現場から約一・七粁離れている)備付のバールは一二本あつたのにそれが一本足りないこと、スパナも同様一挺紛失していることが判明した、紛失したものは押収のバール、自在スパナと同種類のものであつたことが認められる、とした原判示(六章二節)は是認できる。 (原判決は、これら証拠と、後に検討するバール、スパナ盗出しに関する関係被告人らの措信できる自白とによりこの押収物二つは同線路班のもので一六日午後一〇時半過同班倉庫から紛失したものに相違ないという。この点は後に説示する。)

二 「A4予言」

元線路工手A4が「今夜あたり列車の脱線があるのではないか」といつた点について、警察で、最初A4は八月一六日夜黒岩虚空蔵の祭礼に行きA70、A71と会つた事実は認めたが、右のようなことをいつたことはないと答えたのでA4をA70、A71と対質させたところ、右の二人はA4は確かにそういつたといい、結局A4も右「A4予言」を認めた。それで当夜の行動を尋ねられるとA4は「当夜虚空蔵様でA70、A71と別れて自宅に帰つて寝た、それは祖母A43が知つている」と供述した。警察がA43を調べるとA43は「同夜A4が何時帰つたかは知らぬ」と答えたので、このことをA4にいつて調べると、ついにA4は本件犯罪の実行に加担した旨を自白するに至つた。それでも今夜あたり列車の脱線があるのではないかということはA74、A75から聞いたとかA76がやつたのではないかとあいまいな供述をしていたが、捜査当局がこれらの者を調べても容疑の点を発見しなかつたので更にA4を問いただすと、A4は「それは八月一五日A3労組福島支部に立寄つたとき聞いた」と述べ、次いで「実はその日そこで自分も加わつてその相談をした」と告白するに至り、ついに九月一八日頃になつて八月一五日午前の同支部でA4を加えての国鉄側謀議やその後実行行為までしたことをほぼ九月二三日附A26検事調書程度において自白した。その間に捜査当局は謀議や実行行為に参加した者が誰であるかについて、A4に写真によつて人違いないことの確認もさせ、A4自白に基いて実行行為のための往復経路の実地調査などもした。

かくて、捜査当局はA4自白が真実の部分が多く、大筋においては真実に合致し、彼が本件犯人の一人であるとの確信を持つに至り、そして、A4自白を主たる資料としてA4が共犯者であるといつた者のうち被告人A9、A10、A11、A12、A13、A15、A19に対する逮捕状を得て同人らを検挙した次第である。

原判決(五章二節)が認めた右捜査経路は証拠上明らかであつて、これによると顛覆現場近くで発見されたバール、スパナが松川線路班倉庫から八月一六日(当夜)紛失したものであることを発見した経路が自然であるのと同様に、A4が「A4予言」をした事実を捜査当局において探知し、A4は最初これを否認したものの友人二人や祖母の供述が警察につかまれていて友人は対質の際にも供述を変えないことから包み切れずに「A4予言」を自白するに至り、更にA4予言をしたのも実は列車顛覆の相談があつたからであり顛覆作業は自分だけでなくこういう人達もやつたと、ウンや間違つたことを交えながらも少しずつ本当と思われることを自白し最後に事件の全貌について自白するに至つた経路の筋道は、順当自然なものであつて、決して無理に、A4が容疑者とされ、次いで他の被告人らにも嫌疑がかけられた形跡はないと観られる。このことはA4予言を含むA4自白一般の任意性、真実性の判断に当つて銘記されなければならない。

さてA4は本当に「A4予言」をしたかどうか。

△ A70は一審公判一五回証言で、検察官の問に対し「私は八月一六日夜、店(アイスキヤンデー売店)をしまつたらA71が来たので、A71と一緒に行き虚空蔵様の手前の寺の前でA4に会つた。そのときA4はお婆さんに怒られるとかいつてすぐ帰つた。その時のことにつき私は警察に行つたとき、その時A4から「列車の顛覆があるんぢやないか」という話があつたと述べた。それはA4が私とA71との前でいつたのであるからそういつたことはハツキリ断言できる。しかしその夜いつたのか翌朝いつたのかハツキリしない。それを一六日夜言つたように警察でいつたのは取調官の強制によるのである。」と供述し、弁護人の反対尋問に対し「そのA4のいつたことは列車が引繰り返つたのではないかという意味の質問であると私は受取つた。」との趣旨を供述し、

△ A71は一審公判一六回証言で、検察官の問に対し「八月一六日夜黒岩虚空蔵様のお祭に行きA70がキヤンデー売をしていたところでA4に会つた。A4は私とA70に対し、「今晩は遊んでいるとお婆さんに叱られるから家に帰る」といつて私達と別れて帰つて行つた。……A4から列車脱線に関する話を聞いたことはある。しかしそれは昼か夜かも日もわからない。」と供述した。

右二つの証言によつても、A4が列車顛覆について話したのはA70とA71が一緒にA4に会つたときであること、この三名が一六日夜黒岩虚空蔵尊のお寺(満願寺)の門の附近で会つたこと、別れるときA4が「お婆さんに怒られるから」といつたことは一致している。このほかに一六日夜または一七日に右三名が会つたことは記録上認められない。

△ A4も一審公判一九回で証人として、八月一六日夜A71、A70に会いその際「祖母に叱られるから」といつてこの二人と別れた事実を述べ、弁護人の問に対し「一七日午前中長沢八百屋前でA70、A1、A77に、同日昼頃A78方でA71に会つた」と述べるに過ぎず、一七日にA70、A71と同時に会つた旨を述べたことがない。

△ さらにA4は右一審公判一九回証言で、A24弁護人の問に対し「九月七日頃昼頃ガード下でA70、A71と会つたとき、A71は「家に度々警察が来て困る」というので私は「俺のために苦労をかけて済まない」といつたところ「お前も警察で調べられるかも知れない」といつた。その時A71は私に「君から脱線の話を聞いたのは一六日の晩だつた」というので私は「そんなことはいわない」と、答えると、二人は私に「それなら君も警察で調べられるかも知れないが調べられたときは二人は聞き違いをしているといえ」といつた。この人達が九月一九日警察に呼出されて私と対決し、この時も八月一六日の晩に私から脱線があると聞いたといつたのである」と供述し、更に梨木弁護人の問に対し「警察では、お前がA71やA70に一六日の晩、列車顛覆があるということをいつたろうといわれたので、私はいわねといつたところ、私を右二人に一緒に会わせ警察官が二人に「お前達は本当に聞いたのか」と尋ねたところ二人は一六日の晩満願寺の前で私が左様いつたと答えた。それで私は「一六日にはいわない、一七日にいつた」といつたが、二人は「いや違う違う」と頑張つていた。」と供述する。

△ なお、A70、A71は証人として一〇月一九日裁判官の尋問に対し、いずれもA4から列車顛覆の話を聞いたのは一六日夜黒岩虚空蔵尊祭礼の際のことであると述べ、A70はA4が「列車顛覆があるんぢやないか」といつたと供述する(原判決五章二節4(4))。

△ 被告人A4の祖母赤間A43は一審公判二八回で証人として「自分は孫A4が八月一六日夜午前一時頃帰つたことを知つている」供述したが、A43が午前一時にA4の帰つたことを目撃したのかというと、そうではなく、九月二六日附A26検察官に対する供述調書においてA43は「八月一六日夜私は虚空蔵様のお祭で泊りに来ていた孫三人とともに午後一〇時頃就寝した。私はその晩一二時半頃便所に起きたがその時A4はまだ帰つていなかつた。翌朝私は六時頃起きたらA4は寝床に寝ていた。A4は七時頃起きたので尋ねると「昨夜は一時頃帰つた」といつた。」旨供述する(証一冊七三丁)。

△ 裁判官猪狩一の証人菓子製造業手伝A71の尋問調書をとつて見ても、同証人は「私が虚空蔵様から帰つてすぐ寝て一二時過頃(一七日昼過頃を指す意味にほかならない)眼を覚まして起き出したところ、列車が松川駅金谷川駅間で脱線顛覆したことを、菓子を買いに来た人から聞いて知つた。聞いた時に私は昨晩A4が「列車の妨害があつたがなあ」といつたことを思い出し「ああそれかなあ」と思い出した。」と供述する。これは一六日夜のA4の発言は「列車の妨害があつたがなあ」という過去の事実の話であつたかのように証言しながらも、それは本件顛覆事故が起らぬ前に話されたものであり、翌日昼、本件事故を来客から聞いて昨夜のA4発言に思い当つたという意味であるから、これによつてもA4発言の実質は予言であつたと解される。

以上の証拠によつても、八月一六日夜A4が黒岩虚空蔵尊の祭礼に行き満願寺の門の近くでA70、A71に対し「今晩あたり列車の脱線があるのではないか」という予言の言葉を話した事実に関し、捜査当局が被告人、右証人らに対し強制、誘導などをして不任意供述をさせたことのないことが認められる。そして以上の証拠によれば右日時場所でA4が右両名に右のような言葉を話した事実は動かない。もし八月一七日午前三時〇九分本件顛覆事件勃発後、記録上明らかなように多数人が現場の救援にかけつけ朝のラジオが特に福島、松川方面の住民を驚かすこのニユースを放送した後に、A4がA70、A71に列車脱線のことを話したのなら、それは半月後(調べられた時)までA70、A71の記憶に特に残るほどのことではない。

A4が「A4予言」をしたことは、アリバイを作る意図に反するようにも見えるが、A4はもちろん列車を脱線させる一味でない第三者のような顔をして「A4予言」をした上、「おばあさんに叱られるから家に帰る」といつて本件顛覆現場へ行かないように見せかけるアリバイを作つたつもりであつたと解される。当時満一九才になつたばかりのA4が陰険でも理性的でもなく、一部の党員や組合幹部のように意志が固くもなく、むしろ浅慮軽卒、口の軽い性格であつたことは記録上うかがわれる。

A4が一審公判一九回の衆目環視の公判廷で、A24、梨木両弁護人の問に対して明らかに自由任意に答えた前記証言においてさえ、九月七日ガード下で、次いで警察で、A4がA70、A71からA4予言是認の言葉を聞いたというA4自身ないし共同被告人に不利な証言をしたことの如きは、前にも触れたとおり、A4が捜査段階で「A4予言」を最初は否認し、A70、A71らの供述があることを知るとウソを交へながら少しずつ事実を述べ始め、ついに真実と認められる多くのことを自白するに至つたこととも照し合せると、A4が案外自分達に不利な事実を意に介せず任意に述べる傾向を持つていること、従つて彼の自白一般の任意性がうかがわれるのである。

その四 A4自白の任意性

被告人A4は捜査官にいぢめられ、教えられ、欺されて虚偽の自白をしたと主張する。けれども記録を仔細に検討すれば、原判示のようにその自白が不任意になされたものでないことは次のことからでも判かる。

(1)本件捜査段階で被疑事実を否定し通した被告人A9、A10、A11、A12、A13、A14、A17、A15、A18らがいる。このことは捜査当局の被疑者らに真実を述べさせようと努力ないしその手段方法が一定の限度以上には強くなかつたことを示す。

上告論旨は被告人のうちA4その他の青少年や女子(A23)が自分達に不利な供述をしたのは当局が弱年や女子であることに乗じて虚偽の自白を強制したからだというが、自白した本件被告人は青少年や女子だけではない、のみならず、青少年は一般に真実を早期に告白する傾向があることは実務上周知ともいうべき事実であることも考え合わせなければならない。A23は捜査の当初真実の全部を打明けるに至つていなかつたことは証拠上明らかである。A4は昭和二四年八月満一九歳になつた。

(2) 本件顛覆現場の近くで発見されたような軌道用工具バール、スパナ各一挺が一六日夜から本件事故発生までの間に松川線路班倉庫から紛失した事実が判明した経路が自然である。

(3) 捜査線上にA70、A71が現われて、一六日夜(本件列車顛覆の数時間前)この二人にA4が「今夜あたり列車の脱線があるのではないか」と予言的なことをいつた事実がたまたま捜査当局に判明し、この事実は赤間A43の証言によつても崩れなかつたため、A4はこの発言をも自白し、このことからA4が列車脱線の謀議があつてこれにも、また次いで脱線作業にも参加したことまで自白するに至つたその捜査経路は順当自然である。

(4) 原審公判廷におけるA4の警察の取調方についての供述中次のようなくだりがある。

「私は保原署に連れて行かれた後の九月二六日頃の晩、福島地区署に連れて行かれ、そこでA19、A15、A13三君の人物を見せられたので、その時始めてA19、A15の二人を知つた。その見せられた方法は、A19、A15の二人は一人ずつ取調べ室に入れられその室を開放しておき、私は廊下から同人等がそれぞれ前向きや後向きになつた時の顔や姿を見せられたのである。その時A98は私に対し、同人の背広を貸してくれ、一寸私だとは判らないようにしてから見せたのである。又A13の場合は、私は電気のない暗い接見室か何かに入れられ、A13は明るい廊下に連れて来られ、やはり同人を前後左右から見せられた。」(原判決五章二節引用原審三一回公判)。

なお「最初現場でA79とかいう名前を聞いたというと……松川の写真を持つて来て見せられた。……見せられた写真は人物に番号が書かれていた。そしてこの中に居るかと聞くので、その番号の内二番と四番の人をいいかげんにこれが似ているといつたのである、その写真は二〇人位の人が写されてあつた。写真の人物に名前は書いてなかつた。尤も名前は裏に書いてあつたかも知れないが裏は見せなかつた。(というのは、その前国鉄の写真を見せて貰つた時に、裏に名前を書いてあるのを私が裏を見ておこられたことがある。)その写真の人物の名前を聞かれたが、知らないのであるから知らないと答えた。」(同上原審公判三一回)。

更に、原審公判四一回証人警視A80の証言によれば、A4が自白をして、当夜松川の方から予定現場へ来た二人の人相着衣等を調べた後に証八六号の写真を示したところ、A4は、A19とA15に当る人物を指してこの二人に間違いないと述べ、その後いわゆる面通しを行つた際も、その時の二人はA19とA15とに違いないと述べた(原判決七章一一節三(三)1(3))。

これらの部分を見ると、警察当局が人違いなく真の犯人が誰々であるかを正しい方法により把握しようとしたことがうかがわれる。この態度は真実に合すると否とを問わず無理やりに特定人を犯人とするような供述を強いる態度とはまさに正反対のものである。

(5)A4は、全被告人が強く公訴事実を否認し犯罪捜査方法の非を鳴らしている原審公判廷三一回においてさえ、裁判長の問に対し、捜査当局が不法に不実の自白をさせたといいながらも、次のように供述する(前段(4)引用部分を含む)。

(警察での取調について)(問)「どういう風にきかれたか」(答)「誰々とやつたかというので三人でやつたと答えると待合わせたのは何処かというので、永井川信号所附近にある踏切の詰所のあるところから少し南の方に行つた所で待合わせたと述べた。すると今度は、どういう風に行つたかというのでまつすぐに永井川信号所の南の踏切に出てそれから道路を二五〇米位行き、そこから線路に上つて線路づたいにどこまでも行つたと述べた。」(問)「線路づたいにどこまでも行つたというのは事故現場まで行つたということになるのか」(答)「そうではない。トンネルの手前で山に上り、山道を通り、金谷川駅附近には待避壕のあることも畑のあることも知つていたから、鉄道線路でない畑を越えて道路に出て、そこから一〇〇米位も行つたところから線路に下りて又線路づたいに行つたと述べた。するとA62は浅川踏切の手前あたりで一五二列車と合つたろうというので、いいかげんに会つたと答えた。」……(問)「実行行為をした者にA12とA13の名前を出した訳は」(答)「調べを受けている間にA62はA12は自分でやつておりながらお前(A4)がやつたと述べていると言うので、私は何もしていないのにそんなことを言うA12さんがにくらしくなつたのでA12もやつたと述べたのである。それからA13さんの名前を出したのは、これも調べ中A13という者のアリバイがくづれているということをA62等が言つていたのを聞いたから、A13さんも関係していると思つたからである。……それで謀議の席上にA13も居たという話をしたところA62等が国鉄関係の写真を持つて来て、その中の、あとでA13さんと判つた人の写真を示されてこの男も居たかと聞かれ居ましたと答えた。……写真を見せられたのは、私が実行行為をしたと嘘の自白をする前である。……なぜ八月一五日に組合事務所に行つたと述べたかというと、A62が八月一七日にはA2松川工場でストをやることになつていたなどというので、もしそれが本当だとすれば当然A3労組の方にも連絡があつたろうと思つたからである。そんなことからだんだんたぐりこまれて、私がA12、A13の両名と実行行為をしたといわされるまでになつたのである。A3労組事務所内の謀議にA10、A9、A11、A12、A13、A81と私とが集つたと述べ、A10とA9を出したのは、八月一七日か一八日頃の新聞に本件列車てんぷくにA10、A30の両名が関係あるように出ていたのであるが、私はA30と出たのをA9と出たとばかり感違いをしていてその二人もやつたのではないかと思つていたからである。……A10、A9の名前は私の方からいい加減に考えていい出したと思う。取調官の方から名前を出してこれも居たろうこれも居たろうといわれて出したのではない。……」と。

またA4は原審公判廷三九回で裁判長との問答で「…:取調官は「一五日の謀議をするという連絡をいつされたか」ときくので、その時私は「一三日に伊達駅事件関係者の打合せ会の為A3労組事務所に行つた際連絡された」と述べたので、それに合わせるためにも一三日の行動についてきかれた際「伊達駅関係者の打合会に行く為その日は朝から国鉄事務所に行つた」と述べたのである。」……「私の嘘の自白で、一三日に国鉄事務所に行つた際「一五日にも来い」といつたのがA11であるといつて、そこにA11の名前を出したのは、その頃伊達駅事件関係者の世話をしていたのがA11であり、当時警察官にいわれてこの事件は国鉄がやつたとばかり思つていたので、A11も関係していると思つて同人の名前を出したのである。実行行為については「お前は何処からやつた」ときいたので、私は「A12が外した継目から松川の人が犬釘を抜き始めた」と述べた。それはいいかげんに述べたのである。継目を何ケ所外したかということはきかれなかつたと思う」。(裁判長問)「それは間違いないか」(答)「私はその点についてきかれた記憶がない。考えても思出すことができない。当時私は取調官にあまりいぢめられて通常の頭ではなかつたような気がする。」(問)「取外した継目が一ケ所か二ケ所かという点について具体的にきかれなかつたか」(答)「きかれたかどうか記憶がない。」……「継目を外したのが一ケ所か二ケ所かの点については検事もあまりつつこまなかつたと思う。私は捜査官の取調に対して継目を取外したは一ケ所だと供述したことはある。しかし一ケ所といつたのは検事である。検事が「一ケ所外したろう」というので「そうです」といつただけで、私から一ケ所といつたのではない。私はA12が外したところから松川の人が抜き始めたといつたら検事が「それではA12が一ケ所完全に外したろう」というので「そうだ」といつただけである。犬釘を抜いた範囲は検事にいわれて「そうです」といつたのである。」と供述する。

捜査当局の取調方が仮りにA4の右原審両公判期日における供述(詳細は原判決二節に引用)とおりの状況であつたとしても、A4が「A4予言」を認めてから、八月一三日伊達駅事件関係者打合会があつたこと、一五日の謀議があつたこと、その時の出席者が誰々で、脱線作業に行くための集合場所、道筋、作業終了の帰途本件列車(四一二列車)が顛覆現場に向つて進行するのと出合つた地点が何処であつたかについての供述の大部分は、A4が思うとおりに述べたというのであつて、決して取調官が予め一定の事実を想定し、A4を誘導、強制して供述させたものでないことは明白である、とする原判決の判断は是認できる。A4が右公判供述で、実質的には、むしろ、取調官が誘導強制したのでない事実を「問うに落ちず語るに落ちる」式に物語つている部分が多分に存する。

(6) A4は、例えば、101A26検察官調書中で、脱線作業現場に被告人A12、A13と三人で行つた旨を述べた部分において(かく述べたとおりの事実であつたかどうかという供述の真実性の問題は別問題として)次のように供述する。

「又線路に出て一寸行くと列車脱線事故の予定地点へ着きました。併し松川から来る予定の者は未だ来て居りませんでしたのでその辺の現場を見たり等して約三分間程立止り様子を見ましたが未だ松川から誰も来ていない事が判りましたので、もう少し先へ行つて見様という事になり、急がずにぼつぼつと松川駅の方へ向つて歩いて行くと松川駅の遠方信号所の五、六十米手前で松川駅の方から線路上を歩いて来る二人の姿が見えましたので、私は約束の人がやつて来たと直感しました。前に……金谷川トンネルの上り口の処でA12が浅川踏切の先のカーブの処まで行けば松川から二、三人来て待つている筈だからといいましたので私はその晩松川から応援者が二、三名確実に来るという事を知つていたのであります。……松川の者に会うとA12が「お晩です」と声を掛けたら松川から来た二人の内一人は「お晩です」といい一人は「今晩は」といいました。……その中にA12がこれから現場へ行きましようといいまして松川から来た二人を加へ私等五人は私等三人が通つて来た元の線路上を引返し予定の現場へ向つて歩きました」(原判決証拠(82)(イ))。

このような供述は、いかにも本人が思うとおりに述べたもので、取調官が勝手に想定し押しつけていわせたものでないように思われる。これに似た供述は捜査の初期の他のA4供述にも存する。

(7)A4は「警察の調べの際、現場附近で列車に会つたと供述しその列車が一五二列車や一一二列車であると番号まで述べたのはA62に教へられたからだ」と主張する。

しかし、第一審公判廷二二回でA4が証人A80警視に反対尋問として「一五二号列車と一一二号列車の列車番号と一一二列車と出会つた場所……をいつたこともないというのですか」と問うたのに対し玉川証人の(答)「一五二号列車ということは判りません、何時頃の列車というように具体的にいつて尋ねて貰いたい。」(問)「しかし、証人は一五二号とか一一二号というように、列車番号をいつたのではないですか。」(答)「そのような列車番号をいつた覚えがありません。私は専門家でありませんので、列車番号等は判りません。それはA4が私にいつたのであります。……」と答えている。

そして、A4の検察官やA7裁判官に対する各供述調書を通じて、一五二列車にせよ一一二列車にせよ列車番号は一度も出ていない。(A4供述中列車番号が出ているのは九月二三日付証二七号嘆願書中の一一二列車、九月二九日付証二六号図面だけである。)

これから見ても、警察でも列車そのものは問題にしたであろうが、予め列車番号を知悉していて番号を問題にしていたということはなかつたと思われる。A62は、その証言する如く「現場に行く途中又は帰途に、列車に会うようになると思うがどうかといつてきいたが、何時何所を通るということは頭に置いてはきかず、判らぬままにきいた」のに対し、A4が一五二列車のこと、一一二列車のことを自ら供述したものと推測される。これらの点原判示は相当である。(原判決七章一一節(二)7(4))。

(8)検察官、裁判官の取調に当つて物理的強制脅迫暴行等の事実がなかつたことは(次の勾留尋問の場合のことを除き)A4自身第一、二審公判廷で認めている。

A4がA7裁判官から勾留尋問を受けたとき警察官、検察官がこれに立会つた事実がなかつたことは原判示のとおり証拠上明らかである。ただ同裁判官の証人尋問やA26検察官の取調の際A4に若干の喫食を許容した原判決説示のようなことは以ての外であるが、しかし、それはすでに自白して来た後のことでありかような事実があつたから右裁判官、検察官に対し不任意の供述をしたものとは認められない。この点の原判示(五章二節三)は相当である。

(9)、けだし、記録によれば、A4が捜査官、裁判官に供述をした当時は、本件列車顛覆は三人の乗務員の殉職を含む重大事件として犯人の捜査が行われつつあつたことをA4は新聞などで知つていた筈である。A4は、伊達駅事件で保釈出所するについてはA3労組福島支部幹部の世話になつて感謝し、馘首されてからも同支部に出入りし馘首反対運動についても警察当局に幹部とともに憤激しこそすれ、幹部らに対し怨恨も反感も持たなかつたと思われる。しかるに幹部や労組に対する義理を忘れ強力な彼らを裏切り恐ろしい憤激を買い応報を受けないとも限らないような自白、自分自身、今まで犯したどの過誤よりも重い罪によつて重刑を受けるかも知れない危険のある自白を、単なる誘惑、おどし、まどわしぐらいで、真実に反してする訳はない、と推測される。

一方、A4は、やはり真実なるが故に、そして結果が意外に重大であつたがために、申訳なさや悔恨の情から翻然非を悟り、すでに情況証拠も警察当局につかまれているので、種々まどいつつ、少しずつ自白するに至つたのであろう、自白して彼は良心の苛責から解放され心の安らぎを得たのであろう、とはいえ、真相全部を曝露することは幹部その他に対しても悪いし、自分の損でもあるから、他日の弁解の余地、逃げ道をも残しておこうとの思惑もあつて不完全自白をしたのであろう、と推測される(これについてはなお次項参照)。自白する者でも不利な事情についてはあまり自白したくなく、その場のがれのウソでもいつておこうとの心理が働くことはありうることである。

(10)原判示のA4を加えての八月一五日の国鉄側謀議や実行行為に関する簡単な、ほぼ923A26検察官調書程度の自白を、A4は検挙後八日目の九月一八日にした。そして九月二一日本件で勾留され一一月三〇日まで保原地区警察署で拘禁されていた。原審公判二五回での同署長A82の証言によると、

「A4は同署に拘禁されて二、三日後、同署長に対し問われもしないのに「すつかり申上げてさつぱりした。改悛して真人間になる。列車を引くり返してからは、何時警察に捕まるかびくびくしていたが、本当のことを申上げてせいせいした。」と何回もいつた。「検察官、裁判官にお願して同情して少しでも刑を軽くして貰つて一日も早く世の中に出る」といつたこともある。A4は同署長に対し、福島地区署での取調の話もしたが拷問脅迫強制のあつたことは少しも述べなかつた。

A4は「公判に行つたら、最初でなく、後から審理を受けたい。それは皆にいぢめられるからだ。他の人がどんなに嘘をいつても俺が最後に止めを刺してやる。」等としばしばいい、「A83法曹団の弁護士は頼みたくない。俺はA44党にだまされてやつたのだからA44党の弁護士は嫌いだ」ともいつた。」と同証人は証言する。A4は同証人に対しこれを否定する趣旨の反対尋問をしていない。また原審公判二五回での保原地区署次席A84の証言では

「A4が同署に拘禁中一〇月か一一月上旬同証人の宿直の際同証人に面会に来て先ず煙草を求めた後「此の事件は自分がやつたのです、申訳ありません、これから先もやつたことはやつたとどこまでも素直に申述べて行きたい。そして少しでも軽くなりたい」といつたことがある。汽車顛覆のことをいろいろ話したこともある。一一月二八日頃A4が兄のA85と面会した際A85に対し「自分は党のために犠牲になることはできない。やつたことはやつたという外はない。」といつたことがある」という。そしてA4はこの証人にも反対尋問をしていない。

なお右両証言によると、A4は保原地区署に拘禁中終始明朗快活に過し、その間苦慮懊悩などのことなく、右両証人の知る範囲では、A4が自己の自白が取調官の強制による虚構のものであることを述べるとか、あるいはそんな意味のうかがえる言動に出たことは一回もなかつたことが明らかであり、このこと自体はA4も第一、二審で争わない。この点の原判示は是認できる(五章二節五)。

(11)A4は保原警察署に拘禁中、署長A82に対し何回か弁護士を頼むことを話したので同署長は「検事か判事にいえ」といつたら、A4は判事宛に手紙を出したが「直接弁護士会に頼んだらよかろう」ということで付箋がついて戻つて来た。それでA4は、当時大塚弁護人がついていたのに、一一月一八日か二〇日に「福島弁護士会長様へ」あて弁護依頼の「御願」と題する手紙を書き郵送した(それは証二四号と同旨のものであること一審公判でのA4が自認した証言、ほか二人の証言で明らかである)。(原判決五章二節五)

この手紙には、「私は松川事件で……取調を受けております者でありますが私は今度の事件で世間の皆様を騒がして心配をかけ……申訳ありませんでした、私は今度の事件ではA83法曹団の弁護士に弁護をしてもらいたくないから是非福島弁護士会長さんのお力によりましてどうか私の弁護を福島弁護士会で弁護して下さるよう願いしたいとおもいます……」とあつた。

そして、A4は一一月二八日頃実兄A85と面会した際、A85から「お前は何故自分の方の弁護士を蹴つて福島の弁護士を頼んだのか」と問われて「それは俺の自由だから」と答えている(次席警察官A84一審公判証言)。

福島弁護士会ではA4の依頼に基き協議の上、A86会長ら七弁護士が被告人A4の弁護に当ることとなり一一月二二日頃その弁護人選任届が出されたが、右A86、A87、A88、A89弁護士が弁護を引受けるに当り保原警察署でA4に面会した際、A4は八月一五日に組合に行き一六日現場に行つた事実や検挙当時の経緯について談話をした。一審証人A86はその際のA4の談話はA4が自分の心に訴えて述べているものと感得したという。さらにA4はその翌日二三日付で「福島弁護士会長様へ」あてて右談話と同趣旨の、証二三号と同趣旨の手紙を書いた。それは次のようなものであつた。

「私は七月四日の第一回行政整理によつて退職しました、……七月七日に伊達駅の不正摘発にゆき……一六日伊達駅の事件で逮捕され……八月一日に保釈されました……八月一五日に組合に行つたらば明日の晩は虚空蔵様のお祭だから列車事故をやるにも誰がやつたかわからないからやろうという話によつて私も止むを得なく返事をしたのであります、そして私は一六日晩虚空蔵様のお祭りのアリバイをつくつて現場にいつたのです、私はまさか列車が顛覆などしるとは思いませんでした、一七日午前八時半頃人に昨夜列車顛覆したときいて私はとんでもないことをしたと思いました、そして私は事件後夜もろくろくねむれませんでした……九月二一日に私はあの事故を作つたのがわかつて松川事件で逮捕しられました、今では死んだ三人の人に心からをはびをしています、私は鉄道退職後組合に出入していないならばこんな事件をしないですんだのであります、今では私もあんなおそろしい事に加わらなければよかつたと後悔しています、然し今ではその罪を悔いてありのままをそのまま申上げて法の裁きを受けるのがほんとの人聞であり、そうすることが私には一番正しい人の道であることを保原地区警察署に来て永い間毎日毎日考へてからの心持であります、……何卒何卒来るべき公判では私をして弱い心となり折角私の真心をかへぬよう骨折つて下さい、私も現在の心をあくまでかいずどんな迫害があつても……男らしく最後迄闘いますことを誓います」と。

被告人A4は右面会の際A86弁護士らから「本件をやつたといえば弁護してやるが、やらぬというなら弁護してやらぬ」といわれたと主張する。しかし、かようなことはA86、A87両証人の強く否定するところであり、福島弁護士会に依頼のあつた弁護を引受けるに当つて会長その他の弁護士がそんなことをいう筈もなかろうこと確かに弁護士の本領上当然である。

A87弁護士は右面会の終つた後、保原地区署長に対し「今はああいう風にいつているが今後どうなるか判らない。本人がゆつくりと落付いて自分の思つている本当のことを書いた手記を出して貰いたい」といい、A4に対しても、多分A87弁護士から右面会の際話したことに記憶違いがあつても困るから、よく記憶を呼び起して書いて送つて貰いたいと話したところ、A4は承諾し、その結果二三日その手記(証二三号と同旨の書面)が弁護士会あてに郵送されたものであつたことがA86証言その他の証拠上認められる。

(12)A4は同警察署に拘禁中923A26検事宛嘆願書(証二七号)を作成提出し、ここで詳しく共同謀議と顛覆作業の共同実行等の事実を述べた(原判決五章二節五4)。

この嘆願書は、当時A4が同警察署の「二階に上つて書きたい」というので同署A82署長が「どんなことを書くのか」と聞いたら「検事さんによく心情を申上げて同情して貰いたいということを書きたい」といつたので署長がこれを許したから書いたものである。(「二階の明るい処で書きたい」ということを、A4が「嘆願書を書く時にいつたのである」ことは、一審公判二五回証人A82に対するA4の反対尋問中でA4自身が述べている。)

一審公判二四回証人同署勤務巡査部長A90は「A4から字を知らないから教えてくれといわれて数回教えたことはあるが、自分が指示して書かせた訳ではないから文の内容は記憶がない。自分は示された嘆願書のような書面をA4が書くところを見たことはある、……自分はその書面をA4が作る時書く内容を教えてやつたことはない、事件がどういう風になつていたかさえ判らなかつたから内容を教えることはできなかつた。」旨供述する。

これらを通観するに、前記福島弁護士会長あて弁護依頼の「御願」の手紙(証二四号と同旨のもの)、一一月二三日付「福島弁護士会長様へ」あて手紙(証二三号と同旨のもの)、検事宛嘆願書(証二七号)は警察官の強制的でない希望もあつたようでもありA4にしては出来がよいようにも見られるが、しかし、A4自身が書きたいと思つて、思う通りの趣旨を書いたもので、警察官は文字を教えるに近い程度の手伝をしたにすぎず、A4の書きたいと思うところに副わないようなことを書かせるに至つたとは認められない。

また、A4が全く欲しないのに、真実に反して、自他の犯罪の物的証拠となるべきかような文書を自筆で書く筈はないこと前示の証拠上明らかである。

(13)A4はその後一二月一日実兄A85と接見した際にも自白をひるがえす趣旨の話を兄にしたことはなく、かえつて兄に対し

「今までのが大体本当だ、兄さんはA44党だか自分は同じ兄弟でありながら気持が違う。自分はどこまでも闘う。三鷹事件のA91被告のようにはならない。自分一人で背負うようなことはしない。公判廷ではどうどうと闘う。また黙つているかも知れない。」と話したことは接見表や一審証人赤間A85、A92の証言、A4自身の控訴趣意書における自認部分によつて認められること原判示(五章二節六2)のとおりである。

(14)一〇月六日の勾留理由開示公開法廷でも、A4は自白が取調官の苛酷な取調による虚構のものであつたことを主張せず、全然発言しなかつたこと記録上明らかである(原判決五章二節四)。

(15)A4が保原警察署に拘禁中原判示(五章二節七)のような寛大な処遇を受けたことは認められるが、これは九月二一日以後のことでA62に対する自白には影響なくその後のその他の供述にしても右処遇によつて供述が自由任意にできなくされたほどのものとは認め難い。というのは、被告人A20も一〇月七日から一一月一日まで同警察署に勾留されその処遇はA4のそれとほぼ同様であつたことは一審A82、A84両証人の証言で明らかである、にも拘らず、A20は同署で一〇月九日笛吹(うすい)検事の、また一〇月末か一一月初めA29巡査部長の各取調に対し犯行を否認している。これから見ても、A4が自白をひるがえす気なら当時も否認できた程度の処遇と認められるからである。

以上(1)ないし(15)を総合すれば、A4自白の真実性は別問題として任意性を認めた原判示は相当である。

かくて、A4自白によつて、九月二二日国鉄側被告人A12、A13は共同実行者として、同A9、A10、A11は共謀者として、またA2側被告人A15、A19も共同実行者として検挙されるに至り、先ずA19は一〇月二日、三日ほぼ全面的に自白した。

その五 A19自白、A20自白の任意性、信用性

一 A19自白

元A2松川労組青年部宣伝部員被告人A19(満二〇才)は九月二二日検挙され、930A28検事調書で一六日夜A20、A22、小松が松川駅に行きスパナと釘抜を持つて来たと証言しただけであつたが、一〇月二日A62に対し始めて全面的自白をし、翌103A28調書で、一六日夜松川側被告人らだけの謀議にも、本件現場へ行つて脱線作業をすることにも参加した事実のほぼ全貌を自白し、105A7裁判官調書でも事実の全貌をまとめた証言をした。

A19は「警察での取調は強制苛酷であつた、一〇月五日A7裁判官の尋問の際A28検事が入つて来て自白を強制した」と主張する。

しかし、

(1) 一審公判二回におけるA24弁護人のA19自身に対する反対尋問中、A7裁判官の尋問に関する問答では

(問) 「裁判官はどんな風に質問したのか」

(答) 「何か尋ねる事項が書いてあつてそれに基いて質問を受けました、例えば八月一六日の朝から一七日までの行動に関して言えといわれたのでさきに検事に話したことを覚えていてその覚えに従つて答えたのであります」

(問) 「A7裁判官は被告人の答える内容を教えたのか」

(答) 「内容は教えません。先程も申上げました様に、さきに検事に尋ねられて答えたことを覚えていて裁判官に答えたのであります。」

とあり、A7裁判官の質問は包括的であつたこと、答えるべきことを教えたことはなく、A19が任意に、思うところを述べたことが十分推測できる。

(2) また、原審公判六九、七〇回でのA7証言によつても、同裁判官が一〇月五日A19を証人として尋問中、尋問の室に検察官がいたことはなく、同裁判官が昼休で不在中この室に検察官が入つて来たかどうかは同裁判官の知らないところであるが、昼休後のA19の供述態度は昼休前と同様の態度を示していたが、その後自白の証言をしたこと、このA7調書における供述は103、104の各A28調書における供述と同趣旨であることが明らかである。そして、A7裁判官の尋問の室にA28検事が入つたことのないことは、一、二審公判で同検事の証言するところである。

(3) 一審公判一八回証人A93記者A94は証言する。

「私は一〇月六日A19に対する勾留理由開示公判があつた際、新聞記者として記事取材のためその法廷に来た。その時裁判所の廊下でA19被告に会つた。A19の戒護はA95部長等であつた。その時最初私は「A19君元気かい」と声をかけたら、A19は「元気です」と答えた。私は「君はこの次公判だね」というとA19は下を向いたままうなずいた。私は「A19君今日の公判はどうだい。気分はどうだい」と話しかけたらA19は「私はやつたことについては本当の事を述べ、今日からは良心的にすつきりした気持になりたい」といつた。丁度その話の最中、同僚のA96記者が来て私の話が終ると同時にA19に「どうだい」とか「元気かね」というようなことをいつたと思う。するとA19が「とんでもないことをしてどうも済みません」と下を見ながらいつた。再び私はA19に「a町の人達にもA2の人達にもA19君は評判がよく、皆同情をもつて見ている。若し嘆願書という話でもあつたら僕も一筆書いてもよい」といつたらA19は「嘆願書のことは宜敷しくお願いします」といつた。……

私が法廷に入つた時は、A19は腰を下ろしうつむいており、A24さんが立つて話しているところであつた。その時A24さんは大要「あなた達は此の事件を何でもないと考えて居られるかも知れないが、とんでもない事である。条文によれば死刑か無期しかない罪である」という意味の事をいつた。その話を聞いてからA19は裁判官に「私が警察でいつた事は出鱈目です」と答えた。A19は法廷で裁判官に答えた時の顔色は非常に蒼白であつた、法廷前廊下で私等と会つた時に何かゆつたりした感がした。」

(4) 一審公判一八回証人A93記者A96も「一〇月六日福島地裁でA19の勾留理由開示公判があつた際その公判の開かれる前渡り廊下のところでA19に会つた。A19は……うつむいていた……A94記者としゃべつていたようであつたので「どうしたい」といつたら彼は「飛んでもない事をして申訳ありませんでした」といつてうつむいていた。……A19が右のようにいつたので矢張りやつたのかなあと思つた。A94記者が嘆願書のことを話したときA19はお願いしますといつて頭を下げたがその時私は本当に頼むと思つた」と証言し、A19の「私はあなたに声をかけたことはないんですが」との反対尋問に対し、同証人は「それぢやあの時あなたはタバコを誰から貰いました」と反問し、A19が「タバコはA94さんに貰いました」と答えるや、同証人は「冗談でしよう、あれは僕がやつたんぢやないか」と述べた(一審一七回公判証人A19戒護の巡査部長A95も右両記者の証言に符合する証言をしている)。

(5) 記録によると、右一〇月五日のA7裁判官のA19証人尋問の際、A19が主張するように検察官が入つて来て自白を強制した事実があつたとすればその翌日六日の右勾留理由開示法廷でもA19はこのことを主張すべき筈と思われるのに主張せず、同法廷でA24弁護人から重刑に当る犯罪であるとの話を聞いて始めて取調の苛酷を具体的でなく主張したにすぎない。

これらに照らしてもA19自白に任意性とその重要な、大きい部分について高い信用性があることが認められる。(この点原判決五章三節の判断は相当である。)

二 A20自白

記録によると、元A2松川労組青年部員被告人A20(満一九才)は一〇月四日に逮捕され106笛吹(うすい)検事調書において、

「八月一三日松川労組事務所で原審被告人A97(A3労組福島支部委員、福島地区労働組合会議書記長)と被告人A14(松川労組長)等A2側被告人数名が本件犯行に関する謀議をした、また、一六日夜松川工場八坂寮組合室で被告人A5(福島地区労会議手伝)とA14等A2側被告人数名が本件犯行の謀議をし、A5辞去後もA2側八名は謀議した、同夜A20、A19、A21、A22は被告人A18、同A23とともに松川労組事務所に泊まり、A20、A21、A22は午後一〇時半頃松川線路班倉庫に行つてバールとスパナを盗み出して来た、同夜午前一時半頃被告人A15が松川労組事務所に来てA19とともに右バールとスパナを持つて現場に行つた。」ということなど、A2側の謀議と実行への関与部分について全面的自白をした。

翌107A7裁判官調書でも(八月一三日右国鉄のA97が松川労組に来てA14、A17、A18らと謀議した事実を除くほか)前日の笛吹(うすい)検事調書の自供を繰返えした。一〇月九日以後供述を変更しあるいは新たにした部分が少なくない。

上告論旨は、A20は警察官からおどかされ、誘導されたため自白したところ、飲食物等を喫食させて貰い、検事からも強制誘導された、その影響下にA7裁判官にも虚偽の供述をした、と主張する。

しかし、

(1) A20は一〇月七日勾留尋問の際被疑事実を読聞けられて「御読聞けの通り事実は間違いありませんが、私は汽車を顛覆させて人を殺したのでなく、私は保線区倉庫からA21、A22と三人でバールとスパナを持つて来て、それをA15とA19が脱線に行くときに渡しただけであります。私の名前や何かを発表しない様お願い致します、今度更生します。」と供述した。

(2) 前記一審公判一七回証人巡査部長A95の証言によると、一〇月二三日同証人はA20を含む本件被疑者七名戒護の全般的責任者として福島地裁の勾留理由開示法廷に出廷したが、同日出廷前回裁判所の一室で、被疑者一人五分間という制限の下に弁護人A24辰雄、大塚一男と被疑者らが面接する際戒護者として弁護人の了解をも得て、そのいるべき場所も弁護人から指定されて、その室内の指定の場所にいた、その室でA20が右両弁護人と面接したとき弁護人から自己紹介や勾留理由開示の趣旨説明があつた後「大塚弁護人であつたと思うが「貴下此の事を本当にやりましたか」といつたらA20は下の方を向いていたが細い声で「本当にやつたのです」とはつきり答えたように記憶している。それから、A24弁護人と記憶するが「貴下は一人でやつたのですか」と尋ねたら、A20は一寸の間下を向いていたが「私とA21とA22の三人でバールを取つて来たのです」と細い声でハツキりいつたことを記憶している。A24弁護人と思うが「この事件は死刑と無期きりないことであり、貴下一人で責任を負われるものでない」といつたように記憶する。「今後の公判でいいたくない事はいわなくとも良い」といつたように記憶する、そしてA24弁護人と思うが面接後三分余過ぎた頃「もう宜しいです」といい制限時間内に面接が終つた、そして、右勾留理由開示法廷ではA20は何の発言もしなかつた」と証言する。

(3) A20は右のように開廷直前弁護人から勾留理由開示手続の趣旨説明を受けながら同法廷では何の発言もじなかつた。このことは右一審公判A95証言で明らかである。この証言に対し、「A20被告は右勾留理由開示法廷で発言したのではないか」との反対尋問を被告人や弁護人達はしていないことも記録上明らかである(原審三四回公判A20供述)。

(4) A20は原審公判三四回で何等「勾留理由開示法廷では捜査官に虚構の自白をさせられた」というような主張をしていない。のみならず、右開示法廷に入る直前弁護人から「貴下此の事を本当にやりましたか」と問われ「本当にやつたのです」と答えた事実をもA20自身が原審公判廷で認めているのである。

(5)(イ) A20は115A6調書で「私は本当に本件の列車顛覆事件に参加したのであるし事実はまげられないという事を考い又結局はA14等にやれと云われた通り動いて斯様な大きな犯罪を犯して了つたという事などを考合せて矢張り本当の事を素直に申上げ寛大な御裁きを受けたいと思ふに至りました。私の立場はA44党員としてA14や其他幹部の人から引摺られて此事件に入つて了つた形で自分乍ら意思の薄弱てあつた事を思ひ馬鹿々々しくもなり現在は社会に対し非常に申訳ないと深く後悔致して居ります今後は人間として正しい道を歩んて行き度いと思つて居ります其意味において私の犯した罪を有のまゝに申上けそして公正な御寛大の御裁きを得たいと考いて本日も全部記憶違ひの処を想起して本当の事を申上けました只公判廷でA14其他の人達と一緒に取調を受けた場合には今の心境では其人達にどんなに悪るく思はれるか知れないので恐ろしくて到底本当の事を申上け兼ねます」という。

(ロ)A20は原審公判九二回(A20本人の自筆陳述書に基く最終陳述)でも「……九月二二日にA15さんとA19さんが逮捕されたのであります。そのために組合運動がいやになりました、組合運動をやらないなら弾圧から必らずさけることができると考えましたそれで九月二三日に組合運動をやめてしまいました。またA44党を脱党すれば大丈夫だと思い脱党しようと考えましてその后は家におりました、この様に逮捕前から警察に対して非常に恐怖心がありました、また家庭には病気の母と妹と二人きりいない生活の中心になつていた私が逮捕されていなくなつたのでいつたい明日から病気の母と妹はどうして生活をして行くだろうと心配で心配でならなかつた……」と陳述する。

今までA2松川労組もA3労組福島支部とともに人員整理反対運動をやつて来たのであるから、A20は、本件列車顛覆致死のニユースを八月一七日頃知つた時から、あるいは少くとも九月二二日検挙された時から、右労組もしくはそのメンバーの動きについて捜査官から種々質問されるかも知れないことを予想しこれに対処する答弁の腹案も大体出来ていて取調に臨んだことと思われる(A20はA19が九月二二日逮捕された後、九月二十四、五日頃両A18、A21とともにアリバイ証明書を作成したと供述する、1012A6調書)。そして反省して党や労働運動から身を引こうと思つていたのであるから、彼らに対し無責任な不利なことはいいたくないが、また何時までも彼らに引張られて彼らに対し遠慮ばかりもしておられない、事柄によつては割切つて事実を打ち明けてもよいという気持もA20にはあつたであろう。してみれば、A20の右陳述は却つて搜査官に対する供述の任意性の一情況証拠になる。しかし、A20が身を引こうと思つていた気持からは直ちに「取調に対したやすく誘導に迎合する」気持は生れて来ない。誘導されたからといつて、党や組合あるいは自分の仲間であるそのメンバーに不利な、殊に致命的な供述を真実に反してまで供述することはむしろ彼らに対する強烈な反逆であつて単に身を引こうとする気持とは程遠いからである。

(6)上告論旨はいう、A20自白によると、八月一六日夜国鉄側A5が連絡に来て松川側被告人らと謀議した際にも、同夜A5が辞去した後の松川側だけの謀議の際にも、これから脱線顛覆させるべき列車を「午前三時〇九分の列車」というように指し示したことになつているが(106笛吹(うすい)、107A7、1011笛吹各調書)、この時刻は実際に本件列車の顛覆した時刻であるから事前に被告人らが知つてこの時刻の列車と指示して謀議できる筈はない、と。けれども原審公判三四回でのA20供述によれば右は新聞や逮捕状によつて記憶していたところを述べたというのであるから、A20自白の右の部分もA20が思い出したとおり任意にしかし間違えて述べたこと明らかである。

ここで一応問題となるのは、右(ロ)の巡査部長A95の証言を証拠に、少くとも任意性の判断資料にとつてよいかどうか、である。右A95部長の証言によると、同人は勾留中の被疑者A20らが一〇月二三日福島地方裁判所での勾留理由開示法廷に出頭するにつき戒護責任者としてこれに同行し同日開廷前回裁判所の一室でA24、大塚両弁護人が同人と面接する間弁護人の了解をも得て戒護者としてその室にいた、そして本件について両弁護人とA20との間で話される問答の一部がたまたま耳に入つた、その内容は前示のようなものであつた、という事実であることが認められるが、しかし右戒護者が被告人と弁護人の接見する間その室にいたのは両者の談話内容を盗み聞く意図に出たものとは認め難く、その室が裁判所の一室であつて弁護人との接見にも被告人の逃亡を防ぐにも適しないものであつたため戒護の必要上弁護人の了解の下に談話の一部始終を聴き取るには不便な距離にいたことが右証言からも察せられる。そして右弁護人もしくはA20が欲するなら戒護者に知られないように小声で話すことができ、弁護人はこのことを被告人に教えることもできたのに、敢えて彼に聴えるほどの声で話したということは弁護人、被疑者が談話内容の一部を戒護者に知られても構わないつもりでいたこと、すなわち談話内容の秘密性を放棄する意思であつたことが理解できる。かような場合においては右証言内容を任意性の有無の判断は勿論、有罪無罪の判断の資料とするを妨げない。のみならず前段(二)で示したように、A20が右接見の際弁護人から「貴下此の事を本当にやりましたか」と問われ「本当にやつたのです」と答えた事実を、原審公判三四回で自ら認めている。

捜査官が弁護人、被告人主張の如くにしてA20をして不任意供述をさせその影響がA7裁判官に対する供述にまで及んだという事実は認められない。

以上を総合すればA20自白の任意性を肯定した原判決(五章四節)は相当である。そして右に示した点はA20自白のかなり大きい、原判決の採用した部分の信用性の高いことを認めさせる資料となる。

その六 A21自白、A22自白の任意性、信用性

一 A21自白

A2松川労組青年部員で、馘首されていないA21(満一九才)は一〇月四日本件で逮捕され、同月六日付辻検事調書において、八月一六日夜松川工場八坂寮で松川側A14ら八名で本件犯行の謀議をし、A20、A22と三人でバール、スパナを盗んで来た、その夜遅くA19と思われる人が外に出て行く音を聞いたこと等全面的自白をし、107勾留尋問調書でも、A20、A22とともにバール、スパナを盗んで来たことは相違ないと供述し、一〇月七日付A8調書では八月一三日から一七日までの行動のほか、一三日国鉄側A97が松川労組事務所に来たときA18から列車脱線計画ある話をされこれに賛意を表した事実を供述し、108A7調書ではそれまでのA8調書をまとめる供述をしたこと、原判示(五章五節)のとおりである。

論旨は「警察官等は「いわねば死刑」などと脅かし、肩をゆすぶり、「盗んで来たといえばすぐ帰す」、「A20、A19、A22もいつている」などといつて被告人に自白させ、辻検事は夜一二時まで調べて自白を強制誘導し、A7裁判官の取調べもその影響下になされ、その他A21自白は不任意になされたものである」と主張する。けれども

(1)A7裁判官が右取調の際A21被告人に不任意供述をさせた事実はその原審公判六九、七〇回証言によれば認められず、同裁判官が取調中被告人に果物をすすめたりA8調書を見せたりしたことはないことが認められる。

(2)かようなA7裁判官の108調書冒頭に、同裁判官の問に対するA21の次のような供述がある、(問)「これまでの警察や検察庁での取調の状況如何」(答)「朝は大体八時か九時頃から夜は一一時頃であつた、しかしそれは一日だけでその外の日は朝はやはり八時か九時頃から午後三時頃までであつた。食事の時は大概一時間位休憩していた、又取調に当つて強制されたり拷問を受けたりしたようなことはない」(問)「今日は疲れていないか」(答)「る時間が十分あつたので少しも疲れていない。」

(3)A21自白の内容には不合理や理由のよく判らない供述変更の部分もあり、殊に106A8調書における松川線路班倉庫の板戸の構造、A21も倉庫の中に入つた点、帰路、帰つてからバール、スパナを置いた場所等に関する自白が真実に合わず、他の自白とも合わない点などもあるが、それはA21の記憶の喪失、回想困難、頭の混乱あるいは、当時大阪から応援に来たばかりの辻検事(原審公判五七、五八回証言)が現地の実情にうとく事件内容の把握に徹せず釈明、質問の不十分なせいであつたかも知れないが、それだけで直ちに不任意供述だと疑うことはできない。何となれば、不任意供述を敢えてさせようとする取調官であるなら、不合理、非真実と思われる供述をそのまま調書にとるとは考えられないからである。

(4)A21の1010第六回A8調書には次の記載がある、

「私は八月一七日の列車顛覆事件後、人に顔を見られるのが嫌なような気がし、特に姉夫婦に対してはその気持が強かつたため八月末頃まで三回程信夫寮やA18さんの家に泊りに行つたことがある。しかし、滅多にバレることはあるまいと安心していた。 九月二二日朝組合役員の改選があるので組合事務所に行くと警察の人が五、六名来て書類をひつくり返していた。A18君にきくと、A18は「今朝A19君が逮捕され……書類を押收しに来ているのだ」といつた。私は警察の人の内に顔見知りの人がいたので、直ぐ警察の人が来ていると判つた。私は五分程この押收を見物していたが、気持がよくないので職場に行つた。A18さんに何でA19君がつかまつたかきいたが同君は知らねといつたので、私はその日一日職場で心配していた。……二三日読売新聞でA19が列車顛覆の容疑でつかまつたことを知り、非常に気持が悪く、その前日、A18君と、A20君のところに対を相談に行く約束も止め、事件のことを忘れようと思いa町々内野球大会を終日見物していた。……A19が逮捕されてからは私も逮捕は免れないと覚悟していた。それ以後も毎日A14、A17、A18さんとは顔を合せていたが、誰も一言も列車顛覆事件については話さず、心配そうな重苦しい表情であつた。」

これらによつてもA21自白の任意性が判かり、一、二審公判のA80、A98、A8の証言によつてもA21に対し所論のような捜査官が誘導、圧迫、強制をして自白させた事跡は認められないというほかない。(右最後の(二)のA21自認の如きは捜査官が案出していわせることの不可能なほどの事柄と思われる。そしてこれはこれとして信用性は高く、A21自白の中には他にも信用性の高いものをみる。)

二 A22自白

元A2労組青年部員A22(満一八才)は九月一八日本件のうち窃盗の容疑で逮捕され同月二五日盲腸炎で釈放入院、治療後一〇月八日再逮捕され、105A8調書において、八月一六日夜八坂寮組合室でA14らA2側八名が謀議し、これに基きバール、スパナを盗み出し、同夜午前一時過A19が列車顛覆の実行に行つたこと等全面的自白をし、その後も自白し、勾留理由開示法廷では否認したがその後再び自白した。

上告論旨は、A98部長、A62が絞首台の話をしたり「死刑だ、無期だ」と手を引張つたり肩をゆすぶつたり「A20、A21は認めている」といつたり病後の青年を夜遅くまで調べて自白を強要した、検事も苛酷に調べ、A7裁判官も誘導し、押しつけた等の事実を主張する。しかし、

一審五二回、原審四三回証人巡査部長A98の証言によれば、被告人A22は福島地区警察署に勾留中一一月一三日頃監視巡査を通じて巡査部長である同証人に面会を求めたのでA98はA22を同署の二階に呼んだところ、A22は「思い出した点があるから話す」と前置きして「九月二五日から盲腸炎で入院中同月二八日頃被告人A14(松川労組委員長)が見舞かたがた病院に来て、自分(A22)が警察で本件について取調べられた状況や八月一六日夜松川労組事務所に泊つた際の状況について種々問いただして紙に書取り、かつ本件のようなことをやつたといえば死刑か無期になるのだからそんなことはいわない方がよいと(A22に)話した」と告白し……また、(A22は)「警察の監房に入つている間に衣類や手廻品と一緒に光(タバコ)の箱の中にA18か誰か相被告人からの通謀の紙片が入つていた」と述べてその紙片をA98に提出した、という事実が認められる。 一、二審公判廷で被告人A22は右証言を否定するような反対尋問をしないばわりでなく、一審公判では、A98との間で次のような問答をしている、

(問)「一〇月(一一月の誤りと認める)一三日に私が監視巡査を通じて証人に面会したいと申込んで来たといつたね。その時の監視巡査は誰であつたか」

(答)「今では記憶がない」

(問)「その時A97はA2に行き謀議したのではないかということをきかなかつたか」

(答)「記憶がない」

(問)「その時証人は私に昼食をたべさせた記憶がないか」

(答)「ある」

(問)「どこでたべさせたか」

(答)「当時被告は中に入つているより、ここにいる方が楽だといつたので二階でたべさせた」

(問)二つくれた記憶があるか」

(答)「ある。それは当時捜査員が出張したので残つた飯である」

ところが、原判決のいう如く、一一月一三日頃といえば本件で証拠とされているA22自白調書の作成はすべて一一月六日以前に終つており、A22が起訴された後であること記録上明らかである。もし、A22が論旨主張の如く取調官の苛酷な取調により心にもない虚偽の自白をしたのであつたら、特に苛酷であつたと主張されているA98部長に対しA22が進んで面会を求め同志を裏切るような告白をする筈がないと思われる。そして右A30証言は右A22の反対尋問によつても措信できる。

また八月一三日の松川労組におけるA18がA22ほか三青年に話した列車妨害企図について、すでに他の被疑者の自認があつた後にも、116A8調書は後記(その一〇の三末段)のとおりA22の殆んど否定的供述を録取しているのである(その一〇の三末段)。

以上により、また玉川、辻各証言にもより、A22自白の任意性を是認した原判決(五章六節)は相当ということができる。

その七 A1自白の任意性

任意性有無の判断において次の点が注意されなければならない。

(1) A2松川労組副組合長被告人A16(満三三才)は、八月一三日以降、原判決冒頭(第二(二))判示の反対運動の核心部にあつて、国鉄福島労組とA2松川労組の共同闘争上の機密にわたる事項に関与する立場にいた。尤もA1は右A3労組の最高幹部や松川労組長A14、オルグA15と同程度に最高機密に関知したとは思われずある程度疎外され、また青年部員等にも指導力に欠け浮上つていた点もあるが、当時右国鉄支部幹部、福島地区労働組合会議雑務手伝被告人A5とも連絡する立場におり、松川労組青年部副部長A17、同部常任委員A18に優るとも劣らない程度の右機密を知る立場にいた。そして、A14、A15とともに、A17、A18と絶えず連絡をとり、青年部のA19、A22、A20、A21等に対してもなお指示し得る立場にいた。これらのことは原判決挙示の(A1自白以外の)証拠上認められる。

A1は本件列車顛覆事故前八月一三日松川労組青年部常任委員A54が逮捕されるや即日その釈放要求に福島市警察署に行つている。

それならば、A1がもし本件に関係なく全く潔白であるなら、九月一八日同労組青年部員A22が逮捕され盲腸炎入院釈放後再逮捕され、あるいは同部員A19が九月二二日逮捕されたときに、何故前にA54釈放要求をしたときのようにA22、A19の釈放要求なり事情糺明に捜査当局の許に行かなかつたか。副組合長である彼の運動上の地位から見てA54の県会赤旗無許可行進事件よりも重大事態に立ちいたるかも知れないと思れるA22(窃盗容疑)、A19の逮捕に際して、何故A1自身が一〇月四日逮捕されるまでこの二人を見捨てていたのか。この間の事情について納得いく説明が主張されず、記録上現われない。

(2) また、A16は潔白なら、逮捕当初からそれを強く主張し、あわせてA22、A19の逮捕理由を捜査当局に糺すことができた人物と思われるのにそれをしたことも主張されず、記録上も認められない。原審公判(三三回)でA1は、裁判長から「取調に対して被告人はこういうわけだからやつたことがないとか、このようなことを調べて貰へば関係のないことがわかるというような弁解はしたか」と問われ「そういう弁解はしませんでした」と答えている。

(3) A1は例へば原審公判(三三回)で「一〇月一六日晩A62から「今晩云わなければお前の命はないものと思え」と脅かされ、A29部長から地獄極楽の絵を描いて示されて「否認するのは地獄に落ちることだ……」といわれた」とか、また一〇月二三日勾留理由開示法廷では事実を否認したが、それからA1の妻から「本当にやらないのに嘘と判るようなバカなことを自供するなんてだらしがないではないか、夫よ元気で正しく頑張つてくれ」といわれた、と供述しながら、裁判長から「それをすぐ翌々日また自白したのはどういう訳か」と問われ「法廷でさえも私を調べた警官がついているので本当のことはいえない程だつた……帰るとA62は「お前なんかいつでも棺桶に入れて医学生の解剖材料に廻してやる……」といつたから、また嘘の自白をしたと供述する。しかし警察官から「今晩自白しなければ命がない(他日死刑になる意味としても)」といわれても、新聞でも読める位の人なら、殊に警察に対しても反対闘争をして来、A54釈放の掛合いにも警察へ行つた副組合長のA1ならそれに乗る筈はなく、従つて警察官も始からそんなことをいう筈がないだろうと考える。況んや「お前なんかいつでも棺桶に入れて医学生の解剖材料に廻してやる」などということを実行することは、今の世に、どんな偉い人でも悪い人でも出来ることではないから、かようなことを警察官がいつたり、A1がこれを真に受けたりしたとは信じられない。かえつてこんな被告人の供述こそ、右のような脅迫のなかつたこと、被告人が右のような脅迫をおそれなかつたこと、外に不任意供述をする格別の事情はなかつたことを裏書するに近いもので、従つて、A1は勾留理由開示法廷で否認後も、何ら恐れもせず、また格別恐れを抱く事由もなく、すなわち自由任意な心持から再び自白したことを示すものといえる。

(4) A16は警察の取調も終りその書類が検察庁に送られた後、そして笛吹、A28両検察官、A7裁判官の取調も殆んど終了を告げた後、警察で勾留中一一月一二日頃(一二日付で)福島弁護士会々長宛の手紙を

「今回の松川事件に私はA14さんの義理其の他の事で巻込れ社会に対し申訳のない事をして仕舞いましたそれで一際の事実を申上げましたので、貴弁護士会に是非適任者を御選び下され私の弁護をして頂き度う御座います尚私は何の貯もない者です故其の点も御話して見たと存じます何卒宜敷しく御取計ひ田上ます尚早急に御足労をお願ひ致します十一月十二日A16」

と書き(証三八号の一)、この手紙(封筒同号の二)の発送をA1を取調べた巡査部長A29に依頼して手渡した(原審公判五五回、五九回A29証言)。しかし、この手紙を同巡査部長が出さぬ前に、A1は妻A99に面会し妻からさとされた結果この手紙を出すことを中止する旨申出でたので、同巡査部長はこれを出さないで終つた。

当時A16にはA24、大塚両弁護人がついていて、勾留理由開示手続も終つていたのに、かような手紙を書いた理由について、A1は、一審公判(三回)で被告事件についての陳述中(長谷部弁護人の問に答えて)

「私はA83法曹団以外の弁護士に会わなかつた。私が無実の罪におちると思つたとき、A29部長が、福島にはただで弁護をやつてくれる弁護士がいるといつたので、減刑論をやつて貰いたいと思つて福島の弁護士に手紙を書いたのであるが、その翌日、妻が面会に来てこんこんとさとされたので断つてしまつたのである」と陳述する。すなわちA1は「減刑論をやつてもらいたいと思つて」この手紙を書いたこと、原判決のいうように、妻から懇々と諭されて始めてこの手紙を出すことをことわつたこと、(妻からこんこんと諭されなかつたら手紙を出すことを思い止まらなかつたこと)を公判廷でも自認しているのである。

すでにA24、大塚両弁護人がついているA1に、たとえ警察がA1を強制して別の弁護人を選任させてみたところで、A1は随時これを解任できるのであり、警察官もそれ位のことは知らね筈はないから、無理に別の弁護士を頼ませるような無駄はしないだろうと思われること原判示のとおりである。

されば右の手紙が強制によらず、A1の自由な本心から書かれたものであることは明らかである。

(5) A16は一一月一一日付「行動」と題する手記(証三七号)を書き、末尾に「司法警察官A29様に差上ます」と書いて同人に差し出した。この手記はザラ半紙二〇枚位を巻物体にして達筆な自筆で書かれたもので、書かれた時期は前項の福島弁護士会宛依頼状の書かれた時期と相前後し、警察で勾留中の一一月一一日頃の約二日間であり、その内容はそれまでのA1自白と僅かに相違するが全体的にそれをまとめたもので、A1の10・28A28調書以後の検察官調書、A7裁判官証人調書における八月一二日から一七日までのことに関する供述とほぼ同じ位の詳しさの、同趣旨のものである。

この書かれた時期は、やはり、警察の取調も終りその書類が検察庁に送られた後、そして笛吹、A28両検察官の取調も殆んど終了を告げた後であつた。それで、A29巡査部長が録取したA1供述調書はこの「手記」の書かれた当時にはすでに警察にはなかつたから、同部長が調書内容をA1に教えて書かせることはできない状態にあつた。以上のことは原判決(五章七節二)挙示の証拠によつて是認できる。

この点についてA1は一審公判(五五回)でA29証人を反対尋問する問の中で

「この書類は証人(A29)から書けといわれたものである。今日はどうしてもお前に書いて貰わねばならねといつた。今迄検事のとつた調書をまとめて書いてくれとの事であつた。私は「嘘の事はいくら書いても仕方がないから書かない」といつたら証人は「それは本気でいうのか、今迄の事は皆本当だ、ここに八月一二日から一七日までのことを纏めて書け」といつた。私は「調書はさんざんぱらとつたのだから、もうよいだろう」といつたら「調書は検事や裁判所に持つて行つたから、家に持つて帰つてこれを宝にするのだ」といつた。」といつている。

してみれば、警察、検察官、A7裁判官の取調も殆んど終了し、今さら警察官の取調の必要もなく、A1の自筆の手記を欲するA29巡査部長の求めにたとえA1が応じなかつたとしても、A1が同人から別段堪え難い圧迫、冷遇を受ける筈もありそうには思えず、A1は「御免こうむる」で通せたと考えられる。A29としてはA1自白が嘘でなく、自分の証言も嘘でないことの物的証拠(この意味では私物でもある)を出来れば欲しかつたと思つたにせよ、A1が真に本件犯罪に無関係なら今まで闘争相手であつた警察の一員に対し、すでに取調の終つた頃、どうして共に反対闘争をして来た両組合、その力強い幹部、仲間、部下青年達あるいは党を裏切り、自分と愛する妻子を破滅に導くかも知れない供述を真実に反して、二日間にもわたつて約一万字に及ぶ手記として書き今までのA1自白を裏書する必要があるのであろうか。

(6) 一審公判(一七回)証人A95は証言する、「A1は一〇月二三日福島地裁法廷で勾留理由開示が行われるに当りA24、大塚両弁護人と面接の際、「大塚弁護人と記憶するが「貴下話したの」といつたように記憶する。すると、A1は下をうつむいて軽くうなだれて頭を軽く上下に動かした。……それからA1は二、三回うなだれて「困つた」というようなことをいつていたが、大塚弁護人は、「ね、此からでも遅くないよ」といつたように記憶する。そうすると、A1は男泣きに泣いた」と。その他原判決摘録のような内容の証言をしたA22証人に対し、A1は公判廷で全然反対尋問をしていない。

以上のとおりであるからA1の諸自白(「手記」を含む)が誘導強制等によらず任意になされたものであることは十分是認することができる(なお原判決におけるA1が警察官に相撲を挑んだことやA1自白によつて始めて捜査官が知つた事項に関する説示も是認できる。)

A1の諸自白は相互間に甚しいくいちがいが多く、他の者の供述や客観的事実と認められるところとも一致しない点が多いには相違ないが、しかしそれが捜査官が強制して自白させた証拠であるとはいい難い。

本件捜査当時におけるA1の心境はどんなものであつたか。

A16は松川労組副組合長で、昭和二三年九月頃から組合運動に従事し、同二四年一月A44党に入党したばかりであつたが、これについては懐疑と後悔を抱き、妻子を愛し、A31のように「家よりA44党の方が大切だ」(A5一一月一〇日A8調書、後記その八A5自認(3)参照)というような固い志を持つてはいなかつた。組合の青年部員らに対しても指導力に欠け、生活は苦しくA14からは昭和二三年暮から二四年六月までに数回に合計七、五〇〇円を返すに及ばないといわれて借受けており、最近は妻からは組合運動をやめてくれと度々いわれながらも、組合をやめようといえばA14に怒鳴られそうで頭が上らない状態で、彼は岐路に立ち迷い惑いつつあつた。組合運動には熱意をもつて打込めず、組合幹部、青年達からいささか遊離した状態であつた(一〇月一九日笛吹(うすい)調書、一審公判八二回A1供述、原審公判三三回、三九回、A110・28A28調書、A2011・10A6調書)。

A1の心境がかような際に、A1は、八月一七日本件列車顛覆事故が発生し職員三名が殉死したニユースに接した。予めカーブ地点でレールがゆるめられ、バール、スパナが現場附近で発見され、鉄道関係者を含む数名の脱線作業が行われてあつたらしいとの容疑の報道にA1は接したであろう。そして、A1は今更この暴挙を否定する正義感に強く撃たれたに違いない。そして九月一〇日A4、二二日国鉄側A12、A13、A9、A10、A11、A2側A15、A19が検挙されたのを知るに及び、A1は少くともA19が検挙されたことにつき何か彼に対し済まない気がし心にとがめるものや不安を感じたことと思われる。一方、多数の者が検挙された以上ある程度両組合の共同闘争における幹部その他の者の協議内容や行動はいずれ捜査当局に判明するに至り、A1としては何も知らぬといい切れなくなるかも知れないとも観念しつつ、しかも、右共同闘争に関係した右被検挙者やA14その他未検挙幹部、メンバー達を裏切つて一切を告白する気にはなれなかつたのではないかと思われる。そこで、A1はついに検挙され取調官から押しつけでなく利害を説かれるや、彼の惑い、ぐらつき、分裂した心境から、嘘や思い違いあるいはよい加減のことを交えつつ事実を自白するに至つたのではないか。また、一旦自白してからもこれとくいちがう自白をすることによつて、何れが真実か判断に迷わせるようにしたこともあるいはあつたのではないか。少くともこれらの点を考慮にいれつつ、他の諸証拠と総合してA1自白の任意性と信用性を検討すべきである。

A1が、甚しくくいちがう自白、A1の間違える筈のないと思われる自白、あるいは他日嘘であることがハツキリ曝露する自白をすることは、他の被疑者にとつてもA1自身にとつても不利なことではない。

多数意見本論(二)はA1自白につき「被告人A1が他意あつて殊更に事実を曲げて供述したことによるものとみるべき節もないとすれば、それは、同人が、あるいは自己の経験しなかつたことや記憶の薄れたことについて、取調官から尋ねられた際、ただひたすら迎合的な気持から、その都度、取調官の意に副うような供述をしたことによるのではないかとの疑さえあつて」というが、右の点を考慮するなら、A1が意識、無意識の不実を供述することは考えられ、右多数意見の如くにはいえないのである。

A1の前記弁護士会長への手紙、「行動」と題する手記やA1がA29巡査部長に相撲をいどんだ事実の如きは、A1自白に嘘や間違いが沢山交つているにせよ、多ての部分で真実の自白をした後のA1の心の安らぎを示すものと解される。

その八 A5自認、A23自白の任意性

一 A5自認

馘首された前国鉄職員、福島地区労働組合会議雑務手伝A5(満一九才)は一〇月二一日逮捕され、辻検事、A7裁判官の調べを受けたけれども一回もA5自ら犯罪の謀議に参加しあるいは他の被告人等が犯罪の謀議または実行をした旨の供述をしたことはない。ただ、八月一三日の協議連絡、同一五日のA4を加えての謀議、A4退席直後の国鉄側被告人等とA2側A15との連絡の関与者に相当する人の会合があつたことを推測させるような供述と、八月一六日夜A2松川工場八坂寮におけるA2側被告人等の謀議に相当する会合の頃A5が同寮にいて原判示の被告人等と会合した旨の供述をしたに過ぎない。

上告論旨は拷問、悪質な脅迫、強制、誘導等により孤独絶望感、死の恐怖に捉えられなどして、不任意自認をしたと主張する。けれども、

(1) A5の辻検事、A7裁判官調書における供述をみると、取調に対してはA5は慎重で口が固く、欲しないことはいわない傾向が強い。

(2) 原判示(五章九節)のとおり、記録によると、A5自ら謀議に参加したであろうとの趣旨で取調官がA5を追及したという主張や証言をA5は一審以来してない。取調官は、すでに他の者の供述によつて、A5が一三日の協議連絡の際にも一五日夜松川八坂寮での松川側被告人等との謀議にも参加していたことを知つていたに拘わらず、単に刻明に毎日の行動を追及し、八月一三日と一五日の各正午前における行動を特に詳細に尋ねただけである。そしてA5は右両日は午前午後にわたつて国鉄支部にいたことは本件においてA5自身一貫して認めており証拠上明らかであるから、この間の行動や見聞したところを刻明に追及質問するのは当然でそれだけでは強制といえない。

(3) A5は八月一一日夜日本A44党福島地区委員会から同党本部中央執行委員会書記局宛の物を信任状とともに持つて上京、同本部を訪ねて用務を果たし翌一二日夜福島市に帰り一三日)朝右地区委員会に行つて上京経過を報告した顛末を11・10A8調書で詳細供述し(原判決証拠(50)(イ)、

また、「本件発生後第一次検挙後一週間程経た九月下旬頃の夜A3労組福島支部執行委員、闘争委員A31から呼ばれて午後九時半頃A44党県委員会事務所に行くとA31外五、六人がいて、A31はA5に「お前は一六日に松川に行つているから連絡位のことで挙げられるかも知れない。一六日の行動を話して見ろ」といわれたので、A5は一六日の行動を話したところ、A31はメモを取つた。A5が「こんなことで挙げられるとは思わないが、挙げられたら家のことを見てくれ」というと、A31は「家よりA44党の方が大切だから党のことも考えて何も話をしないようにしろ」といつた。また、一〇月一五日頃A5が旧朝連事務所に「労働戦線」を配達に行つた時、A31に会い同人から「連絡位のことで挙げられるかも知れないから、きかれても話すな」といわれて承諾した」旨を供述する(同証拠)。

ところが、これらの事実については、A5は一審公判(五回)冒頭陳述においてもこれを嘘だと述べていないのみならず、一審公判(四五回)で証人としても、右前段の上京前後の事実についてはほぼ右と同旨のことを述べ後段の事実につき「九月下旬頃と一〇月一二日かに「本件についてお前(A5)は八月一六日にA2に行つたので警察はお前を狙つているから気をつけろ」といわれたことがある」との旨を証言しているのであるから、右供述中の二つの事実は是認できること原判示のとおりである。

そして、右二つの事実は、記録によつてもA5の供述前には現われず、一審公判(五三回)証人A80はA5の供述で始めて右事実を知つたと証言する。この証言は措信できる。何んとなればA44党の内部秘密にわたるべきかような具体的事実を、当時部外の捜査当局が知りもしくは案出できたとは認められず、従つて捜査当局が誘導強制して事実をA5に認めさせたとは考えられないからである。右A8調書の後で同日付でできたA7裁判官調書でもA5が右事実に関する供述を否定した形跡はない。

(4)A5に対する一一月一〇日のA7裁判官の証人尋問が同日夜遅くまで行われたとしても、A5は「A7裁判官が、今晩おそいが、これから証人尋問をするが差支ないかどうかきかれたので、私はそれを承諾した」と一審公判(五回)で述べているのであるから、このことと尋問結果の供述内容その他記録上認められる事情に照らせば、夜間尋問による不任意性の疑ははれたといつてよい。 (二審六九回公判A7証言によると、当時同裁判官は平事件の取調にも関与し仕事の都合上やむを得ず夜間尋問をしたことがあるという。)

(5) A5は「私が本件で逮捕されてから警察の取調中に……自分で意識して嘘の事を供述したのは一一月五日頃からだと思う」と一審公判(四五回)で証言する。これによると、10・28A8調書における供述にはA5がわざと述べた嘘は入つていない。従つて同日付A8調書中の「A5が八月一三日午前中A3労組福島支部に行きA30、A31、A12、A97、A9、A11、A13がいた、……正午頃松川工場のA16、鶴見から来たA15が来た……一五日には午前九時ないし一〇時に(A3労組福島支部事務所の隣りの福島地区労会議事務所に)出動し、そこでA12、A11、A25能伯その他に会い、正午頃A15が一人で来た」との旨のA5供述は、事実の真実性は別として、わざと述べた嘘ではない。してみれば、原判決が右A8調書とともに採用した1110A7調書、112A8調書におけるA5供述中右と一致する部分はA5の意識的虚言とはいえない。

そしてA5は九月下旬頃から本件で検挙されるかも知れないと予期していたことがうかがわれるから(一審五回公判証言、11・10A8調書)、八月一二日A44党本部から帰り一七日午前三時頃本件事故が発生した当時までのことは予め記憶をよび起し答弁を用意していたと推測される。そしてA5は「八月一五日の事は、私が逮捕される前、新聞で一五日にA4が来たということや、A9、A10と話をしたという事が出ていたのを見ていた記憶があつた」と述べ(一審四五回公判A5証言、証二八号九月二五日付A93二版二面)、A5は新聞紙上ではA4が検挙されて自白し、自白によれば一五日国鉄支部でA4がA9、A10らと話し合つたことになつていることを知つていたと推測される。それなら、問題のA4が八月一五日国鉄支部に来てA9、A10、A11、A12と話合つたかどうか、そこへA15も来たかどうかという重要なことについては、A5は検挙前にも検挙後にも十分記憶をたどつて考えた筈で、A4が一五日に来たかどうかを記憶違いする筈がなく、これについてうかうかと取調官の問に乗つた供述をする筈もないと考えられるのである。そして八月一五日のことに関する1110A8調書、同日付A7調書の供述はかなりハツキリした詳しいもので、ぼんやりした記憶によるものとは認められない。検事の取調当時におけるA5の八月一三日ないし一六日のことに関する記憶は大綱において記憶違いがあるとは認められない。この点も原判示のとおりである。

(6) A5は一審公判(五回)冒頭陳述において「辻検事の追及取調に対し嘘の供述をさせられたことが二つある」といい、その嘘の供述とは(A)八月一三日午前一一時から一二時まで国鉄支部宿直室(畳の間)で皆が車座になり、三鷹事件の話をしていたと述べた点(B)八月一五日正午頃国鉄支部宿直室でA10、A11、A12、A9らが自分を入れて五人で(四人とあるのは誤と解する)何か話をしていたようだと述べた点であるという。よつて検討すると、1110A8調書に始めて右A5の陳述する内容の供述があり1112A8調書には「前記(A)の一三日午前国鉄宿直室で会議らしいものがあつた旨の供述を取消す」旨のA5供述がある一方、(B)の一五日正午頃の会合についての供述についてはA5がこれを取消すとか取消さねとかの供述をした旨の記載がない。これについて、原審公判五八回証人検事A8は証言する「一一月一二日の取調の際被告人A5から八月二二日の件について供述取消の申出がありこの申出を最後まで撤回しなかつたので、同人の申出のままに調書に記載したが、八月一五日に関する供述の取消申入はA5に根拠を尋ねたところ根拠極めて薄弱であつたので結局被告 人A5の方から取消申入が撤回され八月一五日の件はそのままになり1112A8調書が出来た」旨証言する。

そうだとすれば右二つの嘘は警察官の追及強制によるものであるということは当らず、辻検事の尋問によつて述べたものであり、被告人A5はその一つを取消す申出をし、他の一つについては取消申出を撤回する自由を持つたこと明らかである。

(7) A5は、八月一三日午前一一時から一二時までの事実について、117辻検事から鋭く取調べられたが供述せず、同夜監房でこれを供述することの利害について熟慮した上翌日の取調で供述した(一審五回公判陳述)。A5はそれだけの余裕をつくつたのである。

(8) A5は一審公判廷(五回)で「自分は死刑、無期というような刑になるとは思つていなかつた」と陳述し、記録上それは本当と思われるから、A62から死刑か無期かといわれたとしてもA5には利き目がなかつたと思われる。一、二審公判でA62、A98部長はA5に苛酷悪質の取調をした事実を否定する。玉川が「死刑になつたら解剖してやる」といつたとの論旨もあるが今の世にどんな勝手な警察官も夢にもそんなことをさせることはできない筈であるから、たとえこんなことを言つたところでA5がこれを真に受けるとは玉川も思わなかつたであろう、従つてそんなこともいわなかつたであろうと思われる。以上を総合してもA5供述が不任意になされたものとは認められないこと明らかである。

二 A23自白

A2松川労組書記A23(満二五才)は一〇月一七日逮捕され同月二八日以降検事に対し数回同労組事務所での人の動きを供述したが、一一月六日に至りA28、A100両検事に自白した。

論旨は警察の調べの苛酷、執拗、連日の強制、検事が頭をゆすぶり夜一一時半まで調べたこと、女性、家庭に対する軽蔑等による供述の不任意性をいい、あるいは検事が自白すれば起訴しない、母親に会わせるといつたという主張もあるが、

(1) A23は記録によるとなかなかしつかりした女性であることがうかがわれる。 (八月一六日夜同労組事務所でA19、A21、A20、A22らの歌声が余りに高いので注意したことにつき1028A100調書、一審五四回公判玉川証言、同四四回A23供述等。またA23がA28検事にも屈しなかつたことにつき原審六六回公判A28証言、A23がよく考えて供述したことにつき同三八回A23供述)。

(2) A23は元来116A100調書については同検事に強要された事実を述べず、同月九日付A7調書については「A7判事は温厚そうな方でしたので、真実を申上げようと致しましたが、後の事を考えると恐しくなり、宣誓してまで嘘の事をいつてしまいました」と陳述する(一審四回公判)。これではA23が後の事を考えて自由任意に嘘をいつたという意味にしかならない。

(3) 一〇月六日に先ずA28調書、ついで同日A100調書ができたことは原審公判六〇回A28証言、五〇回A100証言によつて認められる。しかし、警察自白の写しがA28調書、これを手本にA100調書、次いでA7調書ができたとは認められない。いずれ同じ事実関係についての供述であるから共通の供述部分もあることは当然であるが、116A100調書、119A7調書はその前の116A28調書に比し趣旨、内容、詳しさの程度、事実を把握させる力において大きな相違があり(これは原判決五章八節一に引用した例でもわかる)、これによつても、A100検事、A7裁判官はそれぞれ別個の立場、別個の頭で被告人に対したこと、また、被告人としても今までの取調官の言動や自己の供述に囚われないで新しい取調官に供述しうる立場にあることを覚り得たことがうかがわれる。

(4) 記録では、被告人A23の取調は他の被告人らよりも遅れていたのに拘わらず同被告人はそれまで捜査官の知らなかつた事実を明るみに出した部分がかなりある。(例へば1023A100調書で労組大会を開くには軍政部の許可が要る、八月一五日A15がA33と福島に行くのを見た、八月一六日夜の会議は細胞会議であると供述し、112A100調書で、八月一六日組合大会の途中A15と小田忠男が中執からの指令を探しに組合事務所に来た、117A100調書では、八月一六日夜A19らが八坂寮に行つた後A101にその晩泊めて貰うように頼みに行つたと供述する。)かような内情は部外者たる捜査官が想像案出してその通りの供述を強い得る事柄ではないと思われる。

(5) A23は一一月六日A28検事から「自白すれば起訴しない、母にも会わせる」といわれた結果自白したと主張するが、A23は翌七日起訴され八日起訴状謄本の送達を受けたことは同被告人が一審公判廷(四回)で自供するところである。ところが母に会わせて貰えねことも起訴されて終つたことも判つた後の一一月九日A7裁判官証人尋問の際に、A23は格別の否認もせず検事が約を果さなかつた話もしないで自白したとみられる(原判決五章八節二(二)。これはむしろ右のような約束がなかつたことを示す。

(6) 一、二審のA80、A28、A100の証言は任意自白をさせたものであることを証言する。

上によつても、取調官の暴行強制その他の不当措置なく、A23の自白が不任意になされたものでないことが推察される。

その九 「顛覆謝礼金」

記録によると、本件捜査過程において被告人A16、A19、A20、A21、A22は本件犯行をしたことの報酬として八月一七日夜などに相当の金あるいは大金を貰つた旨自白したが、その金額、使途等に関しては各自白の変転、くいちがいが甚しく、その裏付証拠はなく、A21、A22は自白が嘘であつたというに至り、検察官も公判で右報酬授受の事実を強く主張せず、原審もかような事実を措信しなかつた。しかしかような、くいちがいの甚しい幾変転した嘘の供述ではあつたがその任意性は認められるとした原判決(五章一〇節)の判断は是認できる。

本件のような両労組の共同反対闘争の激烈化の極起つたと見られた被疑事件において、捜査当局がこれに関連する他の共犯者、背後関係の存否、それにからむ金の動きを調べ事件の全貌を明かにすることは適法なやり方でする限り捜査の性質上差支ない。その結果他に共犯者があること、あるいはないことが判れば結構といつてもよい。松川組合長A14は家族と別居し谷間寮に質素な独居生活をしていたようであるが、A1の1028A28調書によると、彼は昭和二三年暮から二四年六月までに合計七、五〇〇円をA1に返すに及ばないといつて渡している。A14はこれをポケツト・マネーから出す余裕があつたのか、これは労組その他からの正規の金か、それとも秘密ルートの金か、というようなことも、捜査当局において取調べても固より差支ない。しかし本件において「顛覆謝礼金」についての最初の取調があつたのはその前一〇月一七日A62、笛吹検事のA1に対する質問である(一審五三回、二審四一回A80証言)ところ、当時両捜査官は顛覆謝礼金らしいものが動いたことにつき何らかの情況資料を掴んでいたことは記録上認められない。原判示国鉄側、松川側の共同反対闘争後本件列車が顛覆した直後に、右大組合の幹部が纏まつた、説明のつかない金を数名の青年部員に渡し彼らがその現金なり、それで買つた物なりを所持したこと、あるいはその費消先が判るかも知れない虞のあるような危険を冒すとは考えられない。第一本件犯行は直ぐさま謝礼金などを貰うことは縁遠い性質のものであろう。だから、両捜査官は労組内部の事情に通じないまま、事故発生後二ケ月も経つて、試みに、A1に対し、犯罪実行によつて何か利益を得たのではないかとの質問をして見たまでのことと思われる。A1は捜査当局が右共同反対闘争に関する金の動きの有無についで殆んど何も知らないことを察し、よい加減の嘘を答え、他の被疑者もA1自白や捜査官の質問に応ずるような、またこれと異る混乱に導く虚構の自白をしたのではないか、それにはこの点に関する自白が嘘であることはいずれ証明されるという安心があり、これら自白が信ぜられず嘘であることが判明したとしても被告人らには有利にこそなれ不利になる気遣いはない、金の動きについては捜査官は結局何も掴めなくなるのであつて、組合を裏切ることにもならないとの安心もあつたのではないか、(それなら自分の間違える筈のないことを間違えた自白もできる)とも記録上推察される。(互いにくいちがい、変転し、信じられない自白を色々することによつて、調書を読む者に従前の真実の自白をさえ疑わせ惑わせる効果を生ずる場合もあり得よう。)

かくて謝礼金自白は蜃気楼の如く現われかつ消えた。この自白の特徴はそれが架空で信じられないこと、しかし本件動機、共謀、予備(盗み出し、現場への出発到着)、脱線作業実行もしくは顛覆結果には何の影響もなく切り離された供述であることが誰の眼にも明らかな点である。ただこれは右自白者達のその他の事実に関する供述の信用性、任意性の判断には影響すること当然である。上告論旨は謝礼金自白こそ自白者達のすべての自白の不任意性の有力な証拠であると主張する。しかし、われわれはここでも、捜査官がもし強制自白させることができたのなら、甚しいくいちがいや変転のない、統一した事実の自白をさせ得た筈であるといわなければならない。われわれはすでにA4、A19、A20、A21、A22、A23の自白、A5自認の任意性は是認できることを論証した。(多数意見もこれら自白の任意性を否定し刑訴法三一九条一項、憲法三八条二項の違反をいつてはいない。もし、多数意見が任意性のあることを認め得ない供述を原判決が採用しそれが原判決に影響したとみたのなら、すでにその点だけで原判決を違法、違憲として破棄すべきものと判示した筈である)。これによつて所論の取調官らの一般的取調態度が自白を強制したことを疑うに足らないことが肯定された訳である。このことと、謝礼金自白をするに当つて右被疑者達が一種の安心の下に自白したと察せられる前示取調当時の情況とを総合すれば、謝礼金自白の任意性は是認できる。そしてこれが他の事実に関する自白の任意性を疑わしめるに足らないものであることも首肯できるのである。

最後に多数意見について一言する。

第一に、多数意見はややとすれば一つの自白の中のある事実の点に関する自白が措信できずあるいはその任意性が疑われるなら他の事実の点に関する自白も疑わしいと考える傾向を示すが、一つの証拠の内容の一部を信じ他の部分を信じないことは世界の民刑裁判において裁判所も陪審もあるいは検察官、弁護士も幾世紀来やつて来ているところである。いわんや、或る一人の供述内容が幾日かにわたる一連の多数人の言動に関して、しかも数回になされた場合にはなお更である。

第二に、多数意見はA1自白について「ひたすら迎合的な気持から、その都度、取調官の意に副うような供述をしたことによるのではないかとの疑さえある」という。それならそれで、ここに一つの法律問題が起る。かような疑のあるA1自白は法的に観て、刑訴法三一九条一項にいう「任意にされたものでない疑のある自白」に当るか否か、憲法三八条二項にいう「強制、拷問若しくは脅迫による自白」に当るか否か、という法律問題である。この法律問題はかような疑のある自白とみた証拠判断の次に起る問題で大法廷全員の合議によつて決せらるべく、多数意見の七名で決せられるべき問題ではない。これは本判決を読む国民から大法廷の判決における一事例として読み取られるのである。私はこの点を考えて、右多数意見におけるA1自白についての疑はそれだけで直ちに違法違憲といえる程のものではなく結局は原判決の証拠判断、事実認定の誤を指摘したものにすぎず、違法違憲の判示まではしていないものと解するのである。

その一〇 八月一三日における列車顛覆企図

一 国鉄支部での企図打明け

原判決は次の事実を認めた。

(1) 七月七日伊達駅事務室に元線路工手被告人A4を含む国鉄被馘首者約三〇名が押しかけ駅長を脅迫したという伊達駅事件についての関係者の打合会が、八月一一日次いで同月一三日判示A3労組福島支部で開かれた(六章三節末段)。

(2) この八月一三日(土曜日)早暁A2松川労組青年部常任委員A54が松川労組員の県会赤旗無許可行進事件(六月三〇日)で逮捕されたので、同労組副組合長A16はA54釈放要求のため福島市警察署に赴く前、同日一一時五〇分近い頃福島地区労働組合会議事務所に立寄り、次いで直ぐ、一一時五〇分頃これと隣接する右A3労組福島支部に行つた際、そこには右A3労組支部執行委員長A30、被告人A11、A12両役員、地区労会議雑務手伝被告人A5及び同支部闘争委員兼福島分会執行委員長被告人A9がいた(原判決第二(一)、(二)七章四節)。

(3) 一方、A4が同日午前中行われた伊達駅関係者打合会に来ていたので(原判決七章四節三(三))、A16が国鉄支部に来たのと余り違わない時刻に同所で、A11は内心A4を本件に引入れるためA4に対し情を告げずに明後一五日同所に来て貰いたいと依頼してその承諾を得た。

(4) A1が同日午前一一時五〇分頃右のように国鉄支部に来た際、そこにA30、A9、A12、A11、A5はいたが、国鉄側A31、同A97はいなかつた(七章四節三(三)、五節二(四))、A2側オルグA15は来なかつた(七章四節三(一))。原判決はこれらの者が集まつた席に被告人A10、A13がいたことも認定していない。更に、この席にいたA30が当時A9、A12、A11、A5の間での顛覆企図に関する動きにどれだけ関与していたかは明らかでないと判示し、A31、A30は無罪だとする(原判決七章四節五)。

けれども、原判決は、帰するところ次の意味の判示をする。八月一三日のことに関するA1自白(1026A7調書、1028A28調書等)を他の諸証拠と総合するときは、A1自白は信用できない部分は多いものの、しかし、八月一三日A1が国鉄支部事務所に行つた際そこに居合わせた被告人(それは前記認定判示によれば被告人A9、A11、A12、A5のみを意味することに注意)四名中の誰かから列車顛覆計画を打明けられ、来る一五日にはそれについて打合せがあるからA2側からも出席されたいとの申入を受け、A1は松川労組に帰つてから組合長A14、オルグA15に報告し一五日打合せに行くについて所要の協議(松川側としてはどんな態度をとるか、誰が打合せに行くか、などの協議の意味と解すべきであろう)を遂げたとの事実の大綱輪廓を供述している限度においては、右A1自白も信用できる、と(原判決七章四節二4ロ、3五、六)。

原判決は「本件列車顛覆計画は、この会合でA9被告(垂水意見では判示の全趣旨によればA9被告等右数名の意味と解される)から始めて提案されたもので、その前には、国鉄側被告等の間ですら相談としては(従つて共謀という程度には)成立していなかつたものと見ざるを得ない」という(七章四節二4ロ)。

要するに、原判決の意味は、「八月一三日正午頃国鉄支部で国鉄側A30、A9、A11、A12、A5がA1と話合いを始めた際までには、列車顛覆の意図、計画はA3労組幹部を含む国鉄側の幾人かがバラバラに持つていたに過ぎず、これらの者達はお互のかような意図、計画を互いに察知していたかも知れないが、まだこれを統合し共同の謀議たるべき相談といえるような言動は見られなかつた。A30の如きはその間の動きにどれだけ関与したか明らかでなく、結局チヤンとした共謀は成立していなかつた。ただ一三日正午頃の段階では右国鉄側被告人(A30を除く)四名中の誰かの口から、A1に対し「国鉄側では列車顛覆を計画している者もあり打合せをするについては、松川側からも明後日来てほしい」との意味を打ち明けた」というにある。そしてこれだけの事実に関する限りA1自白は他の裏付証拠(これは後に漸次説示する)もあつて措信できる、というのであるから、この点原判決は何ら循環論法でもなく、「国鉄側の誰かから」と判示してもその時そこでA1の面前にいた国鉄側四名中の誰かの口から打明けられたという事実はハツキリ具体的に特定判示しているのである。

△ A16証人1026A7調書「八月一三日私は午後五時過福島発列車で松川へ帰り午後五時半か六時頃組合事務所に行きました、組合事務所にはA14、A15、A19、A20、A22その他青共の者二、三名がおつたと思います。A15さんとA14さんと私の三人は八坂寮のA15さんの部屋真の間へ行きました。私達が真の間に行つてから私はその日A3労組福島支部事務所で打合せのあつた列車顛覆の話の事をA14さん達に報告しましたところA14さんは「今日A97さんも来て話をして行つた、俺はこの話を前から知つているんだ……」といいました」(原審(14)(イ)一審(68)証拠)。

二 松川労組での国鉄側A97の顛覆企図打明け

原判決は「本件列車顛覆計画はこの会合で始めて提案されたもので、その前には、国鉄側被告等の間ですら相談としては(従つて共謀という程度には)成立していなかつたものと見ざるを得ない。このことは、この謀議の始まる前に松川に向つて出発したA97被告と他の国鉄被告との間に、A97の右出発前には共謀関係の成立がなく、A97が松川でA14被告等に話したことは、他の国鉄被告等と連絡の上の確実な話ではなかつたことを示す結果となる」という(七章四節4口)。

そして原判決は「八月一三日午後〇時四〇分ないし一時頃の間松川労組事務所で、国鉄側のA97と松川側のA14、A17、A18との四名が「A3労組福島支部の者と松川労組の者が共同して列車事故を引起す計画」について話合をしたこと、次いでその直後同労組事務所内で、A18が、松川側A19、A20、A21、A22の四名に対し右計画についての話をしたことがあることは何れもこれを肯認すべきものと認める」旨判示し、その証拠を挙示する(七章五節二(四)(五)5)。

しかし、原判決は「A97がA14等三名と話合つたのはA97がそれまでに他の国鉄被告と列車顛覆を共謀した結果であることの確証はなく、A97がA14等と国鉄側とA2側とが協力して列車事故を起す計画について話合つたとしても、単にそのような動きがあることを洩らしたに止まるか、あるいはA14等の意向を打診しただけか明らかでない。A97単独でその企図に賛成を求め、即座にA14、A18、次いでA18の話によつてA20等青年が企図に賛成したとは(計画が重大なだけに)認められない。すなわち一三日には松川労組でも別途の列車顛覆の共謀が成立したとは認められない」との意味を説示する(七章五節二(五)8)。

原判決は最後に附言する「A18がその後本件の謀議ないし実行行為に何ら参画した形跡なく、殊に原判示第三(四)の謀議(八月一六日夜九時三〇分頃からの松川八坂寮組合室におけるA14、A1、A15、A17、A19、A21、A20、A22の最終謀議)が行われるに当り、その会合への参加を求められながら、会合の場所と目と鼻の間にある松川労組事務所にいながらあえて出席しなかつたのも、同被告はその時までに計画の存在は知りながらも、共謀者の仲間に入つていなかつたからこそと考えられる、このことも以上のような考(垂水註、一三日には未だ共謀なしとの判断)を支持するものと認められる」(七章八節二(五)、五節二(五)8末段)。

三 結論

原判決が証拠により右の如く認めたことは是認できる。しかしかく認めたことからわれわれは次の如く考えることができる。

(1) 一三日は国鉄側A12が「遠からず労働者の偉大なる力を知つて貰わねばならない」云々と記載した声明書を発表した日である(本意見第二その一)。この日正午頃A12、A9、A11、A5がA30もいるところでA1に対し国鉄側には列車の脱線顛覆を計画する者もあることを打ち明けそれについて打合せしたいから明後日A2側からも出席されたいと申入れ、また、A97が松川労組の右活動家達と話合つたことは決して謀議の萠芽も何もなかつたことを意味しない。

(2) これは一三日には、両労組のメンバー(殊に馘首された者を含む共同反対闘争の中核に近い部分にある者達)の間に脱線顛覆意図を抱く者が幾人かいたことを右国鉄側四名が察知し、この意図を取上げてもよいと考えたこと、あるいはかれら自身のうちにその意図があつたことを推測させるもので、かような企図計画は決して国鉄側四人あるいはA97にとつて晴天の霹靂のような思いもかけぬものではなかつたし、可能なことと考えられていた、また、かような重大事を打明けても松川側の賛成協力が危ぶまれるどうなら国鉄側四名やA97は打明けを避けたに違いない、打明けたということは松川側賛成の可能性を見ていたことを意味する。

(3) それにしても国鉄側がめいめい脱線作業、その準備、善後策を考える等の都合や松川側から打合せに出席するに当つても予め計画の一端でもを耳に入れ了解させておけば松川側の諾否決定も遅れまいとの考慮その他の事情から打合会を明後一五日と定めた、と考えられぬことはない。一三日反対闘争が大なる憤激をもつてすすめられつつあつた緊迫した空気の中で、この不法実力行使計画が右のように集つたところで打明けられ、多くの被馘首者を含む両労組の幹部、活動家達がめいめい脱線計画を念頭におくに至つたということは、その共謀の成立ではないとしても、その寸前の状態にあつたことを意味する。共謀は半熟以上の状態で熟しつつあつた、油が発火点に近いまでに熱せられていたのである。(脱線顛覆の実行が遠方で行われることは現場への秘密の往復の困難その他から考へても、被告人らには考えられなかつたであろう。)

(4) A1が国鉄支部で前記のような計画の打明けを聴き依頼を受けた以上、その後、少くとも市警察へ行つてA54釈放要求の用件を果たして松川へ帰つた後、早速この重大事についてA14その他A2組合のメンバーに報告協議しなかつた筈はない。それが不可能な事情のなかつたことは記録上明らかである。

(イ) A211013辻九回調書「八月一三日午前一一時過頃私は松川天王原の労組事務所にきたとき、そこにA14、A17、A19、A22、A20の諸君がおり地区労のA97さんが来ておられました。‥‥私が事務所に入つた時A97さん、A14さん、A17さんが話をしておりました。直ぐにA97さんを囲んでA14、A17、A19、A20、私、A22がその話を聞きました。私は中座して……一二時頃一人で組合事務所に戻りますとA97さんを囲む席は解散しており、板張の間の方にA18、A19、A20、A22の諸君がおりました。……五分位した時A18さんが主として私に向つて「国鉄荒廃に名を藉りて列車妨害という話がある。犬釘を抜いたり枕木をずらしたりする方法がある、アリイバさへ完全に作つておけば絶対に見つかる心配はない」といいました。……私を始め同席した者は「やつても良いじゃないか」といいました。……私は八月一五日午後一一時頃八坂寮真の間でA15、A38が一寸いないときA19君に「この間A18さんの話はどうなつたのか」と列車妨害の話をしますと、A19君は「まだ自分も分らない」と答えました」(原審(18)一審(96)証拠)。

(ロ) A19115A7調書「私は八月一三日午後一時一寸前頃書記長と聞いていたA97さんが松川工場労組事務所にやつて来たのを知つております。A97さんは保釈になつた御礼を述べてから事務所を出て寮の方に向つて歩いて行きました、A97さんが組合事務所を出ると直ぐ、A18さんは、私やA23、A21等に向つて「A97さんは前から計画していた汽車事故をやる用件があつて来た」「A14さんとそれを打合せるために来たんだが、どうだ皆んないいか悪いか」と話しました」(原審(16)(ロ)一審(61))。

(ハ) A20115笛吹(うすい)調書「八月一三日……私が午後〇時四〇分頃松川工場労組事務所へ行くとA14、A17、A18、A97が話合つていた。……事務所内にA21、A22、A19がいたので私はこの三人の処へ行つたが、間もなくA18がA21、A22、A19、私に小さな声で最初何か首切りの話をした。続いて「此度国鉄とA2とで列車脱線をやるからお前達も協力してくれ、A97がその事で今日連絡に来て今その話を聞いたのだ」といつた。私はただうなずいてそれを承知し、A19、A21、A22もうなずいて承知していた。その後間もなくA97、A14、A17がA18、A19、私、A21、A22に対し、A97から「国鉄第三次国鉄首切りも近く行われそうで吉田内閣は吾々労働者を弾圧しようとしている、吾々は一致団結してこれと闘おう」との意味の事を言つた「(原審(19)(イ)一審(43)(83)。

(ニ) A22116A8調書「八月一三日私が職場で昼食後A19、A20両君の後を追つて組合事務所に来た時A18さんとA20、A19両君がおり私が入つた後暫くしてA21君が来たのであります。以上の五名が二〇分程事務所で雑談しました。話の内容は思い出せません」(原審(17)証拠)。

(ホ) A201119A7調書「八月一三日正午一寸過ぎて団体交渉も終り解散しましたので私もA2松川労組事務所に帰りました。労組事務所にはA17、A97、A18、A14、A23等五、六人がおりました。私は間もなく前原工場に行つたので……一二時半頃又労組事務所に帰つて参りました。その時労組事務所にはA14、A17、A18、A97、A23、A19、A21、A22等がおりました…:A14さんやA97さん等は何か話をしておりました。……私は間もなくA21やA22君のいる処に行き雑談をしていると間もなくA18さんに「一寸来て呉れ」といわれましたので、A19、A21、A22と私の四人が……行きますと、A18さんから始め少し首切り反対の話があつてから「今度国鉄、A2で列車顛覆をやるからお前達も協力して呉れ」といわれました。A19、A21、A22君等は黙つてうなずいたようでした。それからA18さんは更に続けて「そのためA97さんが今日連絡に来たのだ」と話しました「(原審(19)(ハ)(48)(ロ)一審(42)(77))。

多数意見は、一三日の出来事についての右証拠をゼロ価値とみているようであり、一五日以後の謀議の証拠についても、自白尊重的態度から自白の矛盾変転をいささか過重視したやすく供述全部を疑つたり、あるいは「かかる重要な謀議がA2側労組組合大会終了後の僅々五分間位の間に至極簡単に行われたという原判決の認定にも無理がある」といつたりするようにみえる。しかし、この謀議の段階にあつては、火の粉も発火点にある油を燃やすに足るように、彼らは一をいえば十を知る、長話は無用の状態にあつたことは証拠上明らかである。多数意見は承服できない。

なお、松川組合長A14は八月一三日頃A1から国鉄側謀議打明けの報告を受ける以前すでに国鉄側被告人らの間に人為的に事故を引起こす計画のあることを聞いて知つていたとする原判示の点は前示証拠等によつて是認できる。

その一一 八月一五日午前の最初の国鉄側五名謀議 その直後のA12、A4だけの集合場所、時刻打合わせ謀議(原判決第三(一))

原判決は次のように認定した。

「八月一五日午前一一時頃A3労組福島支部事務所において被告人A9(支部闘争委員、同支部分会執行委員長)、A10(支部委員、元福島保線区勤務)、A11(分会書記、元車掌)、A12(支部執行委員、元郡山操車係)の四名は(八月一三日)のA11の招きに応じて来合わせた被告人A4(元線路工手)を加えて会合し、席上先ずA11からA4に対し列車顛覆計画のあることを打明けてこれに参加を求め、A4は伊達駅事件で勾留保釈するに際し同支部幹部の尽力で保釈金一万円を調達して貰つた関係から右の勧誘を拒み得ずしてこれを承諾し、種々協議の上、結局右被告人五名の間に明一六日夜から一七日未明にかけて東北本線松川駅と金谷川駅との間のカーブのところで夜行列車を顛覆させること、実行行為に赴く者は国鉄側からはA12、A13(同分会執行委員、元庭坂駅務係)、A4の三名とし、A2側からは、二、三名来て貰うこと、脱線作業に用いる道具はA2側の者に依頼して福島保線区松川線路班倉庫から持出し現場に持参して貰うこと、等を決定し、なおA12とA4は実行に赴く際の集合時刻、場所を一六日午後一二時頃福島市aA46農業協同組合裏附近(A4の住居の極く近所)と約し、以て右被告人五名は列車顛覆の謀議をした」と。

いうまでもなく、この最初の国鉄側五名謀議は、当審で始めて現われた「諏訪メモ」に関係あるA2オルグA15の出席以前の、国鉄側だけの謀議であるとされている。この謀議があつたか否かを検討するに、

(1) すでに見たように、八月一三日午前一一時五〇分頃松川労組副組合長A16が右A3労組支部へ来たとき、A1や右国鉄支部委員長A30の面前で、分会執行委員長被告人A9、A11、A12両支部役員、地区労会議手伝被告人A5の四名から始めて列車脱線事故計画(それは未だ相談としては纏まつていない)を打明けられ、A1に対してはその打合わせに松川側からも一五日に来てほしいといい、折柄伊達駅事件打合せ会で居合わせたA4に対してもA11から一五日にまた来て貰いたいといつた(前項その一〇「八月一三日における列車顛覆企図」)のであるから一五日にこの計画について右国鉄側四名がA4や松川労組側の者と相談することは予定され、A4以外の者は予め各自あるいは寄り寄り脱線計画の構想あるいは問題点、または松川労組の者に対する交渉態度などのあらましは考えていたであろうと察せられる。

(2) ついては先ず国鉄側だけで脱線作業やその準備に関する技術的事項等について予め打合わせする必要をA11その他の国鉄側幹部が感じたことは自然のことと考えられる。

(3) 八月一五日のこの謀議の出席者の顔振れについてA4は強制、誘導によらず任意に思うとおりに供述し、取調官から示された写真についても自らの選択で肯定しあるいは否定した。そしてその時そこにいた者としてA9、A10、A11、A12を挙げたが、A30、A31、A97を挙げなかつた(後の三名は他の証拠上も実際そこにいなかつたとみられる)。このことは原判示のとおりである(七章六節)。(尤も、その際A13がいなかつたことは他の証拠上明らかなのにA4はA13もいたように供述するが、これは、原判示のとおり、A4が従前A13をよく知らず、脱線作業に一緒に行つたことから、この謀議の際にもいたものと感違いしていたものとも解され、この点は措信できないが)。A5はこのときA4とA15が顔を合わせたように供述するが、A4がA15と一緒にならなかつた旨供述する部分は真実に合すると認められるとした原判示は是認できる(七章六節)。

(4) A9924弁解録取書「八月一五日は弁当持参で午前八時半頃組合に出動、午後六時半頃に帰宅した」。

A121013A26調書「八月一五日午前九時頃組合事務所国鉄支部に出動し一〇時頃小浜印刷所に行き一一時一寸前頃同事務所に帰つた。その時事務所で、支部の机を囲んでA9、A11、A10、A4が話しており、私もその中に入つて一時間ばかり話をした」。

またA12119A26調書「八月一五日午前一二時前後、組合事務所にA9、A11、A10、A4、私、A5がいたことは間違がない」。A12一審公判最終陳述及び原審公判三二回供述「八月一五日小浜印刷所から帰つたのは一一時頃であつたように一審公判開廷前までは思つていたので警察官検察官にもそのように述べた」。

(5) A51110A8調書、同日A7調書「八月一五日私は地区労働組合会議事務所に出勤した。午前一一時過頃A4が一人でやつて来た。そしてA10に呼びかけられてA3労組支部の畳の間の縁と腰掛とにかけて向い会つて話合つているA11、A10、A12、A9の四人の方に行き会議のように話をしていた。正午頃A15が一人来た」。

A5はその後一一月一二日辻検事に対し、八月一五日のことに関する従前の供述を取消すべく申出たが検事の説得によりこの申出を撤回し、1110の前記供述は維持された(その八A5自認一(6))。証拠によると、A5は慎重で口が固いとともに場合によつては殊更真実と異る供述をしない限りでもない傾向の人物のようにみられるが、八月一五日午前一一時過頃右五名が会議のように話をしていたとの供述部分は措信できると考えられる。

(6) 右謀議の経過、内容に関するA4供述(原判決の採用した102A7証人調書、101A26調書)は内容を読んでみてよく判かり、不自然、不合理と認められる部分は少く、これによつて原判示事実(第三(一))を認めるに十分である。

されば右事実認定は是認し得る。

その一二 A4退席後八月一五日正午頃A2オルグA15は国鉄側四名と謀議(原判決第三(二))したか  「諏訪メモ」の証拠価値

一 原判決の認定 上告論旨 多数意見

原判決は次のように認定する。

「一五日正午頃A3労組福島支部事務所でA9、A10、A11、A12の四被告はA4が前記(一)の謀議を終えて退席して間もなくA2労組側を代表して出席したA15との間に右と同様列車顛覆実行の日時、場所、国鉄側、A2側双方から出すべき人数、役割、国鉄側から参加すべき三名の人選、その後の連絡につき協議した。

A15はこれを諒承して松川に帰り右協議の結果をA14、A16に報告して両名の賛同を得た」と。然るに上告論旨は「A15はこの日右国鉄支部には行かなかつた、このことは、当審で始めて現われた「諏訪メモ」(諏訪親一郎の書いたと思われる松川工場での団体交渉の経過、内容の記載ある通称大学ノート押收証一三一号の一)によつて明らかで、右判示のような謀議、連絡等もなかつた」と主張する。

多数意見も「八月一五日午前一〇時三〇分よりA2の団体交渉が開かれ被告人A15もこれに出席し、……同人の発言は相当長く継続し、午前中の最後頃まで発言していたのではないかと窺われる節もあつて……A15が退席した時刻に関する供述は殊に疑わしいことになり、労々原判決が一審一七回公判証人A45の供述を殆どただ一つの拠り所としてこれと抵触する第一、二審公判の七人の証言等を悉く排斥し、A15は同日午前一一時一五分松川駅発の下り福島行列車に間に合う時刻に団体交渉の席を出たとの原判断には疑なきを得ない」旨を判示する。

二 証拠について

(1) しかし、原判示事実の証拠としては、鷲見証言が「ただ一つの拠り所」ではなく、A51110A8調書「八月一五日私は地区労事務所(垂水註、これは国鉄福島支部事務所と同じ建物の同じ場所に隣接してあることすでに述べたとおり証拠上明らかである)に出勤した。午前一一時過頃A4が一人でやつて来た。そしてA10に呼ばれて、支部の畳の縁と腰掛にかけて話合つているA11、A10、A12、A9の四人の方に行き会議のように話をしていた。正午頃A15が来た……」との供述は原判決の証拠((45)(47))としていること、多数意見も認識するところである。

(2) 多数意見が挙示する証人A33、A34、A36、A38の各証言内容については、原審は信用できないとし、証人A39、A35は記憶ないというのだからとして採用しない理由を示し、一方、松川工場長A45証言を信用する理由を詳記した点は充分首肯するに足る。証拠の数の多少は問題でない。

(3) ただ新しく現われた「諏訪メモ」は、一五日午前一〇時三〇分頃開始された団体交渉の経過、発言者、発言内容をこれに立会つた会社側諏訪親一郎がその場で(もしくはその直後に)記載したものと認められる。私は、これが出て本件が原審に差戻された以上、今後のこれに関する証拠調によつて鷲見、諏訪ら会社側ないし松川労組関係者その他の者が一層記憶を喚起することは不可能とは限らず、良心的な証言を妨げる事情がない以上、真実を探究する証言がある程度出るであろう、その結果あるいはA15が午前一一時一五分の汽車に間に合わずかつその日その後も国鉄福島支部に行つたことがなく、少くとも疑わしくなることになるかも知れないが、しかし、そうならないかも知れない、と考える。(団体交渉の場所は、原審二回検証調書、一審公判A102証言によると、松川駅ホームまで徒歩五分位の近距離にあるようである。一五日当日午前一一時一五分発列車が遅れて松川駅を出発したことやそれが予めA15らに判つていたことは証拠上認められない。)

(4) 原判決の認めた事実の総体は原判決の採用した全証拠の総合から生れたのである。A15が一五日の正午頃かその後かに国鉄福島労組に行つて判示謀議を開いたか否かについては、直接証拠が僅かまたは皆無であつても、これは諸般の証拠ないし認定された情況と総合判断されるべきものである。

原判決においても、謀議前の険悪な空気、あちこちでの列車顛覆企図の声、八月一二日国鉄福島支部副執行委員長A51、同郡山分会執行委員長A52の逮捕、一三日松川労組青年部常任委員A54の逮捕、同日A12の「遠からず労働者の偉大な力を知つて貰わねばならい」云々の声明書が発表された以後における両労組幹部、メンバーの憤激、更に逮捕の手が伸びる危険切迫感の下に彼らの一部が最早や宣伝や嫌がらせだけでは駄目だ何等か実力行使をやらねば駄目だと考えたと推察される過熱状態の最中に、A15がオルグとして単なる団体交渉その他平穏な動きに終殆したとは考えられないこととも総合するのでなければA15の一五日の動静の真の判断も出来ないのであり、原判決はそれをしたのである。

(5) 原審で検討された関係証拠群のなかに新たに加わるべき「諏訪メモ」は当然多かれ少なかれ関係全証拠の価値に影響を与え得る。しかし、かような有罪無罪の実体的判断資料が上告審の公判廷に出され、当事者からこれについて弁論を聴いただけで直ちに他の原証拠に優る明らかな反証であるとまで認められないこと多数意見もいうとおりであり、またこの記載と原審で検討した証拠と照らし合わせても、このメモによつて当然一五日午前一一時一五分松川発の汽車にA15が間に合わず福島市へ行けなかつたことを否定させもしくは十分疑わせるに足るものともいえない。結局「諏訪メモ」は差戻後において、これを手掛りとして更に調べられた証拠とともにすでに原審で検討した全証拠とも総合して証拠価値を判断されるべき一証拠に過ぎない。「諏訪メモ」が後から現われたことからその信用性が高いと思うのは錯覚である。これと一審公判一七回鷲見証言や前示A5自認調書、A1自白等は今後新しく法廷に現われる証拠とも一緒に同列におかれて価値判断を受けるべきものである。

三「諏訪メモ」は各被告人の犯罪の成立には影響しない

前記のことよりも大切なことは、仮りに「諏訪メモ」や新証拠によつてA15が八月一五日正午頃A3労組福島支部へ行つたことが疑われ、従つて国鉄側四名と列車顛覆計画等につき協議したことも、松川に帰つてこれをA14、A1に報告して賛同を得たことも疑われるとすれば、多数意見のいうように全被告人の犯罪の成立まで疑われるに至るかの問題である。われわれは然らずと答える。すでに(第一法律問題その二で)明らかにした如く、二回の謀議のうち一回は是認できないような場合でも残る一回の謀議に参加し、それが犯罪を実行させるに足り、よつて犯罪が実行された場合には一回謀議参加者の罪責の成立は否定できず、肯認されなければならない。

(1) A15が、もし原判決(第三(四)、第四(二)、(四)、第五)認定のとおり八月一六日夜のA2側最終謀議に参加し、同夜A22らが盗み出して来たバール、スパナをA19とともに携えて本件顛覆現場にき、国鉄側A4、A12、A13(もしくはこの中の一人でもよい)と会つて彼らにバール、スパナを渡し、そこで脱線作業等を見ていたことが、〔(判示第三(二)の一五日正午頃のA15と国鉄側四名との協議の証拠以外の証拠によつて独立して(以下同じ)〕是認できるなら、A15はA19、A4、A12、A13と同じく列車顛覆致死の実行正犯である。

(2) A4とA12は八月一五日午前一一時頃最初の国鉄側の謀議に参加し、その直後その場で互いに集合時刻、場所打合せの謀議をした(判示第三(一))だけで、その後共同実行に加わつたという原判決が是認できるなら、A4、A12は実行正犯であり、これと列車顛覆の基本的計画を共謀したと認定されているA9、A10、A11も共謀共同正犯である。

(3) もし、原判示(第三(三))の通り八月一六日夜A5、A14、A1、A17、A20が共謀し、判示(第三(四))の通り同夜その後A14、A1、A17、A20、A21、A22が犯罪実行者A15、A19と共謀した事実認定が是認できるなら、この列車顛覆罪実行者両名の実行原因たる謀議にのみ参加したA5、A14、A1、A17、A20、A21、A22も共謀共同正犯である。

(4) またもし、原判示(第五)の通り一六日夜A18、同A23がA14からアリバイを作ることを依頼されて承諾しよつてA19らに安心して顛覆罪を実行させた事実が是認できるなら、両A18はその幇助犯である。

以上はいうまでもなく明らかな法理であるから、多数意見結論が「原判示第三(一)ないし(五)の各謀議のらち第三(二)(三)の二つともその存在に疑があるとすれば、国鉄側とA2側との連絡は断ち切られ……自然他の謀議、ひいては実行行為、アリバイ工作、結局本件事実全体の認定にまで影響を及ぼす」というのは到底われわれの承服できないところである。

私は尋ねる。仮りに本件原審が第一審と同じ事実を認定し、これに対し当上告審が事実点の事後審査をした結果、「八月一三日には国鉄側だけの謀議(国鉄側とA2側との協力によつて列車顛覆を実行しようという国鉄側一方的謀議)が当時すでに成立したことは疑わしい、従つて、この謀議にA30、A31、A97が関与したとの原審認定は是認できない」との結論に到達したとせよ。この場合多数意見は「一三日の謀議の存在に疑があるとすれば、それは自然一五日、一六日の謀議、ひいては実行行為、アリバイ工作の認定にまで影響すると」考え、右A30、A31A97のみならず他の全被告人についても原判決を破棄すべきだというのであろうか。恐らくは否であろう。理由は「一三日謀議なくしても一五日、一六日謀議と実行とが認められるなら右三名以外の被告人については各上告を棄却すべきである。」「しかし、一五日昼のA15関与の謀議連絡、一六日夜のA5関与の謀議が疑わしいなら、他の謀議も、脱線作業、アリバイ工作の認定まで疑われる」というのであろう。けれども原判決の事実認定と採用証拠をよく見るなら、前記のように、数人共同の犯罪実行の原因となつた各謀議は、やはり数個の独立した存在であり、数個の因果関係線によつて実行行為と結びついており、そのうち一五日昼のA15関与の謀議連絡の線一本ぐらいがなくなつても、実行行為は勿論、他の謀議の存在は消えない関係にありとされており、これを是認できる証拠も十分挙げられているのである。

すなわち、原判決認定によれば謀議は数本の線で数回あるが、そのどれもが独立して列車脱線顛覆の実行をさせるに足る具体的なものである。(これら謀議のうちのあるものは格別謀議のための会合が持たれず、二名以上がある機会に黙契しただけのものでも、実行の日時、場所の近いこと、実行者の範囲が局限されている等の事情から謀議の具体性はそなわつているのである)。

現にA4、A12は最初の会合謀議だけで犯罪を実行し、A19は松川側最終謀議だけでA15とともに犯罪を実行し、A13は別途で国鉄側被告人と連絡謀議して犯罪を実行している。もし、原判示の如くならば、実行者が現に現場に集まつたこと、及び、集まるについては国鉄側実行者は工作道具を持たず、松川側は工作道具を持つたが自らこれを使いこなし難く、互いに相手側への依存を予定していたという基本的共謀の事実は原判決の判示するところであり、この判示の趣旨は判文上明らかである。かような関係の事実認定である以上、たとえ原判示第三(二)事実の認定が誤認であることを疑うに足りても、それは各被告人の犯罪の成立を肯定する妨げとはならない。単に犯罪共謀の情状が原判示通り是認できないというに止まり、重大な事実誤認、量刑の甚しい不当を来たす原因となる程のものではない。

この見地に立つて、以下更に原判決の事実認定の当否に関し、要点を述べる。

その一三 八月一六日午後九時頃松川工場八坂寮組合室での国鉄側A5と松川側A14、A1、A17、A20との謀議(原判決第三(三)) (細胞会議に際して)

原判決は認定する。

「八月一六日すでにそれまでに国鉄側被告人等の少くとも一部の者との間に前示列車顛覆に関し謀議をとげていたA5は国鉄側被告人の何人かとの間にA2側に対する所要の連絡をなすべきことを協議の上、A2松川工場を訪れ、同日同所で開かれた松川労組組合大会終了後の午后九時頃同工場内八坂寮組合室で被告人A14、A16、A17、A20等に相会し、その席上「前記列車顛覆には国鉄側からA12、A13、A4が赴く、顛覆せしむべき列車は福島駅発午前二時四十何分の上り旅客列車すなわち四一二列車である、決行の時刻は午前二時から二時半頃とする、右列車の前の列車は運転休止になつており作業時間は十分ある、松川側からも二名バールとスパナを持つて参加ありたい」こと等の連絡をなし、芝側ではA14等からこれを諒とする旨を答えて列車顛覆の謀議をした」と。

原判決は被告人A1の1026A7調書、1025笛吹六回調書、1028A28調書、証三七号「行動」と題する手記、被告人A20の117A7調書、1119A7調書、1011A6調書、1014A6調書の真実性を検討するため、一、二審公判における多数の被告人、証人の供述、なおその取調官に対する供述調書その他の証拠を審究した結果、次の事実を認めた。そして、これによつてA1、A20の自白のこの点に関する部分の措信できることを知り、右判示事実を確認した。原判示は是認するに十分である(七章八節一)。

(1)(イ) 八月一六日A2松川工場板金工場で松川労組の組合大会が開かれそれが終了解散したのは午前八時三〇分より多少早かつた。

(ロ) 組合大会終了当時すでに当夜日本A44党松川工場細胞会議を持つべきことが予定されていた。同細胞には同党員A14、A1、A17、A19、A20が所属し、A15、A5も同党員でありA103、A104も党員または同調者であり、A22、A21は細胞のメンバーではなくても同党員に好意を持ち右細胞会議に出席を許される程度の密接な関係者であつた。

(ハ) 右組合大会終了後同会場で同労組青年部副部長被告人A17は青年部員を呼び止め翌一七日の宣伝班の編成を約一五分間でした。A5、A15、A17、A20、A22は右編成の終るまで大会場にいたが、以上五名はやがて会場を出て労組事務所に寄つた。

(ニ) 右大会終了後大会での未処理事項を処理するため組合長A14の提案で組合の執行委員会を開くことになり、A14、A1のほか執行委員A33、A35、A36、A34らが(大会終了後五分か一〇分位経て)八坂寮二階真の間(オルグA15の宿泊室)に集まつたところ、管理人A105から文句を二度いわれ執行委員らは階下に降り解散帰宅の途についた。

(ホ) その頃(午後九時少し前頃)A5、A17、A15らが八坂寮に来て、階下に降りて来たA14、A1と会いA5、A17、A14、A1が一緒に組合室に入つた。尤もA15は夕食のため自室真の間に入つた。程なくA20も来て組合室で会合に加わり、しばらく話している中に(ここが大事のところであるが)A103、A104も来た。その頃A15も来、やがA19、A22も来た。

かくてこの会合はA44党松川工場細胞会議として、また大会批判懇談会としても話合われた。

(2) 右の事情からみるに、一六日夜八坂寮組合室にA103、A104の来る前、午後九時頃同室で同党員であり地区労会議事務所勤務の国鉄側A5が同党の細胞メンバーであるA14、A1、A17、A20のほかまだ他の者の来ない、他人のいない機会に、約五分間の間に、この四名に対し話をしたことが是認でき、その話の内容は判示第三(三)の如き謀議連絡であり、これに対しA14らから諒承の旨答えられたことはA1自白、A20自白によつて認めることができる。

(3) 多数意見は「かかる重要な謀議が僅々五分間位の間に至極簡単に行われたという認定には無理がある」というが、A5はすでに三日前(八月一三日)正午頃A3労組福島支部で、A9、A11、A12と松川側A1との話合の席に列し、A5自らもしくは右三名の口から「A3労組側の幾人かが列車顛覆を計画している」ことを打明けており(「その一〇」の一)、一方、同じ八月一三日午後松川労組事務所では松川側A14、A17、A18は国鉄側A97と両労組の者が共同して列車事故を引起す計画について話し合い、その直後、A18は松川側A20、A19、A21、A22に右計画について話をした(その一〇の二)ことは、すでにわれわれのみたところである。だから、八月一六日夜九時頃の八坂寮組合室での右細胞会議に当つて、A5が本件顛覆計画についてA14、A1、A17、A20に話し出したとき、この四名は意外の話に驚く表情もなく話をすぐ了解したことと思われる。停車時間や幕間の五分間を考えてみても、重要問題についても、争のない秘密の話合なら直感的な寸言の交換で五分間でも十分できるのであり長話は無用である(「その一〇」の三)。

(4) A1証人1026A7調書は「八月一六日夜大会が終つて……執行委員会解散後……A14さんと私はA17、A20、地区労のA5某等と一緒に組合室に行つた……組合室では地区労のA5さんが「朝の上り二時何分かの(この時、時間を判然りいいましたが今記憶しておりません)汽車を顛覆させる、恰度幸いその前の貨車が運休になつているから時間は充分ある、国鉄からはA12、A13、A4の三名が行くから松川からも二人出てバールとスパナを持つて来て呉れ、万事よろしく頼む」と話しておりました、するとA14さんは「その点は後で具体的に打合わせるから大丈夫だ」といいました」という。

かように少くともA14だけはA5の話に驚きもせず、深くも問わず、それ以上多くいわないでもよいという如く、落ちついて「その点は後で具体的に打合わせるから大丈夫だ」と話したことからも、彼がA5からもすでにこの内容の事柄について連絡を受けていたと推測される。この点原判示には何の失当もない。

(5) 多数意見は上告論旨と同様「被告人A5が当日松川工場を訪れたのは午前一一時五八分であるが、その時は顛覆さすべき列車の前の一五九貨物列車の運休は未決定であり(一審公判五一回A40原審公判八四回A41の各証言によれば運休確定は午後一時頃で午後五時一〇分頃までにはそれが各関係駅に通報されている)、同人はその運休確定を知らずしてA2松川工場に赴いたことにならざるを得ないし、本謀議が行われたという同日午後九時頃までにA5がその決定の連絡を受けていたと認めるに足りる証拠は掲げられておらず、旁々午前一一時五八分に入門したA5が午後九時頃までその重要な任務を放任していたとの原判決の認定には疑問がある」という。

しかし、一審(五一回)、原審(二三回)公判での各A40証言、一審の右A41証言によると、

(イ) 一五九貨物列車は八月一三日から連日運休になつていたし、この列車は従来から運休になることの多い列車であつた。

(ロ) なるほど、八月一七日の同列車の運休が正式に決定したのは一六日午後一時頃で、午後五時一〇分頃までに関係各駅、現場にその電話通知は完了した事実は相違なく、郡山駅の如きは午後三時四〇分頃その周知を終つた位である。福島・郡山間の松川駅への通知も余り遅れなかつたであろう。しかし、A5は約一ケ月前まで国鉄に勤務していたのであるから松川労組大会終了(一六日午後八時三〇分近く)以前に、右列車の運休を予想したであろうことは勿論、運休確定後これを知る便宜を持つていて、これを知つたであろうことは推測に難くない。(原審二回検証調書によると、大会会場から松川駅までは徒歩三、四分の近距離である。)だから、A5が右運休を予想しその確定を知つたという直接の証拠がないからといつてその連絡が不可能であつたということはできない、という原判示の方が多数意見よりも首肯できると私は考える。

(ハ) A5が一六日の殆んど正午松川工場に入門し夜九時頃まで同工場にいたとしてもわれわれは不思議に思わない。多数意見が、A5はこの間九時間その重要な任務を放任していたという意味は何を指すのか。A5は福島地区にある労働組合の会議であるところの福島地区労働組合会議の雑務手伝であり、この組合会議には松川労組も加盟していると思われる。A5はまたA44党員でもあるから、A5には同夜八時三〇分近くに松川労組大会の終了するまで松川工場構内にいるだけの組合関係、党関係の用事殊に国鉄松川両労組の共同反対闘争上の用事があつたであろう、また、大会終了後A44党の立場から大会批判懇談会や細胞会議に顔を出すようなこともあるかも知れないとA5は思つたであろう。このことは証拠上察するに難くない。A5が大会終了前から、細胞会議が大会終了後に開かれる等の機会があるならかねて国鉄幹部から命ぜられている列車顛覆の話をしたいと思つていたとすれば猶更彼は大会終了後までも松川工場を去らず、適当な機会を待つていたとみてよいことは当然であろう。A5参加のこの会合の約三〇分後にはこの組合室で松川側被告人八名がバール、スハナの盗み出しやアリバイ工作についても謀議し、同夜一〇時半頃A22外二名はその盗み出しに赴き、翌一七日午前一時半頃A15とA19がバール、スパナを携えて松川労組を出発した事実(第三(四)第四(一)、(二))が是認できるなら、A5が一六日正午頃福島市から来てわざわざ夜九時頃まで松川工場構内にいた理由は、果して松川労組側の顛覆決意は強いものであるか、数時間後に実行に赴ける状態であるかを見届けるためでもあつたと思われないこともない。(このA5参加の一六日夜九時頃のA2側四名との謀議の約三時間後に、A4、A12、A13は福島市杉妻のA106材木店附近に集合して現場への出発を始めたと原判決第四(三)は認定している)。多数意見の任務放任説は賛成できる限りでない。

次に原判決は第三(三)冒頭で、大体この一六日松川工場を訪れたときのA5は、すでにそれまでに国鉄側被告人等の少くとも一部の者との間に、列車顛覆謀議をとげていたし、これについてA5がA2側被告人等との連絡を引受ける協議も出来ていたと判示するが、その証拠は何か。

それは、先ず何よりも、一六日夜A5が話した列車顛覆計画が前日(一五日午前一一時頃)国鉄支部でA4を交えてA9、A10、A11、A12が謀議した列車顛覆計画と根本的に一致することであり、かつA5の話はA5の個人的、独走的な話でなくA3労組福島支部の纏まつた権威ある意向、計画で、しかも急遽実行を要するものとして話され、A5は伝達連絡者として物をいつている有様であることが、挙示の情況証拠上認められるからである。松川側の被告人らは一三日に来たA97から聞いた顛覆企図とは違つて今や纏まつた、具体的な、かつ決行が迫られている計画をしつかり伝えられた事情が認められる。これが右判示冒頭のA5の謀議の証拠である。判示にA5が「国鉄側被告人等の少くとも一部の者との間に謀議をとげた」というのは一六日の段階では、A9、A10、A11、A12のうちの一部の者を指し、A4を含まないと解される。「それまでの間」とは前日(一五日)午前一一時過ないし一二時過からの約二四時間余の意味になり、このA5謀議は特定具体的なものとして判示されていること明らかである。

その一四 八月一六日夜九時半頃松川工場八坂寮組合室でのA2側最終謀議 (原判決第三(四))

原判決は次の如く認定した。

「次いで同日午後九時半頃被告人A14、A16、A15、A17、A19、A20、A21、A22の八名は前記八坂寮組合室で会合し、A14から前記国鉄側と謀議を遂げていた列車顛覆計画を説明するとともに、A16、A15、A17等と協議してあつたところに基いて右計画実行のため被告人A20、A21、A22の三名は同夜松川駅構内松川線路班倉庫からバール一挺、スパナ一挺を持出して来ること、A15とA19はそのバールとスパナを持つて午前二時頃までに顛覆作業の予定現場に赴くこと等を提案し、A1、A15、A17からもこれを支持する旨の発言があり、A19、A20、A21、A22の四名(いずれも松川労組青年部員)はこれに賛同し、なお一同の間で同夜のアリバイを作るためA19、A20、A21、A22は松川労組事務所に泊ること、被告人A18、同A23両名にもアリバイのため同事務所に寝ないでいることにさせること等を申合せよつて列車顛覆の謀議をした」と。

よつて検討する。

(1) すでに「その一三」で認めたように八月一六日松川労組組合大会が午後八時三〇分少し前頃終了してから、同組合執行委員らは松川工場構内八坂寮に行つたが管理人A105に文句をいわれ執行委員会は流会となつたけれども、かねて企図されていた日本A44党松川工場細胞会議兼大会批判懇談会が開かれることになつていたので国鉄側のA5、A2松川側のA14、A1、A17、A20が同寮組合室に集まり、午後九時頃、未だA103、A104の来ない前の約五分間に右五被告だけで前記列車顛覆謀議を行つた。

(2) 右に引続いて他の者も八坂寮組合室での右細胞会議兼懇談会に出席したが、A5、A103らは汽車で帰る関係で帰つて行き、後に同室にA14、A1、A15、A17、A19、A20、A21、A22のA2側八名だけが残つた。

(イ) A151013A28調書(八月一六日夜八坂寮組合室に集まつた者につき)「私が記憶しているのは、A14、A17、A20、A22、A19、地区労のA5、民青の男女二人、その外A2労組の者二、三名で、私はA18も出席したように思うが判然しない。A21が出席したかどうかも判然しない。A5某が帰つて、その懇談会を終つた後、私はA14や残つた者六人程で引続き雑談したように思う。九時四、五十分頃解散して皆が部屋を出た。」

(ロ) A141022A26調書(A5、A103、A104等の加わつた組合室での懇談会の出席者は)「私、A1、A17、A15、A22、A20、A19、A21ほか松川労組員二、三名であつた。汽車の関係でA5、A103が帰り、その後には、私、A1、A17、A15、A22、A20、A19、A21等が残つて、それから約三〇分懇談した。」

(ハ) A201119A7調書「A5が帰つた後、その余の者が残つて雑談していた。その時A14が少し話があるといつたので、私が労組事務所にA21を呼びに行つた……A21が表に出たので二人で組合室に行つた(それから原判示のような謀議があつた。)」

(ニ) A23116A100調書「組合大会終了後細胞会議のため細胞の人達が八坂寮に行きA19、A20が出て行つた後で、誰か思い出せぬが、呼びに来て、その時組合事務所にいたA18、A22、A21、私に八坂寮に来ないかといつた。……A21とA22は呼びに来た人と一緒に行つた。A18は……うなずいただけで行かなかつた。一〇時近い頃A20、A21、A22、A19が同じ頃組合事務所に帰つて来た。」

(3) 原判決が採用した被告人A19、A1、A20、A21の各数個の自白ないし自認調書、証三七号のA1の行動と題する手記(原判決七章八節二(一)(二)(三))を綜合すれば、その時の話合いについては、次の骨子の点において諸供述は一致する。

(一) A5らが帰つた後、A14、A1、A17、A15、A20、A22、A21、A19の八名が八坂寮組合室に残つた。残つた用件は汽車を脱線させるという話であつた。

(二) その時の話の中心はA14、A1、A17、A15で、中でもA14とA1であつた。

(三) 謀議は一五分か二〇分ないし三〇分位を費して午後一〇時頃解散した。

(四) 謀議内容は、今晩、金谷川と松川との間で列車を脱線させる、その作業には福島の国鉄からも人が来る、A2側からも二人行くことになつている、A2側からはバールとスパナを持つて行くことになつている、A2側から現場へ赴くのはA15とA19とする、A20、A21、A22の三人は松川線路班からバールとスパナを持つて来ること、アリバイを作るため、A19、A20、A22、A21は今晩は労組事務所に泊ること、A18、同A23も労組事務所に泊ること、等であつた。

(4)原判決の採用した右証拠には供述の不一致な点が少なくないが、右に示した以外の細部において一致する点も少なくない。これは多数被告人が自白、自認する場合でもあちこちいろいろの点を隠したり、思い違えあるいは忘れたりする場合に生じうるところで、そのうちから真相がうかがえるのである。

(5)この謀議の前、A14はA5から謀議連絡を聞き彼に対し「具体的な話は今晩これからやるつもりだ、こつちの方は心配しなくてもよい。」といつた。以上の点を含む原判決(七章八節二)の説示は至当であり、これにより原判決第三(四)認定事実は是認するに十分である。

その一五 一六日夜一〇時頃A18、二階堂(佐々木)A23はアリバイ擬装をA14から頼まれて承諾した (原判決第五)

原判決は次の如く認定した。

「被告人A18、A23は一六日午後一〇時頃前記第三(四)(A2側最終謀議)を終えて松川労組事務所に来たA14から、同事務所前の小径に呼び出され、同所で同人から「今晩汽車を顛覆させるから寝ないで事務所にいてくれ、A15、A19、A20、A22、A21達が行くから君達はアリバイを作つて貰いたい」旨依頼されて承諾し、A19が同夜列車顛覆計画の実行に赴くものであることを知りながら、同被告人が終夜ともに同事務所にいたように虚偽のアリバイを作るため、同夜同所に宿泊し翌一七日午前二時過頃まで起きていて、A19のアリバイを作つてくれるであろうとの期待に応え同被告人に一種の安心感を与えて前記共謀による汽車顛覆の共同犯行を容易ならしめてこれを幇助した」と。よつて検討する。

(1) この事実に関する供述は、

(イ) 先ず比較的早くA20107A7調書に現われる「(前記一六日夜八坂寮での)A2側最終謀議解散後、A19、A20、A22、A21が労組事務所に帰つた後、A14が労組事務所に来てA18、同A23に対し「今晩やるアリバイを確かり作つておけ」といつて事務所から帰つた。」

(ロ) A221022A7調書「八月一六日夜私達がA14さんから列車顛覆の話を聞いて組合事務所に来て約一〇分か二〇分位して、A14さんが組合事務所にやつて来て、A18、A23さんを表に連れ出し、何かひそひそ話をしていた。」

(ハ) A23116A100調書「八月一六日の夜組合大会終了後、細胞の人達が細胞会議のため八坂寮に行き、その後A21、A22も八坂寮に行つたが、しばらくして一〇時頃と思うが、A20、A21、A22、A19が同じ頃に組合事務所に帰つて来た。……間もなく、A14が一人だけで事務所の入口に一足か二足位はいつて来て私とA18に目で合図して一寸というので、二人でA14について入口の外に出た。組合事務所の東側に附属している物置の前の八坂神社に出る小路で、三人身体がすれ合う位に近寄つて、A14から今晩……汽車を顛覆させるから二人は事務所に寝ないで泊つていてくれといつた。……A15、A19、A20、A22、A21が行くからといつて、私達にアリバイをたてて貰いたいという意味の事をいつたが詳細には記憶がない。A15の外は今晩組合事務所に泊るということであつた。またA20とA21とA22とは何処からかバールとスパナを持つて来るといいました……二人とも何とも答えず、目で承知の合図をして事務所に帰つた」(A23119A7調書も大部分同趣旨)(ほかにA23112A100四回調書、116A100六回調書)。

(2) A23は従来組合の仕事で遅くなつたようなときは何時も目と鼻の距離にある八坂寮のA101の家庭に泊つていたのに、八月一六日夜に限つて松川労組事務所に泊つた。

一審公判一三回証人A101「私は昭和二四年八月にはA2松川工場八坂寮で仕事をしていました。昨年東北本線松川金谷川間に顛覆事故のあつたのは八月一七日朝と思います。

その前日一六日私は八坂寮の中におりました。この法廷にいる佐々木A23さんが一六日(午後まだ明るい中だつたと思います)食堂に来て「A56さん今日は組合の用事で遅くなるかも知れないから泊めて下さい」というので私は「床を敷いておくから何時でも来て泊りなさい」といいました。

A23さんは何時も組合の仕事等で遅くなつたような時は私の部屋に泊つておりました。私は部屋に帰り……A23さんの床も一緒に敷いて待つておりましたが、子供を寝かせている中自分も眠つてしまいました、その頃は大体九時半頃と記憶しております。……その晩A23さんは泊りに来ませんでした。……一七日になつてA23さんが私に「組合の用事が忙しかつたので行けませんでした」といつていたので来なかつたことが判りました。A23さんは「組合事務所にいた」といつていたと記憶します。」

(3) A19逮捕後九月二十四、五日頃A18、同A23、A20、A21は連名で宿泊証明書を作つてA14に渡した。

A201012A6調書「九月二二日A19等が本件の為逮捕されましたので、私達始めの計画通り我々が八月一六日の夜は組合事務所で仕事をして遅くなり泊つたものであるといふA19のアリバイを作る為、九月二十四、五日頃組合事務所で共のアリバイを証明するA18、A23、A21、私の四人の連名の証明書を作りました、その証明書の文句や図面はA18が書いたものですが内容は私やA21、A23も夫々意見を述べて武夫に書いて貰つたものですそして私達がそれぞれ署名して判をおしました。お示しの押收証一五三号はその時作つたアリバイを装う証明書で、これを作製してからA18はその場にいたA14にこれを渡しておりました。」

(4) A23は一六日夜A18、A19、A20、A21、A22と松川労組事務所に泊り、同夜午前二時過まで机に向つて起きていたことを一、二審公判廷で自ら述べている。

(5) 労組事務所に夜間人が泊つたのは八月一六日夜だけであつた。被告人らは近くの家に帰れる者も蚊いぶしをしたり板の聞に新聞紙を敷いてゴロ寝して幻灯幕や赤旗を掛けて寝た。この地方の夜明け前は相当温度が下がる。

一審公判一三回証人松川工場警備員A107「私は八月一六日は午後一〇時二〇分天王原工場を巡視し、それから三回巡視した。組合事務所にその晩A18、A23、A21、A22、A20、A19が残つていた……八月一六日以外に組合事務所に夜間人が泊つたことは記憶ありません。」

(6) そこにいた被告人らがビラ書きをしたり、A21が飯を焚き、A23とA22が八坂寮賄所に行つて(一審公判一二回A105証言、A23一一月二日A100四回調書)茶碗六個と味噌少しを手に入れて来てその飯を皆で一杯ずつ食べたりしたが(A23116A100六回調書)、これだけのために右被告人六名が同事務所に泊らなければならないものとは認められない。A22は近くの八坂寮に自室があり、記録によると、A21、A19はa町内に家があり、A18は過労のため休養を要する状態であつた。もとより親密な青年同志であるから談笑したりインターナシヨナルを歌つたりして夜更けに及ぶこともあろうが、それならA23は約束のA101の家に泊りに行つてもよく深夜二時過まで机に向つて起きている必要もなかろう。当夜そこで被告人らがただ談笑や合唱やビラ書きに殆んどの時間を過したような供述、証拠は乏しく、信用できない。右被告人らが右事務所に泊まる格別の理由は他に記録上認められない。

(7) A18、同A23が一六日右事務所に来た当初はアリバイ擬装目的をハツキリ持たなかつたであろうが、A14からのアリバイ工作依頼が出し抜けの思いもかけないものであつたと右両名が思つたとは挙示の証拠上認められない。

同夜のA2側最終謀議で、一方的に、両A18にもアリバイのため同事務所に寝ないでいることにさせるように決めたことは、両A18がこれを受諾するであろうと見ていたからであると思われる。

(8) A14は組合長であり指導性、実力も持つていたことは原判決挙示の証拠上認められる。被告人A20、A22、A23の三人もが真実に反してまでこのA14を裏切り彼に不利な前記供述をしたとは考えられない。これら供述が強制、誘導によらずになされたことは、他の被告人の取調官に対する供述と同様、すでに「その四ないし九」で説示した通りである。A20、A22、A23は一六日夜松川労組事務所で目撃したところを「多少思い違え、忘れ、あるいは隠したりもしつつ)供述したものと解することができる。

(9) A18は、八月一三日A19、A21、A20、A22等に列車事故を引起す計画のあることを話したが、当時この計画は共同謀議にまでは熟していなかつたのみならず、その後本件計画に関与した形跡なく、本件のような計画あることを知つて、本件犯行にはなるべく関与しないようまたA2側被告人等からもなるべく遠ざかろうとしていたかにみられる節があり、一六日夜八坂寮で細胞会議があるというのに細胞のメンバーであり目と鼻の先にいながら、迎えに来ても出席しなかつた、という原判決の説示は慎重で是認できる(七章八節二(五)、五節(五))。けれども、一六日夜一〇時頃両A18が労組事務所前の小径にA14から呼び出され今晩前示列車顛覆計画を決行すること、及び計画内容を打ち明けられアリバイ擬装を依頼されるや、これを知つて応諾し実行に赴くA19らに安心させ精神的援助によつて実行を容易ならしめたことの証拠は原判決の挙示するところである。

以上の点に鑑み、原判決が採用した証拠によつて説示認定した原判決第五事実は十分是認することができる。

その一六 八月一六日夜一〇時半頃A20、A21、A22がバールとスパナを盗み出す (原判決第四(一))

原判決は次の如く認定した。

「A19、A20、A21、A22は前記(第三(四))謀議(本意見「その一四」A2側最終謀議)終了後直ちに松川労組事務所に行き、そこにいたA18、A23とともにビラ書き等をしていたが、同夜一〇時半頃A20、A21、A22の三名は松川労組事務所を出て松川駅構内福島保線区松川線路班倉庫に赴き倉庫入口の板戸を外し、A21は外で見張に任じ、A20、A22の両名は倉庫内に入り器具置場にあつた道具の中からバール一挺、自在スパナー挺(押收の証一号の六及び五)を取り出した上、A21はスパナを、A20、A22はバールを持ち前後して同労組事務所に帰つた」と。

よつて検討する。

(1) この盗み出しは、原判決によれば、本件列車顛覆致死という犯罪構成事実そのものには属せず、その予備行為として認定されていること犯罪実行者五人の顛覆現場への行き帰りの事実と同じであり、窃盗として起訴されてもいない。そして、判例によると、窃盗の訴因についてさえ、客観的罪体について被告人の自白がある以上、補強証拠はその重要部分についてあれば足り、被告人が行為者であることや故意あること等については補強証拠なしに窃盗の事実を認定して差支ない(アメリカでも同様)。また、三人が窃盗を通謀して他人の一倉庫の内外におり、その中の一人が倉庫内に入り他人所有の道具を窃取して来た事実が認められる以上、倉庫に入つて窃取した者がその中の誰であるか、どうして板戸を外したかなどの細かい情況が証拠上明らかでなくても共同窃取の事実を認めて差支ないこと採証法則上多言を要しない。

本件顛覆作業実行者五被告がそれぞれ如何なるルートを通つて現場に来たかの如き点につき不明の点があつても彼らが現場に集まりその一部がバール、スパナを用いて本件顛覆作業が行われた事実が確認できる以上、本件顛覆作業が彼らによつて行われた事実を認定するを妨げないことも同様である。

本件でバール、スパナの盗み出し、実行行為者五被告の現場への行き帰りが検討されているのも、勿論、各被告人に犯意、共謀の事実、実行行為が可能であつたか否か、またそれが真実存在したか否か、更には人違ないか否かを判定するためではあるが、究極の目的は脱線作業の実行または共謀への加担の有無の判断であるから、この法的評価の上に立つての検討が、右の程度でなされることが必要にして十分である。判決の証拠説明に至つては固よりそれで十分である。微に入り細を穿つて供述のくいちがいに眼を奪われた結果、たやすく証拠は支離滅裂でこれを採用するのは採証法違反や事実誤認の疑をもたらすかのように誤解してはならない。それは、一面供述の一致を重視する弊に陥り、他面共犯者達がくいちがう供述をすることによつて真相をくらまし、その発見の機会を失わせる虞を生じないとも限らないのである。

(2) 原判決は、

一審公判一三回証人A108が「私は八月一六日午後八時から一七日午前四時まで松川駅員として同駅の信号の取扱と通票(タブレツト)の装置の仕事に従事した。一六日午后一一時前後に一六〇列車か一二八列車通過のためタブレツトを装置するため同駅中央ホームにある通票受柱に行きタブレツトを装置の後同ホーム北端の運転室に帰る途中、同ホーム中央の待合室と運転室の丁度中間頃に来たとき、同駅構内西側のコンクリート土堤の上を、安達駅の方向に向つて行く三人ないし四人の人影を見た。年恰好は二十二、三才位と思つた……」といつた証言を、押收の列車運転状況表や運行係長A40の証言等と対照した結果、A79証人がいう列車は一六〇列車で、同人は二二時四八分過に右三、四人の人影を見た訳になると認定し、A20、A21、A22が労組事務所を出発したのは午後一〇時三〇分頃から同四四分位になる、同夜A2側最終謀議が済んだのが午後一〇時頃、それからA19、A20、A21、A22が労組事務所に帰り、その後A21が米、鍋を用意し飯をたき始め、その間に「もう時間だから行こう」と出かけた経過であつて、これは出発時刻を一〇時半頃というA21自白とも適合するという(七章九節四)。

これによると、松川駅員A79が右時刻頃三、四人の青年が安達駅の方向へ行くのを目撃し、それが始終見受ける出来事と違つて記憶に残つていたことが判かる。この青年達が被告人でなかつたとも断定はできない。

(3)しかし、一六日夜一〇時半頃A20、A21、A22が松川労組事務所を出て松川線路班倉庫に行き、原判示の通り倉庫内に入りバール、スパナを取出し、右事務所に持ち帰つた事実については、右三名の自白、A23の供述があり、右物件の紛失した事実の証拠がこれを補強し、また押收のバール、スパナ(証七号、八号)は持出して来たものに相違ないとの供述(A20107A7調書)もあり、これらにより人違なきことも認められる。

これらの点と原判決の採用した各証拠を照らし合わせると、原判示第四(一)の事実認定の是認できることは明らかである。

その一七 A2側A15、A19がバールとスパナを携え予定現場に向う(原判決第四(二))

原判決は次の如く認定した。

「A15(A2側オルグ)は第三(四)の謀議(一六日夜八坂寮組合室でのA2側最終謀議)終了後、同寮真の間の自室にいたが、翌一七日午前一時過頃松川労組事務所に赴き暫時同所におり、午前一時半前頃被告人A19とともに前記バールとスパナを携えて同労組事務所を出発し、……松川駅構内北部の鉄道線路に出、その後は東北本線鉄道線路伝いに前記謀議による顛覆作業の予定現場に向つた」と。

(1) すでに述べたように、八月一六日夜九時半頃からの松川工場八坂寮組合室でのA2側最終会議が終つてA19、A20、A22、A21は両A18のいる松川労組事務所に帰つた。A14も同夜一〇時頃同事務所前に来て両A18を呼び出しアリバイを依頼した〔「その一五」〕。次いで同夜一〇時半頃A20、A21、A22は同事務所を出て松川線路班に行きバール、スパナを盗み出し同事務所に持ち帰つた〔「その一六」〕。

(2) A21は盗みに出る前、右組合事務所で四合の米を電熱器で焚き始めたが同夜一〇時半頃A20が「時間だから行こう」といつたのでA21、A20、A22は松川線路班倉庫に行つてバール、スパナを盗み出しこれを携えて松川労組事務所に帰りそれを事務所の外側に置いた(A20107A7調書、A211013辻九回調書その他)。それからA23とA22が八坂寮賄所に行つて茶碗六つと味噌を手に入れて組合事務所に帰り前記A21の焚いた飯を右六名で食べた〔「その一五」6〕。

(3) さて、同夜八坂寮真の間の自分の宿泊室にいたA15が、同夜遅く右組合事務所にやつて来て、また出掛けて行つた点については左の証拠がある。

(イ) A21108A7調書「私は一六日午後一〇時半頃……バールとスパナを取りに出掛けました……私等はそれを持つて来て組合事務所入口辺に置いた……私は(一七日午前)一時近く同事務所の板の間に新聞紙を敷き白幕を被つて寝ました……午前一時半頃眼を醒すとA19が事務所入口のところまで出掛けていた……その時出掛けたのは二人の様に思いました。……A19君は午前三時頃事務所に帰つて参りました。」

(ロ) A211013辻九回調書「一六日夜一〇時半頃私、A20、A22は右事務所を出て……工夫小屋の前に出……A20、A22がその中に入り私は見張するため立つていた……二人はスパナ、パールを外に出し、三人でこれを持つてもと来た道を事務所に帰りスパナ、バールは外に置かれた……六人で飯を食い、「インター」などを合唱した……私は板張の間に枕なしで横になつたがA22君が出て行き菊の葉を持つて来て蚊いぶしをした……A18君は幻灯暗幕を私とA22君にかぶせて呉れた。私は室内を歩く足音で眼を覚し……A19君の声を聞き同君のほかになお人が行くような気配がした。」

(ハ) A23119A7調書は同女がA14から一六日夜アリバイを頼まれた際A14は「A21、A20、A22はバールとスパナを持つて来る、それからA15とA19は現場へ出掛けるから」というようなことをいつておりました(A23116A100六回調書も右の点同旨)A21さんはA22、A20さんより一足先に帰つて参りました、それから労働歌等を歌い暫らくしてA15さんが組合事務所に来ました、その後(一七日午前)一時過頃A15は組合事務所から出て行きました、A19はA15さんより一足遅れて出て行き、A19は午前二時過頃まで帰つて来ませんでした。」

A23116A100六回調書「一六日夜A21、A22、A20が組合事務所に戻り一同茶碗六つで飯を食べて後ビラ書きや合唱をしている時頃A15さんが事務所に入つて来てA18さんとA19に何か話をしていた。(一七日)午前O時過頃A15さんが先に外へ出、少し後からA19さんが出て行つた。A19さん等が出て行つた時もA20さん等が持つて来たバールとスパナを持つて現場へ行くのだと思つた。」

(4) A19はA15と二人で現場に行つたことにつき左のように供述する。

(イ) A19103A28二回調書「……八月一六日午後一一時前頃A20、A21、A22が(労組事務所から)外に出ましたので自分はバールとスパナを取りに行つたんだなと直感しました……一一時二、三〇分頃右三人は一緒に帰つて来ました……長さ三尺位のバール一ケ、スパナ一ケが事務所東側端の壁に立て掛けてあつた……七日午前一時半頃A15が私に「行こう」というので私はバール、A15はスパナを持ち事務所から出ました……A15は地理を知らないので私が線路までの道案内をし、八坂神社階段、鉄道官舎前、八坂寮裏、線路脇を歩いて東北線に出、それから二人で金谷川の方に向つて線路ぶちの道を歩いて行つた、丁度東北本線と川俣線の分岐点から北方福島に向つて約一〇〇米か二〇〇米離れた地点まで来た時、たしか線路の上を福島の方から我々と反対に松川の方、南に向つて歩いてくるのに会いました……A15はその男達の姿を見ると何やら声をかけ先方で何か私等に言葉をかけました。」

(ロ) A19105A7調書「(八月一六日夜八坂寮組合室での汽車脱線計画の話の際)計画の実行にはA15さんが「僕は土地の事情が判らないので君も一緒に行つてくれ」といわれたので結局A15さんと私が行くようになつたのです……同夜組合事務所で私達が歌を歌つているとA15さんが参り、歌が終るとA15さんが私に「これから出掛けよう」といい(一七日)午前一時半頃組合事務所出入口を出るとすぐバール一つとイギリス・スパナが一つが置いてあつたのでA15さんはスパナ、私はバールを持つて出掛けたのです……汽車の線路に出るまでは私が道案内し、出てからは線路の右側を大体A15さんが先になり福島方面に向つて歩いて行きました、そして東北本線と川俣線の分岐点から約一〇〇米か二〇〇米北方へ行つたところで福島方面から来た三人連れの男に出会いました……私達がその三人連れに向い会うとA15さんと福島方面から来た人が立止まりました、A15さんはその人達と何か挨拶を交した様でした。」

その一八 A2側A15、A19が現場附近で国鉄側A4、A12、A13と出会う (原判決第四(三)末段)

スパナとバールを持つたA2側A15とA19は鉄道線路を松川駅附近より福島駅方面へ歩いて行つて国鉄側A12、A4、A13に出会つた、お互いに意外な怪しい者に出くわしたような風もなく却つて挨拶を交わした、それから彼ら五被告は一緒になつて福島方面にその鉄道線路を進んだ。途中で彼らは上り準急一一二旅客列車がやつて来るのに出遭い、その後部機関士108は三、四人の男が線路の土手のやや下を重い荷物でも持つている様に幾分前かがみになつて列車と反対方向に歩くのを目撃した。彼ら五被告はやがて本件列車顛覆現場に来た。ということの諸証拠のうちに、A19、A4両被告の自供と108機関士の証言がある。

(イ) A19105A7調書「A15と私が東北本線を川俣線分岐点から約一〇〇米か二〇〇米福島方面へ行つたところで福島方面から来た三人連の男に出会い、A15さんと福島方面から来た人が立止り、A15さんはその人達と何か挨拶を交した様でした、そして私はこの三人連れの男は前に執行部の人達が「福島方面からも手伝に来る」といつたその人達だなと直感致しました、それから私達は全部で五人となり福島方面(北方)へ、福島方面から来た三人は先頭になり次にA15さん一番後に私が附き、歩いている中に列車に会い、汽車の音と窓明りで客車だと判りました、会つたとき右側の土手より二、三米下りてしやがんで顔を伏せ、客車が通過したので私達は再びこれまで歩いて来た線路の右側に出て続いて歩き出しました、それから少し歩いて線路が左にカーブした処で左が山になつて曲り右が田圃だと思う地点で、前に歩いて行つた者が止まり私も止りました、そこに着いたのは多分(一七日)午前二時頃だつたと思います。現場に着くと私達が持つて行つたバールやスパナを福島の人に渡した……。」

(ロ) 一審公判一四回証人108「自分は八月一七日は一一二列車後部補助機関車に乗務運転中、同列車は同日午前一時五九分頃松川駅を通過したと思う。自分は列車の脱線顛覆した場所は大体知つている。自分が一一二列車の後部機関士として金谷川駅と松川駅聞の浅川踏切を過ぎて線路が曲線から直線になるところから幾分(松川駅に向つて)過ぎた頃、三人ないし五人と思うが多分三、四人の男を見た。それらの男の人は線路に沿つている土手のやや中間より幾分下つたところ辺を、列車と反対方向に向つて歩いていたと思われた、そしてその男の人は列車と擦違つた。……その人達は線路の土手の中間よりやや下の処で何か重い荷物でも持つている様な変な恰好で幾分前かがみになり、列車とは反対の方向に向つて歩いていた。その土手は松川駅に向つて、つまり列車の進行方向に向つて左であつた。……自分は郡山駅で同列車機関車を解放し待機中初めて列車の脱線事故を聞き、列車の機関助手A109に対し「松川、金谷川駅間で列車が脱線したのは松川方面へ浅川踏切を過ぎた附近ではないか」と話した。……一一二列車が列車顛覆のあつたと思われる処を通過した時は別に何とも感じなかつた。」

(ハ) A4101A26調書「私は一六日夜一二時近くA110、A74等と虚空蔵様の境内を出て伏拝のA31魚店の処で別れ自分の家に帰る振りをして……A111裏A9製板所の材木が積んである前に来るとA12とA13がしやがんで待つておりました(中略)、脱線予定事故地点へ着きました、併し松川から来る予定の者は未だ来ておりませんでしたので……もう少し先へ行つて見様とぼつぼつと松川駅の方へ向つて歩いて行くと松川駅の遠方信号機の五、六十米手前で松川駅の方から線路上を歩いて来る二人の姿が見えましたので私は約束の人がやつて来たと直感しました……松川の者に会うとA12が「お晩です」と声を掛け、松川から来た人は「お晩です」「今晩は」といつた様であります、そこで二、三分立止つてA12が何か話している様でありました、その中にA12がこれから現場へ行きましようといいまして松川から来た二人を加え私等五人は私等三人で通つて来た元の線路上を引返し予定の現場へ向つて歩きました。」

これらを含む挙示の証拠によつて右判示事実は是認するに十分である。注意すべきは、この部分だけをとつて見ても、右被告人五名がこの夜何時、どんなルートを通つて来たにせよ、松川駅遠方信号機ないし東北本線と川俣線分岐点北方線路上で出遭いその辺で上り準急一一二列車と擦れ違い同列車が一七日午前一時五九分頃松川駅を通過した事実は動かないと見られることである。この深夜この場所をA66機関士が見たような恰好で現場の方へ進む数名が他にありそうにも思われない。「諏訪メモ」がこの事実に響かないことも明らかである。

その一九 A4と列車との出会い A13アリバイなし A12アリバイなし(原判決第四(三))

一 原判決は次の如く認定した。

「被告人A12、A13、A4は八月一六日(夜)午後一二時頃福島市aA46農業協同組合裏手A106材木店附近材木置場の傍で落合い、直ちに同所を出発し、南進してA112方前、永井川信号所南部踏切、東北本線鉄道線路上、平石トンネル左上方山道……再び前記鉄道線路伝いに……列車顛覆予定現場(東京基点二六一粁二五九米四〇糎附近カーブの個所)に到着した。

が、A2側の者がまだ来ていなかつたので、更に鉄道線路を松川駅の方に進んだところ、同駅上り遠方信号機の少し手前でバールとスパナを持つて鉄道線路を進んで来た被告人A15とA19に出会つた」と。

二 A4と列車との出会い

A4自白によると彼が出会つた筈の列車に出会わず、出会わない筈の列車に出会つたことになる点もあるが、他の一部は上記「その一八」の如く他の証拠にも照らして措信できる場合もあるのである。

(1) 元来、犯行現場への行き帰りの如きはバール、スパナの盗み出しの項で説明したと同様本件顛覆致死罪の予備行動にすぎず、この点が不明であつても、被告人A4、A12、A13、A15、A19が一七日午前二時頃右現場に赴きそこで持参のバール、スパナで彼らのうち数名が共同して脱線作業をし他の物は見張をしていたという基本的事実につき動かない証拠があるなら、これら各被告人の共同犯罪実行者としての罪責は成立する。極言するならスパナが他の方面から入手されたものであつたと仮定しても罪責の成立には影響しない。

(2) 原審公判一〇一回で小沢茂弁護人が「夜間検証の実感からいえば通過した汽車の時刻場所を正確に記憶することは不可能である」と述べ(弁論要旨一〇項)、

原審公判六一回証人A26が、検事としての本件捜査の体験として「私としては、自分が実際に顛覆現場への往復道筋を歩いて見て、さて何処で列車と会い、何処で追越されたのであつたかと考えて見ると、仲々それが思い出せなかつたと証言する点は、いずれも経験則上首肯できる。

三 A13アリバイなし

(1) A13は第一審公判廷最終陳述に至るまで、捜査過程においても、歩行機能障害があつたこと、そのため当時A4自白のような事故現場への行き帰り、脱線作業参加はできなかつたとの主張を全然していない。捜査の早期から本件一、二審公判に関与した弁護人からも主張されていない。もし右主張が真実なら捜査当初からでもこの主張と医師、カルテ、知人等の取調請求をしこれを明らかにすることができた筈である。A13が公判廷で布団を敷くことの許しを求めたことは、本件事故当時歩行障害があつたことの主張にはならない。

(2) A113鑑定人は原審裁判官、検察官、弁護人ら、他の鑑定人らとともに行つた昭和二七年一二月五日の実地調査の際「一般に枕木上を歩くことを好まないものであるがそこをA13はかなり自由に歩く、トンネル上の坂道もそれ程困難なく登つた」のを看破した。

A114鑑定及び証言をみると、A13が股関節を自分で動かして見せる場合にも、他の症状をのべる場合にも故意にいつわりの作為や言葉を用いているように推測される節がある。同鑑定は「歩行機能に軽微の障害があつたが本件区間の歩行に昭和二四年八月十六、七日当時堪えない程度のものではなかつた」という。

A115鑑定は「予後は比較的良好、歩行は可能、精神力の如何によつては本件区間も十分歩行し得る」という。

原判決の詳細の説示は至当である。

(3) 八月一七日午前四時三〇分過頃から五時過頃までの間に肥料車をひいていたA116は森永橋南側道路土手寄りに三人男がしゃがんで何か相談しているのを見て不思議に思つた」(同証人1018山田調書、一審一四回)。これはA4、A12、A13が犯行の帰途森永橋辺で休息したというA4自白を裏付け得る。

(4) 解雇された元国鉄職員A117は「A3労組福島支部事務所に泊まつていた時、八月一七日夜明け薄明るくなつてから同事務所に郡山分会から電話がかかり松川金谷川間列車顛覆事故に関する報告があつた。同朝六時頃A13が出勤して来た、このように早く出勤したことはそれまでなかつた。同人はA13に右列車顛覆事故の電話内容を話したがなんだか判つているような口吻であつた」と証言する(一審公判一五回)。これは、他の証拠とも照らし合わせると、A13が犯行の帰途国鉄福島労組支部に立寄つてから帰宅したことを推測させる。

四 A12アリバイなし

(1) 昭和二五年四月八日第一審第一回検証の際、現場であるA118工場正門附近で検証立会中のA4はA12に「俺達が休んだのはもう少し向うの方だつたなあ」といつた。A12の戒護巡査A15A12がこれを聞いた(一審公判五一回A15A12証言)。

(2) A12は八月一六日夜はA3労組福島支部事務所に酔つて泊まり前段(4)のA117の介抱を受けたと主張したが、A105は原審公判四二回で証人として、A12の強い誘導的な反対尋問に対しても、同夜A12は泊らなかつたと断言し、A12が「私が無実を着て絞首台に吊されることになつても左様断言するのか」との趣旨の問に対しても泊らなかつた旨答えた。多数被告人、弁護人在廷の公判廷で同証人が真実に反してまでかく断言するとは考えられない。帰途に関するA4自白が虚偽でないことを思わせる一証拠である。

その二〇A13の共謀

A13が判示の通りA4、A12と現場方面へ歩いて行きA15、A19と出会い、一緒に現場に到着したことが明らかであるから、このことは彼が集合場所に行くまでにかような共同の行動をとる計画のあることを予め知つて賛同参加したことを意味する。俗にいう丑満時の深夜にこの淋しい地点に彼が来て他の者に会つたことは奇蹟でも偶然でもない。原判示はもちろん相当である。

第三結論

一 私は以上で、原判示のとおり各秘密の共謀が存在し、それの実行行為への移行(盗み出し、双方からの行きと出会い、脱線作業現場への到着)の事実が、証拠も確実で、人違いもなく、間違いないことを説示した。またA18、A23の幇助の事実も同様である。すでに被告人A12、A13、A4、A15、A19の五名が人違いなく現場に赴いたことが確認され、かつ、われわれは、この五名共同の列車顛覆作業とその結果に関する原判決の事実認定は妥当確実であると認めるから、しかる以上、顛覆作業と顛覆破壊致死の結果について一々説明する必要はないと考える。

二 「諏訪メモ」が出たため、仮りに原判決認定事実のうち八月一五日正午頃A15が国鉄側被告人らと謀議した事実が疑わしくなつたとしても、その前にもその後にも独立して実行原因となるに足る謀議が重複してなされている事実は聞違いないから(上記事実問題「その一二」三参照)、結論は当然次のとおりになる。この考方は従来の裁判実例の趣旨に反しない。 「諏訪メモ」は全局に影響しない。

(1) 国鉄側のA4、A12は本件列車顛覆破壊致死罪の実行者(実行正犯)である。従つてこの二人と八月一五日午前一一時(A15の来ない前)共同謀議したA9、A10、A11は共謀共同正犯である。この謀議は具体的かつ相当詳しい基本的なもので、A4、A12はこの謀議をしただけで、二人で集合の時刻、場所を謀議した上、その後他の被告人らと会議的謀議をすることなく、現場に赴き顛覆作業を国鉄側A13及びA2側A15、A19と実行している。A13も共同実行正犯である。

(2)(イ) 国鉄側A5、A2側A14、A1、A17、A20は翌一六日夜九時頃(細胞会議のあつた際)共同謀議し、A5が帰り去つた後、(ロ)同夜九時半頃A2側右四名とA21、A22、A15、A19との八名が(最終の)共同謀議をし、この二つの謀議も具体的詳細なものであつた。これらによつて、A15、A19は現場に赴き顛覆作業を国鉄側三名と共同実行した。従つてA15、A19(共同実行正犯)と共謀したA14、A1、A17、A20、A21、A22の六名ならびにA14ほか三名と共謀したA5は共謀共同正犯である。

(3) A18、A23はA14からアリバイ擬装を依頼され情を知つて承諾しA19の実行行為を幇助した。従つてこの二人は従犯である。

多数意見はA15参加の、次でA5参加の二つの謀議は互いに相手側の参加を予定するというが、一般に、共同して襲撃することを数次に共謀したような場合、その共謀は互に相手側の参加を予定するであろうが、その謀議が疑わしくても実行が是認できる場合はむしろ多い。本件でも何ら多数意見がいうように二つの謀議は実行に対し特別関係に立つものでない。このことは共同実行者五名とA18、A23とだけを考えてみても明瞭である。

多数意見が一部を見て全体を見ず、法的観点からの判断を忘れ、本件だけについて特別の考方をして被告人毎に原判決を是認できるか否かの検討をしようとせず、全被告人を一緒くたにして破棄差戻をするに急であつた態度は理解できない。

三 附記

(一)原審公判調書には書直し個所があつて刑訴規則五九条所定の訂正形式を履んでいないが、同公判ではテープ録音がとつてあり、弁護人からも屡々調書記載の正確性について異議が出ており、前後の関係等からみて、書直しは真実に反しないよう、キレイに書くためになされたものらしく、虚偽もしくは偽変造のものとは認められない。

(二)1028A28検事調書は多数意見指摘の如き不体裁なこと最低のものであるが、追記が大びらになされているところから見て虚偽もしくは偽変造のものというに足りない。

これらは証拠能力を失つていない。

裁判官A42克の反対意見は、次のとおりである。本件は、いわゆる松川事件として一審以来被告人らの冤罪であることが強く主張され、第一、二審を通じて事実認定の問題に懸命な努力が傾倒され来たつたところで、これらの経緯にかんがみれば、法律審たることを本来の職能とする当審ではあるが、最終審として調査の重点を原判決の事実認定上の誤認の有無に指向せざるを得なかつたところである。そして調査の結果は、原判決は、本件の全体的評価に影響を及ぼすような重大な事実の誤認があるとはいえず、これを破棄しなければ著しく正義に反する事由ある場合にも当らないとすることが自分の断案であつて、多数意見に対しては田中裁判官の、法律問題及び事実問題については垂水裁判官の各意見に同調する。

以下に記述するところは、多数意見に対しての自分の補足的批判である。一、本件のように、数人が共同して犯罪を実行したとされている共同正犯の案件においては、実行正犯が実行行為それ自体から認定されるべきであることは、いうをまたないところであるが、このことは、実行正犯以外に、その犯罪を実行するに至らしめたいわゆる共謀共同正犯があるものとされている場合においても異なるところはない。けだし、共謀共同正犯といつても、それは実行正犯なくしては問題とならない性質のものであると共に、実行正犯は、共謀共同正犯関係の如何にかかわらず常に認定の対象とされるべきものであるからである。従つて、本件においても、まず、判断の重点は、原判決挙示の証拠から判示のような実行正犯が認められるかどうかの認定の当否に指向されなければならないところであつて、このことは、独り本件の場合に限らず、共同正犯関係の案件における事実認定の当否を判断するについての常道である。

従つて、多数意見のように、本件においては、共謀共同正犯として共同正犯の罪責を負うべき者があるからとか、殊に、いわゆる二つの連絡謀議が国鉄側とA2側とを結びつける枢軸の関係にあるからとかの理由のみで職権調査の対象をこの点に限局することは、異例の判断方式というべきであつて、本件の経緯と思い合せてみると、多数意見に他意のないことを信じつつも、なお、あまりにも安易な取扱い方であるとの感想を拭い去ることができない。二、ひるがえつて、上告審として原審のした事実認定の当否を判断するにつき過程すべき思考作用を考えてみると、証拠の標目として掲げられている各証拠から本件事実の各段階に応じて認定の当否を判断して行くだけではなく、前後の段階を通じての判断もして行かなければならないのであつて、紆余曲折はあつても、その間に形成された事実全体にわたる綜合判断の上に立つて評価がなされるべきである。そして、この立場から原判決をみると、なるほど罪となるべき事実として人為的列車顛覆事故の企図ないし謀議から実行に至る各段階毎に証拠が挙示されてはいるが、それは、各段階毎にそれだけの証拠で心証を得たことを示したものではないことは、証拠の標目を掲げた結句として『以上の各証拠及びこれによつて認め得る事実を綜合すれば、各判示事実は、すべてこれを認めることができる』と結んでいることからみても明らかであつて、すなわち、原審のした事実認定それ自体が、右に述べたような綜合判断に基いての評価がなされるべきことを要請していると考える。

とすれば、多数意見のように、本件における八月一五日及び一六日の二つの連絡謀議をもつて国鉄側のみの謀議とA2側のみの謀議とを結びつける枢軸だとする観点から、この連絡謀議の存否は、おのずからその余の謀議、ひいては本件事案の全般的な構造にまで影響を及ぼすほど重要なものとみざるを得ないとして、原判決の認定した二つの連絡謀議についてのみ検討を加えるだけで足りるものとし、結論として、『原判決がその挙示の証拠によつて右の連絡謀議の存否を肯定したことには疑問があつて、国鉄側とA2側との連絡は、断ち切られることにならざるを得ない』とすると共に、『このことは、おのずから国鉄側のみの謀議やA2側のみの謀議や実行行為等を含めての本件事実全体の認定にまで影響を及ぼすものと考えざるを得ない』とすることは、原判決の事実認定の当否を判断するに当つて過程すべき思考作用を無視又は閑却したものであつて、折角、職権をもつて原判決の事実の認定に誤りがないかどうかを検討するとしながら、調査の焦点を、いわゆる二つの連絡謀議の存否にのみ限局したことは、職権調査をつくさないものというの外はない。三、本件は、いうまでもなく被告人らが列車の脱線顛覆に参加したとされている集団犯罪の案件である。そして、これらの参加者の間に行われたものとされている謀議にしても、集団犯罪にしばしば見られるように定型のないもので、しかも隠微のうちに行われ、回数的にも不定(必ずしも一回又は二回とは限らない)のものであつたことが窺われるところである。そこで、このような案件においては、謀議に関する訴因の記載も、法律の要求する最少限度を目安とすることとなる。この意味において本件の場合にも、いわゆる連絡謀議に関する訴因の記載は、これを限定的意義をもつものと解すべきではない。

しかるに、多数意見は前記のとおり、いわゆる二つの連絡謀議をもつて国鉄側とA2側とを結びつける枢軸であるとし、この枢軸の存在に疑いがある以上双方の連絡は断ち切られざるを得ないとする。もとより「枢軸」というのは、本件のような集団犯罪における謀議の過程に行われる連絡行動を重視するの余り、車の心棒にたとえた比喩ではあろうが、連絡行動を評価する言葉として適切でないばかりでなく、その由て来たるところは、訴因の記載を限定的意義に解しようどする当然の帰結というの外はない。

もつとも、自分のように、いわゆる連絡謀議に関する訴因の記載を限定的意義をもつものと解すべきでないからといつても、訴因として示された連絡謀議の事実の存在に証拠上疑いがある場合にも、なお、原審で綜合判断の対象とされている他の証拠によれば、連絡謀議が行われたとされている同じ日頃に国鉄側とA2側との間に何らかの連絡謀議の行われたことを認定することができるものとすることは、訴因制度に存する制約から許されないところであろう。このことは、上告審たる当審としては、訴因に示されなかつたような事実を新らしく認定すべきものでないとする多数意見をまつまでもないところである。

しかし、本件において訴因として示された国鉄側とA2側との連絡謀議は、多数意見のように、八月一五日正午頃からのA15の参加によるものと、その翌日午後九時頃からのA5の参加によるものとの二回だけと見ることは、本件実行行為に着手する直前に行われた連絡謀議の事実を無視又は看過したものである。この事実は、訴因として、国鉄側のA12、A13、A4の三名及びA2側のA15、A19の二名が八月一七日午前二時頃から東北本線松川駅金谷川駅間の東京基点二六一粁二五九米附近のカーブになつている地点においてバールとスパナを使用して本件実行行為をしたことが記載されているところに黙示されているのであるし、原判示罪となるべき事実の第四は、このことを一層明確にしているのである。

すなわち、原判示第四の事実は、証拠能力があり且つ適法な証拠調によるいわゆる厳格な証明があつたものとして十分に肯認することができるものであるところ、その判示によれば、A2側のA15は、八月一七日午前一時半頃A19と共に本件バールとスパナを携え、松川労組事務所を出発して東北本線の線路伝いに列車顛覆作業の予定現場に向つて進み、一方、国鉄側のA12、A13及び赤岡の三名は、同夜(一六日夜)午後一二時頃福島市伏拝A9材木店附近材木置場の傍らで落ち合い、直ちに同所を出発、判示経路を通つて列車顛覆作業を行う予定現場に到着したが、まだ、A2側の者が来ていなかつたので更に線路伝いに松川駅の方に向つて進み、同駅上り遠方信号機の少し手前まで行つたところで、右のようにバールとスパナを携えて進んで来たA15及びA19に出会うことができ、このようにして落ち会つたA15、A19、A12、A13及びA4の五名は、直ちに線路伝いに進んで一七日午前二時頃右の予定現場に到着、少憩の後、バールとスパナを用い共同して列車顛覆作業を実行しているのであつて、右のように国鉄側の三名とA2側の二名が落ち合つて行動を共にした事実は、本件が刑法一二六条三項、一項の罪に該当する事犯であつて講学上のいわゆる同時犯をもつて律し得ない罪質からいつても、そこに連絡謀議の存在を明示しているものといわなければならない。そして、このことは、当審において新らしい事実を認定するのでも何でもなく、訴因においても原判示においても、便宜上実行段階に包括されているに過ぎないのである。従つて多数意見のように、いわゆる二つの連絡謀議の存在に疑いがあるという理由のみで、直ちに破棄差戻の結論が打ち出されるべき筋合ではない。

四、仮りに多数意見において疑問とされる二つの連絡謀議を除外するとしても、原審認定のとおり本件犯行が、国鉄側でこれを企図してA2側を引き入れA2側もこれに応じ共同して実行されたものであつて、国鉄側にしても、A2側にしても、いずれもその目的遂行のために結合したグループ(集団)であること、そして国鉄側においては、八月一五日午前一一時頃からA4を加えてA2側に連絡協力を求めることを含めての謀議を行つたこと、A2側においては、同月一六日午後九時半頃がら国鉄側からの右連絡のあつたことを前提として謀議を行い、その謀議に基いて同夜一〇時半頃松川駅構内福島保線区松川線路班倉庫器具置場からバール及び自在スパナ各一挺を取り出して準備をととのえたことは、原判決挙示の証拠によつて十分肯認できるところであるし、前記の如く、八月一七日午前一時半過ぎ頃国鉄側の三名とA2側の二名が松川駅上り遠方信号機附近線路上で落ち合つて連絡の上共同して本件犯行を実行するに至つた全経過からみると、原判決は、A5以外の被告人らに関しては、事件の全体的評価に影響を及ぼす重大な事実誤認があるものとはいえず、況んや、これを破棄しなければ著しく正義に反する場合に当らないものというべきである。

指折り数えてみると、本件は、当審に繋属して以来五年余を経過し、事件当初からは、すでに一〇年の歳月が流れている。一切の事情を考慮しても、破棄差戻の判決をなすべき案件ではない。自分は、この際、本件に終止符を打つことが、当審としてなすべき適正な裁断であることを疑わない。

裁判官A13潔の反対意見は次のとおりである。

(一)、昭和二四年八月一五日午前一一時頃、国鉄側被告人A9、同A10、同A11、同A12、同A4の五名はA3労組福島支部事務所において会合して、翌一六日夜から一七日未明にかけて松川駅と金谷川駅との間のカーブのところで夜行列車を脱線顛覆させること、その実行行為に赴く者は国鉄側からは被告人A12、同A13、同A4の三名とし、A2側から二、三名来て貰うこと、脱線作業に用いる道具はA2側の者に頼んで松川線路班倉庫から予定の現場に持つてきて貰うことなどを申合せ、なお被告人A12と同A4は実行に赴く際の集合時刻、集合場所について打合せをした事実。(原判示第三、(一)の事実)

(二)、同月一六日午後九時半頃、A2側被告人A14、同A16、同A15、同A17、同A19、同A20、同A21、同A22の八名は八坂寮組会室において会合して、被告人A20、同A21、同A22の三名は同夜松川線路班倉庫からバール一挺、スパナ一挺を持出してくること、被告人A15、同A19の両名はそのバールとスパナを持参して午前二時頃までに脱線顛覆作業の予定現場に赴くことなどの申合せをした事実。(原判示第三、(四)の事実)

(三)、国鉄側被告人A12、同A13、同A4の三名は予定の集合時刻である同月一六日午後一二時頃予定の集会場所で落合い、直ちに同所を出発し、やがて列車脱線顛覆作業を行う予定の現場であるカーブ地点に到着したところ、A2側の者はまだそこに来ていなかつたので、更に鉄道線路を松川駅の方向に向つて進んで行つたら、同駅上り遠方信号機の少し手前のところで、バールとスパナを持つて鉄道線路を歩いてくるA2側被告人A15、同A19の両名に出会つた。そこで国鉄側被告人三名はA2側被告人両名と連れだつて作業予定現場のカーブ地点に引返えし、右被告人五名は協力して一七日午前二時頃からバールとスパナを用いて列車脱線作業を始め、二〇数分間、継目板の取外し、犬釘やチヨツク木の抜取りなどの作業をし、列車の脱線顛覆をひき起こすに十分であることを見極めて一同現場を引揚げた。そして、これによつて同日午前三時九分頃本件列車顛覆事故が起つて乗務員三名が死亡した事実。(原判示第四の事実)

以上の事実は、原判決が挙示の証拠によつて適法に認定した事実であり、そしてまた原判決挙示の証拠によれば優に肯認できる事実であつて合理的な疑をさしはさむ余地のない事実である。しかも、多数意見がその信憑性に疑があるとする被告人A16の自白調書、同A20の自白調書、同A5の自認調書を証拠資料に供することなく、その他の原判決挙示の証拠だけで肯認できる事実であり、また当裁判所の領置したいわゆる「諏訪メモ」の存否によつても左右されることなく肯認できる事実なのである。

思うに、以上の原判示事実の存在が明白であつてその存在に合理的な疑を容れる余地がないのであるから、これらの事実から推理して本件列車顛覆事件は、前示国鉄側被告人らと前示A2側被告人らとの間の話合い(いわゆる意思連絡)の下にひき起こされたものと判断するのに、普通人の常識をもつておる者であれば誰人も躊躇しないであろう。いいかえると、これら原判示事実から、本件列車顛覆事件は前示国鉄側被告人らと前示A2側被告人らとの間の意思連絡(共謀共同正犯のいわゆる共同謀議)の下にひき起こされたことを推認することは、われわれの実験則に照らして至極自然なことであつてわれわれの健全な常識に妥当することであり、またその間の推理過程にも何ら論理上の矛盾もないのである。つぎに、裁判における証明は、歴史的証明で足りるのであつて科学的論理的証明と異ることに思ひをいたすときは、これら原判示事実から意思連絡の事実を推認することによつて、本件列車顛覆事件は前示国鉄側被告人らと前示A2側被告人らとの間の共同謀議に基いてひき起こされた旨の原判示事実を是認することは、上告審たる当審の権限内の事項でありしかも自ら進んでなすべき義務に属する事項であると解するのは、刑罰法令を適正、迅速に適用実現することを目的とする司法裁判の本質上合理的であり正当である。このような意思連絡の事実を推認をすることによつて右記原判示事実を是認することは、原判決の認定しなかつた共同謀議の事実を当審において自ら新たに認定することになり上告審たる当審としてはなすべきことでないとする見解には、首肯するに足る合理的な理論上の根拠はないし、実務上は甚だしく適正妥当を欠き失当な見解である。訴訟経済、訴訟促進の観点だけから考えても、訴訟の遅延を来たすことは明白であつて訴訟促進の趣旨に全く反するし、下級審の裁判官にいたずらに過大な負担をになわせることになり、実務上百害あつて一利のない見解である。元来、共謀共同正犯は、共謀者が共同意思の下に一体となつて、互に他人の行為を利用してその意思を実行に移すものであつて、共謀者が意思連絡の下に犯罪の実行を決定し、その意思決定(共同意思)に基いて犯罪が実行された事実が、厳格な証拠によつて認められれば、犯罪構成要件たる事実の認定としてはそれで足りるのである。共同謀議は、対談に限らず電話、手紙、街頭連絡などいろいろの隠密な手段方法でなされるのであるが、そのいずれの場合でも、その日時、場所、詳細な謀議の内容などが一々具体的に証明されることは犯罪構成要件としては必ずしも必要でない。だから、前示原判示事実(二個の共同謀議の事実と実行行為)から推認して国鉄側とA2側との意思連絡の事実の存在を認めて原判決を是認しても、共同謀議の事実認定として妥当を欠くものとすることはできない。故に、本件において、被告人A12、同A13、同A4、同A15、同A19に対しては実行者としての罪責を、被告人A9、同A10、同A11、同A14、同A16、同A17、同A20、同A21、同A22に対しては共謀者としての罪責を、それぞれ認めた原判決には、結局、刑訴四一一条三号の事実誤認の疑がないと判断するのは正当である。しかるに、多数意見は、被告人A16、同A20の各自白、同A5の自認の信憑性にいずれも疑があり、従つて、原判示第三、(二)(A15参加の連絡謀議)、同、(三)(A5参加の連絡謀議)の事実の存在に疑があるとし、それだから国鉄側とA2側との連絡は断ち切れることにならざるを得ないと断定し、冒頭に示した疑を容れる余地のない原判示事実(二個の共同謀議の事実と実行行為)については全く目を閉じて、これら原判示事実については何ら判断を加えることなく、たやすく刑訴四一一条三号、同四一三条本文を適用して原判決を全部破棄して差戻すべきものとする。多数意見のこの見解は、原判決の判文の表面にとらわれて鹿を追う猟師山を見ずとの諺のように原判決の全貌と真相を見失い原判決の全趣旨を没却することに帰し、なお当裁判所の職責にも副わないもので、かつ、ただいたずらに訴訟を遅延させるに過ぎないから到底承服できかねる。

その他の点については、裁判官田中耕太郎、同垂水克己の反対意見に同調する。

裁判官下飯坂潤夫の反対意見は次のとおりである。

私は原判示の本件犯罪事実は大別して二つの部分から構成されているものと考える。一つは共同謀議であり、他の一つは実行行為である。A18両被告のアリバイ工作の点は前者に、バール、スパナ盗み出しの件は後者に、それぞれ包含させて然るべきものと考える。私は本事案の検討については、先ず実行行為の点を取り上ぐべきものと考えるのである。何んとなれば、実行行為がなければ共同謀議も論ずるに値しないし、実行行為を考慮の外において、共同謀議のみを論議することは殆んど無益に近いからである。従つて私は共同謀議が認められない場合でも、実行行為の点は当然に審議さるべきものと考える。われわれが実務上往々経験するところの教唆と実行正犯との関係において教唆の点に疑があるからといつて、実行正犯の点を審議の線から外すということがあるであろうか。本事案における共同謀議と実行正犯との関係は筋道において教唆と実行正犯との関係と何ら異るところはないのである。

そこで、私は多数意見のように共同謀議の点に疑があるという立場に立つても、実行行為の点は詮議さるべきものだと信ずるのである。

云うまでもなく、最高裁判所に対する刑事事件の上告は刑訴四〇五条によつて制約されている。すなわち右上告は原判決が

(一) 憲法に違反するか又は憲法の解釈に誤りがあること、

(二) 最高裁判所の判例(大審院もしくは同条三号にいう高等裁判所の判例を含む)と相反する判断をしたこと、のみを理由とすることが出来る建前となつているのである。従つて原判決が単に法令に違反するとか、刑の量定が不当であるとか、あるいは事実の誤認があるとか、いう事由を以てしては、上告は出来ないこととなつており、そのような事由は上告理由としては成り立たないことになつているのである。故に最高裁判所は刑事事件の上告に関しては刑訴四〇五条の定める上告理由があるかどうかを審査するを以て足り、それ以上に及ぶ必要はないのである。しかし、法は裁判に過誤なからしめ、その万全を期する意味合いからして、最高裁判所においても

(一) 判決に影響を及ぼすべき法令の違反がないかどうか、

(二) 刑の量定が甚しく不当でないかどうか、

(三) 判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認がないかどうか、

(四) 再審の請求が出来る場合に当る事由がないかどうか、

(五) (省略)、について審査をすることが出来ることになつているのである。 (刑訴四一一条)しかし、右刑訴四一一条は前示の諸点に関し最高裁判所に職権調査の発動を促すだけのものであつて、最高裁判所はそのような調査を必ずしなければならないわけのものではなく、しかもその調査といつても、記録を照査して為すだけのことであつて、下級裁判所の為すような事実の取調は許されていないのである。刑事上告審の性格というものは実にそのような制約付きのものであつて、その枠をいささかも踏み出ることの出来ないものなのである。本件上告事案といえども固よりその例外たり得るものではない。こんなことは判り切つたことではあるが、本件のもつ社会的評価に鑑み且つただ漠然とわれわれに無罪判決を要請する向きに、念の為め一言しておく次第である。

さて、本件上告論旨はぼう大、広汎且つ多岐に亘つているが、それ等の論旨は果して刑訴四〇五条の上告理由に当るかどうか。当るとしても採用さるべきものであるかどうか、そして又、同法四一一条を適用すべきであるかどうか、私の立場からして、それらの論旨は、これを原判示の実行行為の点に限局して以下順次検討、吟味をつくしたいと思う。(甲)刑訴四〇五条の上告理由があるかどうか。

第一憲法違反の論旨について

この論旨の中には、実質的には事実誤認、単なる法令(訴訟法を含む)違反、量刑不当の主張を出でないものがかなりあるのであつて、かような上告論旨は刑訴四〇五条の上告理由に当らないのである。また、かくかくの事実であるが故に、違憲判決であるという主張の中には、その前提たる事実が土台、認められないものもある。このような違憲主張は結局その前提を欠き刑訴四〇五条の上告理由に当らないとすべきである。

ともあれ、判示実行行為に関係ある違憲論旨は次の如きものである。

(1) 原審裁判官の定め方の違憲論(憲法三七条一項)、

(2) 公判廷外の書証のみによる認定の公開原則違反論(憲法三七条、八二条)、

(3) 共犯容疑者の証人尋問調書を証拠とすることの違憲論(憲法三一条、三八条)、

(4) 刑訴二二七条、三二一条一項一号後段の違憲論(憲法三一条、三七条二項)、

(5) 共犯容疑者の自白の補強力否定論および補強証拠の不足論(憲法三八条三項)、

(6) 刑訴三九条の接見交通権を侵害したことの違憲論と弁護人の接見内容の証拠能力否定論(憲法三四条、三七条三項)、

(7) 原判決憲法七六条三項違反論、

(8) 原判決政治的傾向裁判論(憲法一四条一項、一九条、二一条一項、二八条一項、七六条三項)、

(9) 各自白の任意性否定論(憲法三八条二項)、

(10) 原判決公開原則違反論(憲法三七条一項、八二条一項)、

よつて、以下右各論旨について順次検討説明を加える。

(1) 原審裁判官の定め方の違憲論について。(憲法三七条)この主張の理由のないことについては垂水反対意見をここに援用する。

(2) 公判廷外の書証のみによる認定の公開原則違反論について。(憲法三七条、八二条)論旨は原判決は公判証言を無視し、公判廷外の供述、殊に捜査官に対する自白(調書)に依拠して裁判をしたもので、憲法の保障する裁判公開の原則に反するとの主張である。

しかし原判決は公判廷外の供述だけで、裁判しているものではない。すなわち、原審はA12、A13各被告のアリバイ排斥にあたりA117の一、二審公判における証言を採用し、証拠品のバール、スパナが松川線路班に属するものであることはA73、A72の一、二審公判廷の証言で認定し、A13の身体障碍、継目板、犬釘の取り外し、抜き取りについては、それぞれ鑑定を徴し、その鑑定人を公判に召喚尋問し、その結果を採用しているのである。尤も、判示実行行為の認定の主たる資料とされているものが、A4、A19ら被告の各自白(調書)であることは否定できないところであるが、それらの調書はいずれも、公判廷において証拠調をされ、被告らに防禦の機会を与えられていることは記録上明らかであるから右各自白(調書)を証拠に供したからといつて憲法の保障する公開原則に反するものとはいい難い。(昭和二三年七月一九日大法廷判決刑集二巻八号九五二頁、同二四年五月一八日大法廷判決刑集三巻六号七八九頁、同二五年九月二七日大法廷判決刑集四巻九号一七七四頁、同三一年一二月二六日大法廷判決刑集一〇巻一二号一七四六頁参照)そして公判廷外の供述と公判廷の供述と、いずれを信用するかは事実認定裁判官の自由な評価に委せられているのであつて公判廷の供述だからといつて、必ずしもこれを措信し採用しなければならないわけのものではないのである。(自由心証主義)所論は全く独自の見解に属し、採るを得ない。

(3) 共犯容疑者の証人尋問調書を証拠とすることの違憲論について。(憲法三一条、三八条)。

所論は、第一審は共犯関係の共同被告人たるA4被告らを証人として尋問し、同被告人らが刑訴二二七条によつて取調をうけた証人尋問調書を証拠として有罪判決を言渡し、原審も、これらの調書を証拠として有罪を宣告したが、このようなことは憲法三八条一項の保障する基本的人権を侵害するものであつて、憲法違反であるというのである。

しかし、共犯容疑者といえども証人適格を有することは当裁判所の既に判例とするところであつて(昭和二九年六月三日第一小法廷判決刑集八巻六号八〇二頁以下参照)今これを変更する根拠も必要も見い出し得ない。尤も、共犯容疑者が証人として取り調べられる場合、証言を拒否しようとすればその事由を示さなければならないが(刑訴一四六条、刑訴規則一二二条一項)、その事由は単に抽象的に示すを以て足りることになつているのであるから、共犯容疑者が証言拒否事由を示すことになつているからといつて、それが為め直ちに不利益な供述を強要されるものとは言えず、従つて憲法三八条一項の保障する黙秘権を侵害することになるわけのものではない。

(4) 刑訴二二七条、三二一条一項一号後段の違憲論について。(憲法三一条、三七条二項)

所論は刑訴法の右規定の憲法三一条、三七条二項違反をいうものである。

しかし、刑訴二二七条、二二三条一項の第三者には共犯容疑者をも含むものと解されるし(昭和三三年五月二八日大法廷判決集一二巻八号一七一八頁参照)、共犯容疑者といえども証人適格を有することは前記のとおり当裁判所の判例とするところである。所論違憲の主張の採用し難いことは、当裁判所昭和二五年一〇月四日大法廷決定刑集四巻一〇号一八六六頁、前示昭和二四年五月一八日大法廷判決の趣旨からも窺われるとおりである。

(5) 共犯容疑者の自白の補強力否定論および補強証拠の不足論について。(憲法三八条三項)

論旨は、共犯者の自白も本人の自白であり、一つの自白であるから、共犯者の自白で本人の自白を補強するというが如きことは無意味であり、憲法三八条三項の許さないところであるといい、且つ本件における補強証拠の不足をも主張するものである。

しかし、「共同審理を受けていない単なる共犯者は勿論、共同審理を受けている共犯者(共同被告人)であつても、被告人本人との関係においては被告人以外の者であつて、かかる共犯者又は共同被告人の犯罪事実に関する供述は憲法三八条二項の如き証拠能力を有しないものでない限り、独立、完全な証明力を有し、憲法三八条三項にいわゆる本人の自白と同一視し又はこれに準ずるものではない。」ことは、前示昭和三三年五月二八日大法廷判決が正当に判示しているとおりである。のみならず、本件では実行行為(線路破壊作業とバール、スパナの持出し)に関する限り、A4被告らの自白を補強するに十分な証拠が数多く存する。例えば、A4被告の実行行為えの参加についてはいわゆるA4予言に関する一審一五回公判におけるA70証言、一審一六回公判におけるA119証言、A70、A71の一〇月一九日付猪狩(裁判官)調書、A4被告の祖母赤間A43のA4の帰宅時間の不知についての検事調書(九月二六日付A26調書)、A4被告が当夜虚空蔵祭礼から帰つた時刻についての一審一六回公判におけるA110証言等の裏付けがあり、バール、スバナの盗み出しについては二審二〇回公判におけるA73、A72の各証言及び証拠品たるバール、スパナの存在という裏付証拠があり、線路破壊作業現場への往復については一審一四回公判における機関士108及び農夫A116の各証言の裏付け証拠があつて、実行行為と被告人らとの結びつきまで十分証明されている。従つて、実行行為の認定に関する限り、原判決に憲法三八条三項違反があるとは、到底いえないのである。

(6) 刑訴三九条の接見交通権を侵害したことの違憲論と弁護人の接見内容の証拠能力否定論について。(憲法三四条、三七条三項)

論旨は、憲法三四条は憲法三七条三項との関係で、身体を拘束された被疑者の弁護人選任権、その弁護権、刑訴三九条の被疑者との接見交通権を保障した規定であると解すべきものであるところ、原判決は、本件において捜査当局がA21、A19各被告らのA83法曹団の弁護士を弁護人に選任することを妨害し、A24弁護人のA19被告に対する面会、梨木弁護人のA21被告に対する面会を各妨害し、A4被告と大塚弁護人との接見についても、警察署長が強制的に立会つたことを正当化し、あまつさえA24、大塚両弁護人がA19、A21、A20各被告の勾留理由開示に際し同人らと面会した時、これに立会つてその会話の内容を盗聴した巡査部長A95の一審一七回公判における証言を採用して右被告らの自白の任意性を認める根拠の一つとしているが、このようなことは憲法三四条の法意を蹂りんしたもので違憲であるというのである。

しかし記録を精査するに、捜査当局が法曹団に対し多少の警戒心を抱いていたことは窺い得ても、右被告らの弁護士の選任の妨害までしたということは確認出来ない。また、右弁護士らにおいて右被告らになかなか会えなかつたという事実は推測されても、当局が刑訴三九条の法意に反してまでも、接見を制限し、または妨害したというような事実は認められない。更らにまた、弁護人とA4との接見に警察官が立会つたといつても、A4及び弁護人がこれに了解を与えていたことは一審七〇回公判において証人A120の明確に供述しているところである。論旨は勾留理由開示の控室での出来事を云々するが、この控室には接見の設備がなかつたのであるから、刑訴三九条二項、刑訴規則三〇条の規定により、逃亡罪証湮滅及び戒護に支障ある物の授受を防ぐため立会人を置くことが出来るものと解すべきであつて、巡査部長A95がこれに立会つたことは何等差支なかつたわけである。そして右立会人は特に被告人と弁護人間の会話の内容を進んで聴取しようとしたものではなく、弁護人も戒護に同意しその場所はこの辺でよいと指定されて戒護に従事中、たまたま耳に入つた断片的な供述を証言したのであり(一審一七回公判における証人A95の尋問調書参照)、任意性の判断はいわゆる自由な証明で足りるから、このように、看守がたまたま聞知した事柄の証言をもつて自白の任意性を確める一つの証拠に供することは何ら妨ない筈である。さすれば、本論旨はその前提たる事実を欠如するか、或はその事実が違法を以て咎むべき筋合のものではないから、すべて採用することのできないことが明らかである。

(7) 原判決憲法七六条三項違反論について。

所論主張はいろいろな表現でなされているが、その言わんとするところの要点は次の如きものであると思われる。すなわち、原判決には単に事実誤認や採証法則違反という欠点があるというだけのものではなく、そうした善意の過失で悪意と詐術が包蔵されているのであつて、右は原審裁判官の労働階級とその運動に対する偏見から生ずる予断の所産外ならず、斯くの如きは人類の良心に挑戦するものであつて、正に憲法七六条三項にいわゆる良心に従つて為された裁判ならず、斯くの如きは人類の良心に挑戦するものであつて、正に憲法七六条三項にいわゆる良心に従つて為された裁判というには程遠いものであるというのである。

しかし原判決を熟読し且つ記録を丹念に調べてみても、原審裁判官が所論のように偏見、予断を抱き所論のような悪意と詐術を以て審理且つ判断したというような事跡は微塵も認められないのである。なるほど原判決には用語の生硬さ、廻りくどさ、あらずもがなの無用な表現など認められないわけでもない。がしかし原審裁判官は終始事件と真剣に取組み、事態の真相を見きわめるべく、凝視に凝視を重ね、一心不乱に努力した節こそ認め得られても、その間に所論のような偏見や悪意のあつたことなどは更らさら認めることができないのである。いつたい、憲法七六条三項にいわゆる良心に従つた裁判とはどんなことを言うのであろうか、私の理解するところでは、裁判官が威力や圧迫や、誘惑に屈しないで、ありの儘に事実を認め、これに良識に基いて解釈した法令を適用することであると思う。(昭和三二年三月一三日大法廷判決刑集一一巻三号九九七頁以下参照)。裁判官というものは、何よりも先ず争ある事実をありの儘に認めなければならない(実体的真実発見主義)。例えば何年何月何日何時頃、何処そこに雨が降つたという事実があつたとする。それが審理の対象となつたならば、その時刻に雨が降らなかつた、あるいは雪が降つたとは認定できないのである。それが裁判官の最大の任務であり、裁判官に対する至上命令とでもいうべきであろう。そこに裁判の本道があり、裁判官の良心の発露があるわけである。所論は本件において原審裁判官はそうした本道を故意に踏み外したとでもいうのであろうか、独自の世界観から発する見方の相違というものでもあろうけれども、私見を以てすれば、論旨は全くの言いががりというを憚らない。(8)原判決政治的傾向裁判論について。

この点もいろいろな表現で主張されているが、その要点とするところは次ぎの如きものであると解される。すなわち、原判決は一方において警察官検察官および裁判官のために、証拠の煙滅、自白強要等の事実について、あらゆる証拠を不合理且つ有利に解釈することによつて、これを庇うと同時に、他方において政府および資本家の首切政策に同調しない労働組合の活動家たる被告人らのために、あらゆる供述を不合理且つ不利に解釈することによつて、被告人らを有罪としたのは、いわゆる傾向裁判であつて、憲法一四条一項、一九条、二一条一項、二八条、三七条一項、七六条三項に違反するというのである。

しかし所論前段の一部は、検察官の継目板あるいはいわゆる諏訪メモの不提出に関連して、裁判官にも不都合があつたが如く難詰するもののようであるが、右証拠品の不提出について捜査当局にどんな内状が伏在していたにもせよ、またどんな不手際があつたにもせよ、原審裁判官がその不提出に協力し、あるいは捜査当局を庇つたというような事跡は、記録上、証左のかけらすらもないのであり、また、原審裁判官が政府および資本家のため所論の如き立場にあつた被告人らに対し故意に証拠を不合理且つ不利に解釈したというようなことはこれまた記録上何らの証拠がないのである。所論はすべて採用に値しない。(9) 各自白の任意性否定論について。(憲法三八条二項)

所論はA4、A19、A21、A20、A22各被告の捜査の段階における自白は取調官の拷問、脅迫、強制、誘導、詐術等によるもので任意性を欠き、憲法三八条二項違反の自白であるから、これを証拠として採用した原判決は違憲であるというのである。

本件捜査段階における右被告人らの各自白は本件実行行為の認定に重要な証拠とされているのであるが、それらの自白が拷問脅迫強制等による虚偽且つ不任意なものであつて、証拠とすべからざるものであるとは、上告人らの第一審以来極力抗争するところであり、本事件の攻防もほとんどこの点に集中されていると云つても過言ではない。

原判決は右被告人らの自白に対し慎重綿密な調査を遂げ、これが任意性を肯定しているのであるが、その基調をなすものは次のような考え方である。(イ)身体の拘束が、法の認める範囲内のもので且つ不当に長期に亘らない限り、これに必然的に伴う肉体的精神的苦痛は強制とは言い難い。(ロ)健康に有害な影響を及ぼさないことを条件として、ある程度夜間に亘つて取調べることも許さるべきである。(ハ)法の認める範囲内では、接見又は書類あるいは物の授受の禁止も止むを得ない。(ニ)弁護人又は弁護人たらんとする者との接見の制限も法の認める範囲内ならば許さるべきである。(ホ)合理的資料を基礎とするなら、ある程度追及的に取調べることも是認さるべきである。(ヘ)自白すれば起訴しないとか、その他有利な措置をとるべきことの約束を以て自白を要求することは許されないが、道理又は人倫を説いて悔悟反省を促し、以て自白すべきか否かの意思決定の参考に資することは差支ない。(ト)以上のような措置には自ら合理的な限界があり、殊に人権保障の憲法の精神に反しないよう戒心すべきである。というのである。私も以上の見解を相当と考える。

そこで私もこれを立論の前提として、右被告人らの各自白が任意性を欠くものであるかどうかを、この点に関する論旨を十分に考察しつつ、記録を具さに調査してみたが、右任意性を欠くことを首肯させるに十分な事跡は遂に見出すことができなかつたのである。この点の詳細については垂水反対意見を援用するが、しかしこの点は本件実行行為の認定に最大な関係を有するものであるが故に、以下に若干の考察を附加することとする。

(一) A4自白について

警察におけるA4の取調べが苛酷で且強制的であつたとは第一審以来同被告の訴えて止まないところである。記録によれば、その取調にあたつたA62にいささか、強引な点があり又同じくA98部長に粗野な言動がないでもなかつたようにも認められるが、さればといつて、警察における取調べがA4の供述するように苛酷極まるものであり連日長時間深夜に及んだというようなことは、A4の供述以外にこれを確め得べき証拠はなく、右A4の供述は以下に摘記する証拠と対照し、到底措信し難い。すなわち一審二五回公判における証人A82は次の如く証言しているのである、「私は昭和二十二年九月十五日に保原地区警察署長になりました、本件の被告人A4が同警察署に留置されていたことがあります、それは九月二十一日から十一月三十日まで留置されていたと記憶して居ります、A4君は松川の列車顛覆事件の容疑者として勾留されて居りました、A4君が保原地区警察署に勾留されたのは代用監獄としての同署に勾留されていたのです、保原地区警察署に勾留中のA4君の態度は極めて重荷を下したような態度でした、言葉を変えて言いますと改悛の情が顕著であり又素直でさつぱりした態度でした、表情はさつぱりした気持で時々心配する様な様子も見えましたが平均して明朗でした、A4君が勾留されている間私は同人を取調べたことは全然ありません、私以外の同警察署署員は一名も同人を取調した者はないと思います、A4君は取調状況について私に話したことがあります、A4君は保原署に来て二、三日過ぎた頃と思いますが、同人とは何回も何回も会つているので日時の点はよく判りませんが同人と会つた時どうも清々したと自分の方から間かないことまで言いますので私は何だねと言つて聞いて見ますと同人はすつかり申上げてさつぱりした、これからは改悛して真人間になる、それから列車を引繰返してからは何時警察に捕るかと思つてびくびくしていたが本当のことを申上げて清清した、今度は真人聞になる等と雑談的に言つて居たことがあります、A4君は私に対して警察官、検察官、裁判官に対して嘘の陳述をしたのだ等と言つたことは一度も聞いて居りません、其の様なことでなくA4君は警察官、検察官、裁判官にすつかり本当のことを申上げた、そしてそれ等の人達に御願いして同情をして貰い少しでも刑を軽くして貰つて一日も早く世の中に出ると言う趣旨のことを言つたことを聞いて居ります、」云々。また、同日の公判における証人A84は次の如く述べているのである。「私は昭和二四年二月一二日から保原地区警察署に勤務して居りました、A4が同署に勾留された当時私はA4を取調べたことはありません、A4が私共のところへ参りまして一日二日は何かうかうかしておりましたがその後は、至つて明朗になりました。A4の勾留中昭和二四年一一月二八日かと思いますが、その日の零時三〇分から午後一時までの間に兄の赤間A85と面接した際立会いました、そのときのことを大体記憶しておりますが、兄のA85はA4にこの事件では党の金が〇〇〇円かかるのだと申したところ、A4はいくらかかつたとて、俺には関係がないと答えました、するとA85はいや関係ある、お前に差入れたたばこも党から出ておるのだ、又資金カンパして出されたものもある、お前は自分さえよければよいのでは困ると言つたのです、それでA4は然し自分は党のために犠牲になることは出来ない、やつたことはやつたという外はないと答えました、」云々。さらに又A92は一審二七回公判において次の如く証言しているのである、「私は法務府事務官で福島拘置支部に勤務しておりました、被告人A4は昭和二四年一二月一日同支所に入つて参りましたが、同日A4と同人の兄A85との接見に立会いました、その際二人の間に交された話は大体記憶しておりますが、その内容は差入れのこと、友人や父母に返信のことそれに弁護人選任のことでありました、それから心境についても話がありましたが、A4被告は今迄のが大体本当だ、兄さんは党員だが、自分は同じ兄弟でありながら気持は違う、自分は自分でどこまでも闘う、三鷹事件のA91被告のそれのようにはならない、自分一人背負ふようなことはしない、公判廷では堂々と斗う、また黙つているかも知れません、と、云いました、(中略)現在は別のところに居るのではないが、別のところがよい皆んな一しよになりたくない、今の部屋は美しいところで、花もかざつてある、自分は自分でどこまでも闘うから兄貴は心配するな、とこう言つておりました」云々。また、A4は昭和二四年九月二三日付で直接A4取調の衝に当つたA26諫検事に対し半紙一一枚に鉛筆で克明に綴つた長文の歎願書を差出しており、その内容は次のとをりである。

「私は本年八月十七日午前二時頃他人にせんどうせられて列車脱線事故をやり三人の生命をとり共責任の大きいことを感じて居ります。今よく考えて見ますと、此三人の人達に申訳ないと云うことで何だか頭がくるいそうです、又この三人のれいこんにせめられる様な気がしてならないのです、私は一切を告白して本当の人間に返りたいと思つて左に事実を全部書いて出します。どうか私の本当の心を知つて下さいまして寛大な処置をお願致します(中略)十六日の晩十二時過頃私は言われた場所に行つたのであります、その時にはA12さんやA13さんはA9製板の材木置場の所に待つて居りました、そして私はお晩ですと言つたら、A12さんはお晩と言つたのであります、A13もお晩ですと言つたのであります、そしてA12さんはそろそろでかけようと言いました、そして私等三人は出発したのです、そして私達三人はA9製版から南にゆき橋の手前のA112さんの家は電気が光々と輝いておりました、そして私達三人は橋の手前からさらに西に行きそして踏切を渡り更に南に行き橋を渡りそして線路にでたのであります、線路を歩き金谷川のトンネルにでたのであります、そして金谷川の駅の踏切の所に出て更に金谷川線路班の上の畑の所をとおつて線路にでたのであります、線路を通つて行くうちに浅川踏切の前四、五十米の所で貨物列車にであいました、私達は線路の東側の土堤の人に顔を見られないていどにかくれました、そして浅川踏切の踏切警手が家に入つて行く所をみたので踏切の前をとおつてゆきました、そして現場の方に行きました、そして松川の方の人がこないので私達は松川の遠方信号の所まで来ますと松川の方から二人の人が来ました、私はA12さんに其の松川から来た人の名前を聞いたが今は忘れてしまいました、そしてA12等はお晩と挨拶をしましたら松川から来た人達は挨拶をしたので私も挨拶をしました、そしてA12はそろそろ現場にゆこうと言つたので、私達五人は現場に向いました、そしてA12さん等がここらがよいようだと言うのでそこに決めました、私はA12さんに見張りをしろと言はれたので私は松川の方向の約四、五米位の所で見張りをしました、そしてA12さんは継目のボールトをはずして松川から来た人で顔の丸顔な人が約六米位バールで犬釘を抜きましたそれで私は鉄道に四年三ケ月も線路工手をして居たので松川から来た人のやることを見て居られなかつたのですぐ私が交代して外側の犬釘を約九米位抜き、更に松川から来た人で顔の面長な二十一歳位の人が私と交代して約七、八米位抜き更に私は約二十米位抜きました、そしてこんどは内側の外の犬釘を松川から来た丸顔の人が約六、七米抜き更に私は約七、八米抜きました、そのうち手のあいた人は犬釘やチヨツクやボールトなどを附近になげたりかくしたりしましたが私も犬釘を約十三、四本位東方になげました、抜いた犬釘は皆で約七、八十本位だと思います、そして私は犬釘やチヨツクを見てこれで大丈夫脱線するなと思いました、それでA12はこれで大丈夫だと言つたので皆でやめました、この時の作業時間は大体三十分位だと思います、この作業道具は松川線路班のバール一本と同じくスパナ一個でありました、この道具は後で作業が終つてから誰だつたか判りませんが東側の附近にすてたようでした、A12さんはこの作業をやる前にしもんがのこるから手袋をかけて作業をしろと言いましたので手袋をかけてやりました、それでA12さんはそろそろ引揚げようと言うたので私達三人と松川から来た人がこの現場でわかれました、そして私達三人は元来た道を歩いて浅川踏切の手前の西側の小さな橋をわたつてそして浅川踏切の裏を通つて浅川踏切から北の方に約五、六十米行つた所から線路にでて元きた道にでたのであります、申し落しましたが私達五人が脱線現場より二百五十米位松川よりの所で第一一二列車(客車)にあい私達は列車の灯で顔を見られるので土堤の下にかくれました、そして金谷川のトンネルの所で脱線列車にあいました、そして私達三人は元来た道にでてから平石の割山の所の線路から東に下り小さな道や畑や水田の土堤を通つて永井川の道をとりA118会社の永井川橋の手前の東で約二十分位休みました、この休んで居る時に永井川の人が馬車をひいて北の方へ行きました、そのとき私等は松川から来た人は今頃に家に帰つたらうと言いました、このときA12さんは私等に今晩のアリバイをしつかりつくつておかなければならないぞと言いましたがこのことはぜつたいに死んでも言うなと言いました、このとき私は脱線作業につかつた手袋に小さな石を三つ四ついれてそして私達にA12さんがそろそろ帰ろうと言つてたちあがりました、そのときは私はA12さんやA13よりも後に歩き永井橋の上で手袋を川の中にすてたのであります、そして私はA12さんやA13さんに別れて家に帰つたのであります。」

(所論は内容ちぐはぐで前文はA26が書き置いたものをA4が写し取つたものだというが、そのような事実は記録上認むるに由がないし、また、文章が上出来で何人かの助言があつたというがその点も又認むるに由がない。その間の消息について前示A82証人は次のように述べている)。

「本人は監房に入つているのを嫌がり、二階に上つて何か書きたいというので私は自殺逃亡、証拠湮滅のおそれがないと思い本人のことを考えてやつて、そのような図面を書く機会を与えてやつたのであります。左様なわけで強制して書かせたと言う様なことはありません、私以外の誰かから勧められて書いたと言うようなことは聞いて居りません、(A26検察官は裁判長の求めにより検察官が二月二十四日附で証拠調請求した被告人A4が作成した昭和二十四年九月二十三日附検察官宛歎願書一通を証人に展示した)私はその書面を見たことがあります、A4被告は先程も申上げました図面の場合と同じように二階に上つて書きたいと言うので、私はどんなことを書くのかと聞いたら同人は検事さんによく心情を申上げて同情して貰いたいと言う意味のことを書きたいと言うので私は本人のことだから本人が書きたいと言うのであれば書かせてよいだろうと思いよかろうと言つて書せました、其の後A4被告はこの書面を書いて私の処に持つて来て署長この様に書いたのだがどうかと言うので私は見たのです、そして其の書面は私がA4被告に検事さんは始終来るから君からやつたらどうかと言つたら、同人はそれを承諾して同人が検事さんに直接やつたと思います、私は共の書面を一旦見てから返したのです、私は先程検察官から展示のあつた図面及び歎願書をA4が作成する際書くべき内容を教えたようなことはありません、私はA4被告がそれ等の書面を書いている場所にも行つたことはありません、誰かが書くべき内容を教えたと言うことは私としてはないと思います、私はA4被告に対してこう言う風に陳述しろと言つたことはありませんがA4被告の方から公判に行つたらこういう風に陳述すると言つていたのを聞いたことがあります、それは公判廷では最初でなく後から審理して貰いたい、それは皆んなにいじめられるからである、そして他の人がどんな嘘を言つても俺が最後に止めを刺してやる等としばしば言つて居りました、私はA4に対して公判に行つたら否認しないで本当のことを言えと言つたことはありません、ただ御茶呑話しで人には良心があるのだからやつたかやらないかは自分の良心で判る筈だと言つたことがありますが、否認するなとか本当の事を言え等と言つたことはありません。」また、A4は同年一一月二二日頃福島弁護士会長宛に御願と題する次のような書面を送つているのである。

「私は松川事件で保原地区警察署に居り判事さんの取調を受けて居ります者でありますが、私は今度の事件で世間の皆様を騒がして心配をかけました事は誠に申し訳ありませんでした、私は今度の事件ではA83法曹団の弁護士に弁護してもらいたくないから是非福島弁護士会長さんのお力によりましてどうか私の弁護を福島弁護士会で弁護して下さるよう願いしたいとおもつています、そして私は金もないので金の支払は出来ませんがその御恩は一生忘れず、又その御恩はきつと御返しする覚悟であります、是非私を助けるとおもつて弁護をして下さるよう御願します、福島弁護士会長樣え、A4、」(この書面が所論主張のように別人の手になつたものであるということを認めしむる証拠は全く存在しない)。

以上の通りであるから、警察における取調べが苛酷極まるものであつたというA4供述は到底信用し難いのであつて、(A4の取調官等に対する反対尋問などが如何に空々しいものであるかは、その尋問調書を読む者の誰しも気付くところであろう)むしろそれらの証拠を吟味すれば、警察の取調べはA4供述のようなものでは無かつつたのではないかと思わしめるに十分なものが感じ取られるのである。尤も、A4が保原地区警察署で破格の優遇をうけたことは、確実な事実として認めなければならないし、警察当局の被疑者に対する処遇がそのようなものであつたことは遺憾千万であつたと思料するが、A4が警察官に最初に自白し又、A26検事の最初の取調べで自白したのは保原地区警察署に移さるる前の福島地区警察署においてのことであるから、右優遇がA4にその自白を維持させようとした心底から出たものであつたとしても、そのこと自体から直ちに福島地区警察当局の取調がA4供述のように苛酷であつたとは即断出来ないであろう。

次にA4は検察官、裁判官の取調に対しては一回も否認したことはなく、その自白が淀みのないものであることは、その供述自体から窺わるるばかりでなく、その取調に当つた検事A26、裁判官A7の証人としての各供述からもこれを十分に認め得られるところである。すなわちA26検事は二審六一回公判において証人として次のように述べているのである。

「(裁判長)

問 次にA4を取調べた関係について尋ねるが、本件記録によればA4が逮捕状を執行されたのは昭和二四年九月二一日午後九時五十何分となつているが、証拠に提出されている証人作成のA4の供述調書は九月二三日が最初のものになつている、そこで尋ねるのであるが証人が最初にA4を取調べたのは何日であつたか。

答 九月二〇日に初めてA4を取調べたと記憶します、当時福島地検では非常に事件が多く私は毎日六時半頃まで仕事をしていたのでありますが、その日午後六時半頃検事正から電話で大至急検事正官舎に来てくれと言うことでありました、それで私は早速検事正官舎に参りましたところ、官舎にはA62が来ており、検事正と玉川から松川事件の犯人が判つたということで簡単に説明をうけ、A62作成のA4の自白調書を見せられました、私はそのとき初めてA4が被疑者であるということを知つたのであります、又その調書を見たところ、関係者も相当あり重大事件でもありますので、私としては此の玉川にしたA4の自白が真実であるか何うかを確めて見る必要を感じたのであります、そこで私は検事正と共に立会事務官を同行してその日の午後八時過ぎであつたと記憶しますが、福島地区署に参り、私自身直接A4を取調べA4から犯罪事実の全貌を聞いたのであります、この取調べによつて私はA4の自白は聞違いないであろうという心証を得たのであります、然し当時は未だ事件の送致がありませんでしたので調書は作成しませんでした。

問 その後はどうなつたか。

答 九月二三日にA4は身柄と共に正式に福島地区警察署から送致されました、夫れで私は当時A4が留置されていた保原地区警察署にその日のうちに参り、同日附で第一回の供述調書を作成したのであります。

問 送致された際身柄は検察庁に来なかつたのか。

答 その儘にしてありました。

間 その際証人が作成した調書というのが本件証拠として提出されているA4の証人に対する九月二三目附の供述調書か。

答 左様であります。

問 弁解録取書はとらなかつたか。

答 第一回供述調書は弁解録取書も兼ねております。

問 第一回供述調書を作成した日は何時間位調べにがかつたか。

答 取調に着手した時刻は忘れましたが、確か午後早々に調を始め午後十一時頃までかかりましたから、食事の時間を含めて十時間位かかりました。

問 その調でA4は否認をしなかつたか。

答 絶対に否認しませんでした。

問 九月二〇日に証人が実際上取調べた際にも否認又は夫れに類するようなことは云はなかつたか。

答 九月二〇日の調は先程も申上げましたように、A62の調書の真実性を確めに行つたので、発問はなるべく少くしA4から自発的に供述を得るような調をしたのですがその際にも否認はしませんでした。

問 九月二三日のA4の供述の具合は何うであつたか。

答 坦々として述べました寧ろ調書を作成する為供述するのを待つて貰つた位でした。

問 その際のA4は事件当時の行動や出来事に対する記憶は何うであつたか。

答 非常によく憶えているという感じでした。

問 ある一つの出来事はあつたが時間が思い出せないとか、三人なら三人、五人なら五人は居たがそのうち誰と誰は記憶しているが誰は思い出せないといつたようなことはなかつたか。

答 時間についてはその頃とかその頃だと思うとかいうように確定的ではないことはありましたが、その他のことは二〇日の調の際も二三日の調の際も大体において判つきり記憶していることを述べていることを見受けました。

問 証人作成の九月二三目附の供述調書は証人が見たというA62作成のA4の自白調書より詳しく記載してあるか簡単に記載してあるか。

答 九月二三日附の供述調書を作成する際には私は玉川の調書を見ずに供述して貰つたのであります、私の調書と玉川のそれを検討もしませんが幾分私の方が詳しいと思います、尤も九月二〇日には私は玉川の調書を見ていますから大筋は頭にあつて尋ねたことは事実であります。

問 左様に証人の頭にあつたことでA4の供述が違つているような点について、証人の方からこれはこうではないかというように押しつけてA4に尋ねたようなことはなかつたか。

答 私としてはA4に対して九月二三日に取調をした際、玉川の調書によつて大筋は頭にあつても、お尋ねのような尋ね方はしなかつたと記憶します。」以下省略。

またA7裁判官は二審六九回公判において、証人として、裁判長の問に「A4の勾留尋問は、その日(昭和二四年九月二五日)夕刻より始め、終つたのは八、九時頃で、四時間位かかつたが、勾留尋問でそんなに長くかかつたのは型外れのようにも見えるが、事件が事件なので詳細尋問したので、左様に時間を食つたのである。勾留尋問した際、鴇田書記官の外には戒護の警察官はいた、A26検事はいない、その部屋に入つて来たようなことははつきり記憶しない、勾留尋問に検察官が立会つたようなことはない、その取調の際検察官の調書を資料にはしたが、A26検事が調室にいて調べて貰いたい点を紙に書いて渡したというような事実はない、はつきりした記憶はないが、勾留尋問の際、福島へ一緒に自動車で帰るため何かで尋問が終らない中に、未だ済まねかと言つて尋問している部屋にA26検事が立寄つたかも知れない。」大塚弁護人の問に、「(一〇月二日)A4を証人尋問する時は、同人の検察官調書を見てから調べた、刑訴二二七条に基く証人尋問の請求については、その請求の必要性の疏明資料として被疑者の供述調書が添付されて来るからそれを見たのである、……一〇月二日の証人尋問に資料として提出された供述調書又はその日以外に提出された調書に図面がついていたかどうかは憶えない、しかしこの事件についてA4を調べる際に図面を見て調べたよりな気はする、……確か一〇月二日は日曜日であつたと思うが、その日のA4の供述は考えながら供述するという態度ではなかつたと記憶する、……A4を証人尋問した際、同人の供述は同一の問題については検察官に供述したことと大体同じであつたと記憶する、……他の者に対するよりA4に対する勾留尋問を長くしたのは、A4の自白が他の者に対して逮捕状を出すかどうかについての資料となると考えたし、そのためにはA4の自白が信用できるものかどうかを見極める必要があると考えたからである、……私が尋ねた事項について否認らしいことを述べたのはA19一人であつた、」との旨を答えているのである。

そして検察官、裁判官の取調にあたつて強制、脅迫、暴行、等の事実のなかつたことはA4自身が一審公判以来認めているところである。むしろ、A26検事の取調が穏かであつたことは一審九〇回公判にけるA4の最終陳述冒頭の「私は私を可愛がつてくれたA26検事から死刑を求刑された」という言葉からも窺い得るところである。

論旨は当時A4は年令いまだ十九歳、思慮浅くいわゆるアプレであり、それが取調官の強制と相俟つて自白するに至つたものだというが、A4は単純で気軽でオシヤベリの青年であつたようには見受けられるが、一方取調官に対し椅子に座り直して自白したというような純真さすらも認められるのであるから(一審二二回、二審四一回各公判における玉川証言参照)、A4が少壮浅慮且つアプフレだというようなことだけで、その自白が強制の結果だと言い切り得るものではない。

また、論旨は当局が暴行、強姦、本件の三本建で取調べたことを論難するが、そのような事実があつたからといつてこれを以て直ちに自白を強要したと即断出来るものではない、この理は当裁判所がさきの帝銀事件の判決において明らかに示しておるところである(昭和三〇年四月六日大法廷判決刑集九巻四号六六三頁参照)。

また論旨は当局がA4の相被告A12、A13らに対する憎悪と反感を利用してA12、A13らを共犯者に仕立てるために自白をさせたものだという。

しかしそのような供述は自分自身を直ちに死刑無期の被告人に仕立てることであるから、如何にA4が浅慮な青年であつたとしても、そのような危険を冒してまで自白をするに至つたものとは理解し難い。それでは何故にA4はその自白を翻すに至つたのであろうか。論旨はA4が昭和二四年一二月二日A121牧師の説教によつて翻然として目醒め真実を述べる(否認する)に至つたのだと主張する。成程、A4が犯行否認の決意をしたのが一二月二日であることは認められるが、A4が福島拘置支所でA121牧師に面会したのは一二月三日と四日であることが証拠上明らかであるから、A4が同牧師の諭に感じ入つて真実を述べるようになつたものとは解せられない。のみならずひとりA4と言わず、おしなべて犯罪者がその自白を翻すに至る心の動きはさまざまであろう。A4の場合どのような心的過程であつたか、判然としないのである。従つてA121牧師との対面の一とこまだけを云為して既になされた自白が必然的に不任意になされたものとは断定出来ないものと考える。

なお、論旨はA4自白には供述の変更、客観的事実との不一致不合理がありこれらは記憶違いでは説明出来ない点であつて、これは右自白が虚偽且つ不任意である有力な証拠であるという。

しかしA4自白は大筋において一貫し大体において変更ないものと認められ、いわゆる客観的事実とも大体において一致し、論旨が不合理という点は見方の相違というだけのものとしか考えられない。むしろA4の何回もの自白を調書によつて熟読考察すれば、既に事の非を悟り良心のおもむく儘に恰かも堰を切られた奔流の如く何等の淀みなく供述をしていることが認められ、そこに強制や誘導の影などは到底認められないのである。

(二) A19自白について

記録によれば、A19被告は昭和二四年九月二二日検挙され、同三〇日には実行行為の点を一応認め、一〇月一日には取調がなく、同月二日A62に全面的に自白し、翌三日A28検事に対し全面的な自白をしており、同月九日A7裁判官に対し同じ内容の供述をしていることが明らかである。

同被告に対する警察での取調が苛酷且つ悪質そのものであつたとは一、二審来同被告の強く主張するところである。記録によると、警察当局の同被告に対する取調が急であつたことは察せられても、それが同人の供述のようなものであつたということは、同被告の一、二審の公判における供述以外にはこれを確め得べき証拠がなくこれを警察において同人を取調べたA62およびA98部長の第一、二審における証人としての供述および後記事実に照合して考うれば同被告の右供述は容易に信用し難い。

論旨は同被告に対するA28検事の取調は威丈高な圧迫に終始し苛酷極まるものであり、あるときは土下座までさせたと主張する。しかし記録によれば、A28検事は同被告に対し熱心の余り追及的に取調べ同被告が「このたびは飛んでもないことをして悪かつた」と言つて自ら土下座して謝まつたという事実は認められるが、同検事がA19において供述を取消した為いたく憤慨しA19を強いて謝まらしたという事実を認めさせる証拠は同被告の第一、二審の公判における措信し難い供述をおいては外にないのである。A7裁判官の取調自体が強制というようなものでなかつたことは二審六九回、七〇回公判におけるA7証言および一審二回公判におけるA19自身の供述によつて容易に窺い得るところである。この点について、論旨は一〇月五日A7裁判官の取調の際裁判官が途中で一時退出したところ、A28検事が来室して、A19に自白を強要した旨の主張を繰返しているが、A28検事が右の部屋で自白を強要したとの事実は一、二審の公判でA28証人の極力否定するところであり、この点は前示A7証言によつても認め得べくもない。却つてこの間の消息について、原審六九回公判におけるA7証言は次の如く述べており、これによればA28検事来室の点はともあれ、A7裁判官に対するA19の供述は最初は言い渋つていたが、午後に入り自供をするに至つた事情が認められ、その間に検察官の取調の影響があつたというような事情は認むべくもないのである。

右原審六九回公判調書中の裁判長との間の問答の記載は次のとおりである。

『問 取調を中止したのは昼休の時か。

答 そうだつたと思います。

問 休んだ時間はどれ位であつたか。

答 三〇分から一時間近く休んだと思います。

問 休憩する際A19はその部屋に置き放しにしていたのか。

答 私がその部屋から出る際にはA19はその部屋に居りました、私としては戒護の警官にA19の処置について別段指示を与えませんでしたから私が部屋から出た後戒護の警官がどう処置したかは判りません。 問 立会書記官もその部屋から出たか。

答 出ました。

問 証人が左様にしてA19を調べているということは検察庁では判つていたか。

答 判つていたかどうか夫れは私には判りません。

(中略)

問 証人はA19を取調べた途中で調の模様を検事に連絡したようなことはなかつたか。

答 左様なことはありません。

問 証人は昼休か何かで証人らが部屋から出た留守に検事がその部屋に入つて来てA19と会つたことがあるかどうかということは知つていないか。

答 それは私には判りません。

問 当審においてA19の主張するところでは、証人に調べられた際、自分はA44党員として、いろいろ活動したことはあるが、本件犯行には関係がないと否認した、すると証人はA19に対する尋問をやめて部屋から出て行き検事に連絡したらしく、証人が出て行つた後にA28検事が部屋に入つて来ていろいろなことを云つて責められた為証人に自白しようという気になり、それでその後からの証人の取調の際に自白したのだというが、左様な事情はなかつたのか。

答 それらのことは私には判りませぬ。

問 結局A19は証人に対して本件には関係はないんだと明確に否認したことはなかつたのか。

答 尋問の中途で犯罪事実の尋問に入るようになつた頃、関係がないというような供述をしましたが、私から更に問い返えしている中に調書に記載しているような供述になつたのであります、かような次第でお尋ねのようにこの事件に全然関係がないと明確に否認したことはありません、又私がA19の供述について検察官に連絡をしたというようなことは勿論ありませんし、私が部屋をあけた後に検察官がA19にどのようなことをしたか私には判らないのであります。』云々

そしてA19被告に対する一〇月三日付のA28調書は詳細で内容も整然としており、特段の不合理が認められないばかりでなく、その大筋はA4自白と大体において一致しており不一致の点もないわけではないが、このことはむしろA28検事が同被告に対し誘導又は供述を押し付けたりしたことのないことを示す一つの資料となるであろう。なお一〇月九日のA28調書によると、A19被告は同人が勾留理由開示公判で否認し取調官の脅迫を主張したのは、一度同志として誓い合つた人たちの面前でしかも絶体に口外しないと約束した手前、そのように述べざるを得なかつたのである旨供述していることが明らかであり、この点は特に注目に値する点である。また二審五五回公判におけるA29巡査部長の証言および同六〇回公判におけるA28証言によると、二本松地区警察署でA28検事がA19の取調を終え雑談をしているところへA29巡査部長がA21被告をつれて調書に拇印さすべく印肉を借りに来た際、A21とA19とが顔を見合せて二ツコリ笑い「俺は話した」「俺も話した」と言つたという一とこまが認められる。このこともA19自白(A21自白についても)の任意性の判断について見逃すことの出来ない事実である。

以上の次第で、A19自白は同被告の自由意思が拘束されていた状況下において為されたものであり且その疑あるものとは到底認められないのである。

(三) A20自白について。

A20被告は昭和二四年一〇月四日に逮捕され、それから三日目の同月六日には自己に関係ある犯行部門を殆ど自白し一一日目までに略その供述を出し尽している。即ち八月一六日夜A19、A20、A21、A22、両A18らの被告が松川労組事務所に宿泊したこと、午後一〇時半頃A20、A21、A22の三名が松川線路班倉庫に行つてバール、スパナを盗み出して来たこと、同夜午前一時半頃被告A15が松川労組事務所に来て、A19被告と共にバール、スパナを携えて現場に赴いたこと等、本件実行行為に関し同被告に関係ある事項を殆ど自白しているのである。

論旨は同被告に対する警察当局の取調は苛酷極まり、笛吹検事及びA7裁判官の取調その影響のもとに為されたものであつて、同被告の自白は取調官の拷問、脅迫、強制、誘導等によつて為されたものであるという。そして警察での取調が苛酷であつたとは第一審公判以来同被告の訴えて止まぬところであるが、この点は同被告のこれに照応する公判供述以外にはこれを確むべき証拠はなく、その供述は後記の事実に照らし俄に信じ難い。すなわち同被告はA7裁判官の一〇月七日の勾留尋問に際し逮捕状記載の被疑事実は読み聞けの通りかと問われて「御読み聞けの通りの事実は間違いありませんが、私は汽車をてん覆させて人を殺したのではなく、保線区倉庫からA21、A22と三人でバール、スパナを持つて来てそれをA15とA19が出掛けるときに渡しただけであります、私の名前や何かを発表しないようにお願いします、今度は更生します、」と言つているのである。又A20被告は一〇月二三日の勾留理由開示法廷の控室においてA24、大塚両弁護人に面接した際、自分が犯人であることを肯定し右弁護人らから此の事件は死刑と無期しかないのであつて、貴下一人で以て責任を負い得るものではないと言われたのであつたが、それでもなお右法廷では何等の発言もしていなかつたことが認められるのである(一審一七回公判における証人A95の証言及び第二審三四回公判におけるA20の供述参照)。この点に関するA20被告の弁解は首肯し難い。笛吹検事がノートを見て取調べたり、他の検事と話合つたり、松川線路班倉庫を見て来たと言つて取調べたからと言つてこれを以て不当な処置とすることの出来ないことは勿論、同検事がかようなことを以て自白強要の具としたと認むべき節はなく、又同検事が他の被告の調書とA20被告の供述を合致さすべく努めて居たという証拠もない。また、A7裁判官のA20に対する取調に違法のかどのあつたことを認めしむべき証拠は何ら見当らない。

論旨はA20は家庭の事情等から党及び労働運動に疑惑を持ち、それから身を引こうと思つていた折柄なので取調官の誘導にたやすく迎合したものであつた、としきりに主張する、誘導とは何か、迎合とは何か、前者は相手に答を暗示するような尋問をするか或は相手が全然知らない事実を教え込んで強いて供述させるかすることであろうし、後者はいわゆる長い者に捲かれろ式の考え方で、取調官の言いなり放題になり或は取調官の意を汲んで先廻りして述べることであろうが、A20自白がそうした状況の下で為されたものであることは同被告の措信し難い供述以外にこれを確むべき証拠はないのである。却つてその供述自体から観察して、そうした事情はなかつたのではないかと思わしめるに十分なものが感じ取られるのである。試みに二四年一〇月一二日付A6調書を見れば次のような一節がある。

「八月十六日(昭和二十四年八月十六日)夜の私達の服装はA21は白縦縞の半袖シヤツに黒ズボンをはき、下駄履きでハンチングをかぶり、A22は白シヤツに紺ズボンをはき、ゴム草履を履いて無帽、A19は白カツターシヤツ、黒ズボン、下駄ばきで無帽、A15は白カツターシヤツ、黒ズボンに白ズツク靴を履き無帽であつたと思います、私の服装は白開襟シヤツに白ズボン下駄履きで無帽でした、八月十七日朝A22と二人で列車顛覆の現場を見てから午前八時頃組合事務所に帰りました、列車顛覆の事件をやつてから私は何時検挙されるかと心配して居りましたが、九月中頃A22が窃盗の容疑で逮捕されたと聞いた時に先ずいけないと思い、自分等も逮捕されるかも知れないと感じました、そして九月二十二日A19等が逮捕されたときはついにやられたと思い近い中に自分も逮捕されるのではないかと考へて居りました、本月四日私も逮捕され最初事件を全然知らないと否認して居りましたが、六日になつて悪い事をかくす事も出来ず自白し、検事さんにも其の時記憶していた事を有りの儘申し上げ、又判事さんにもその様に申しました、所が保原に移された時自分だけが自白したので移されたのかと思い込み又絶対に口外するなと言はれていた義理も考へて再び否認し様と考へたのですが、九日になつてよく考へて見てやはり本当のことを自白する方がよいと考へるに至つたものです」云々

すなわち、右供述だけでも論旨主張のような事情がなかつたであろうことを推測させるに十分なものが認められるのである。また、論旨はA20自白には再三に互つて供述の変更があり、これこそ捜査官の誘導に基いたかあるいは本人が迎合して述べたものであることを裏書するものであると主張する。しかし、一般に被疑者あるいは被告人の供述に変更が多いからと言つてそれで以て直ちにその供述が取調官の言う儘に為されたものであると断定し得るわけのものでもなく、供述に変更があることが却つて供述者において自由意思の赴くままに供述したということを推測させる一つの材料となることもあるのである。ましてA20自白の場合は供述の変更の都度新事実を提供しておるにおいておやである。

以上を要するにA20自白は拘束された意思に基き為されたものであり、あるいはその疑のあるものであるとは到底認めることが出来ない。

(四) A21自白について。

A21被告最初の自白は逮捕後三日目になされており、爾来一八回に亘つて同趣旨の供述がなされている。その間細部の点で食い違いの点もあるがその大綱において大した変化はない。自白内容はバール、スパナの盗み出し、アリバイの擬装の点である。警察における同被告に対する取調が苛酷であつたとは同被告も一審以来極力主張するところであるが、その取調官であつたA62、A29、A30両巡査部長は第一、二審公判において証人として右の点を強く否定しており、この点の証拠としては同被告の法廷における供述以外には何等存在しないのである。そしてその供述も後記の証拠ならびに事実に照らし、たやすく信用し難いところである。同被告に対する昭和二四年一〇月八日A7調書の冒頭には警察の取調が苛酷でなかつた旨の供述が認められ、また、辻検事の同被告に対する一〇月一〇日付の第六回供述調書には同被告の犯行後の心境を吐露した左記のような供述が認められるのである。この点に関する所論弁解は首肯できない)

『(前略)

二、私は八月十七日の列車顛覆事件後、人に顔を見られるのが嫌なような気がし、特に姉夫婦に対しては其の気持が強かつた為八月末頃迄に三回程信夫寮や上川崎村のA18さんの処に泊りに行つたことがあります、然し滅多にバレることはあるまいと安心して居りました。(中略)

四、九月十九日頃と思いますがA22君が逮捕された翌日組合事務所で私が居る時A17君がA14さんに「A22君が工具を持出して逮捕されたから家で心配している、私がA22君の家にこれから行つて来ますから」と云いますと、A14さんは「首を切られても何時迄も会社でワアフア騒いでいるから会社で警察に頼んで、つまらんことで逮捕された」と云い、共の場には私の外にA19君も居たようですが私にとつてはA14さんがA22君の逮捕は列車てん覆事件とは関係がないから安心せよと云う意味で云つて居られるように聞えました私はA14さんの云われる通りだと思い、列車てん覆の方はバレないだろうと安心して居りました。

五、九月二十二日朝七時四十分頃組合役員の改選がありますので、組合事務所に参りますと警察の方が五、六名来て書類をひつくり返して居りますのでA18君に「何故警察の人が来ているのか」と事務所の中で小声で云いますと、A18君は「今朝A19君が逮捕された、A19君と関連性のある書類を押収に来ているのだ」と云い、私がA19君に関連性のあるものは何もないではないかと云いますとA18君は「何もないから大丈夫」と答えました、私は警察の人の内に顔見知りの人が居たので直ぐに警察の人が来ていると判つたのであります。私は五分程此の押収を見物して居りましたが気持がよくないので職場に行きました。A18さんに何でA19君がつかまつたのかと聞きましたが同君は知らぬと云いましたので、私は其の日一日職場で心配して居りました。同日午後五時半頃A18君と一緒にA19君の家に逮捕理由を聞きに行きました、A19君のお父さんは「逮捕状は見せて貰つたが気が変になつて読めなかつたと云はれましたので其の足でa町の駐在所に行き巡査に聞きますと巡査も知らぬと云いました。翌二十三日は休日で家で読売新聞でA19君が列車てん覆の容疑でつかまつたことを知り、非常に気持が悪く其の前日A18君とA20君のところに対策を相談に行く約束も止め事件のことは忘れようと思い、a町小学校で行はれたa町町内野球大会を終日見物して居りました。

六、十月二日頃の午前十一時頃前原工場から天の原工場に帰つて来るとA14さんが呼んでいると云いますので、組会事務所に行きますと、全電工の磯と云ふ三十位の男の人が居り、A14さんは「磯さんから云はれたからA19君のアリバイを証明するから君のやつた八月十五、十六、十七日の行動を書いてくれ」と云われますので、私は其の場で雑用紙に鉛筆で三日間の行動を書きました、勿論十六日夜のことはA14さんに以前云われたことを書き嘘を書いて居ります。

(中略)

七、A19君が逮捕されてからは私も逮捕は免れないと覚悟して居りました、これ以後も毎日A14、A17、A18さんとは顔を合はして居りましたが誰も一言も列車てん覆事件については話せず、心配そうな重苦しい表情でありました。

八、現在は実に無謀なことをしたと後悔して居ります、事故で死んだ人に対しては申訳ないと思つてゐます。潔よく裁判を受けたいと考えて居ります、自分のやつたことについては当然責任を負ふ覚悟であります。』

また、二審五五回公判におけるA29証人の供述及び同じく六〇回公判におけるA28証人の供述によれば、二本松地区警察署で同被告がA19被告とがたまたま出会つた際、両者が顔を見合せてニツコリと笑い「俺は話した」 「俺も話した」と言つたという一とこまの事実が認められることはさきに記したとおりである。

論旨は辻検事の取調は強制誘導でありA7裁判官の取調もその影響下に為されたものであると主張する。

しかし、一、二審の公判における辻証言、二審の公判におけるA7証言によれば、辻検事やA7裁判官のA21に対する取調がA21の自由任意な供述を阻害するようなものであつたとは到底認められない。所論はその際検察官や裁判官のとつた事実究明の方法を彼是非難するが、その故に同被告の自白が強制誘導によつて為されたものであるとは到底認めることができない。

以上の通りであつてA21自白もまた、任意性を欠くものであるとは認め難いのである。

(五) A22自白について。

A22被告は昭和二四年九月一八日窃盗容疑で逮捕されたが、盲腸炎のため九月二九日釈放されて入院し、一〇月一八日本件容疑で再逮捕され、それから八日目の一〇月一五日に辻検事に対し昼食後夕方まで二時間位の間に自白をし爾来一一回の取調において同一趣旨の供述を維持していたものであり、その間著しい供述の変更はなく、その内容はバール、スパナ盗み出しの点、アリバイ擬装の点である。

捜査当局の同被告に対する取調が警察でも検察庁でも苛酷であり、A7裁判官も誘導したり押し付けるように尋問したとは同被告の一審以来訴えて止まぬところである。しかし警察の取調が苛酷であつたことはその取調に当つたA62A98部長が一、二審公判において証人として出廷し強くこれを否定しており、その証拠としてはA22被告の供述あるのみである。そして後記の事実竝に証拠と対照し且つ同被告の逮捕から自白に至るまでの推移に鑑みれば右供述もまた容易に信用出来ないものと考えられる。A22被告はその自白後である一一月一三日頃、A98部長にわざわざ面会を求め、自分が盲腸炎で入院中に相被告のA14が訪ねて来て本件で取調をうけた状況をきき取り且つ本件のようなことをしたと言えば死刑か無期になるのだからそんなことは言わない方がよいと注意されたこと、および監房に入つている間にタバコの光の箱の中にA18か誰かの通謀の紙片が入つていたことを話し且つその紙片を同巡査部長に差出した事実のあることが認められる(一審五二回公判、二審四三回公判におけるA30証言参照。なおこの証言に対しA22は一審で否定的な反対尋問もしていないし、二審ではかえつて肯定的な反対尋問をしている。このことは警察および検察庁で苛酷な取調をうけ虚偽な自白をした者の言動とは受け取れない)。そして警察当局の取調に強引な点があつたとしても、同被告は警察で自供したのでなく、検察庁に至つて始めて自白をしたのであり、検事の取調の際に警官が同席したというような証拠もないのであるから検事の取調が警察の影響のもとにあつたとは到底認められない。(二審三七回A22供述同じく五七回、五八回辻証言参照)。辻検事の取調が強制的なものであつたと認むべき証拠はない。同検事が取調の際ノートを持つていたからと言つて、自白を強制したということの出来ないことは云うまでもないし、また辻検事が取調の際に人生観を述べ人生哲学を説いたからと言つて、それはA22被告の反省や悔悟を促しただけのものと認めるべきであつて、A22の供述の自由な発表を妨害したものとは認められない。二審五七回、五八回公判において辻検事は「A22があまり若いので自分が日頃考えている過去は打ち消し難い」というようなことを雑談的に話したらA22は自白したと云つている。それが本当ではなかろうか。辻検事に対するA22供述が如何にもスムースで、滔々と述べられておるか、そしてその間に無理をされている形跡などは毫末も認められないものであるかは後に摘録した同被告に対する二四年一〇月一八日付A8調書によつて極めて明らかであろう。

A7裁判官の取調がA22被告の自由意思を拘束するようなものであつたとは記録上これを認むべき何等の証拠もない。同裁判官の作成の証人尋問調書の問答自体から直ちにその尋問に誘導があつたと推断することは出来ないし、同調書の内容が検察官調書と同旨だからといつてそれが押し付けであるときめつけることが出来ないことは謂うまでもあるまい。かえつて二審七〇回公判調書によると証人A7と山口検事との間に左記のような問答が交わされ且A7はその供述に副う仕草をして見せた事実、そしてこれに対しA22被告から何ら発問のなかつたことが認められ、その一事からしてもA22自白が極めて任意に為されたことが認められるのである。

『問 証人は先程A20被告の質問に対して松川線路班倉庫の戸を開けるときの状況についてこのようにして外したんだと云つて、その恰好をして見せた被疑者が一人いた趣旨の証言をしたが、それは八月一六日夜松川線路班倉庫えバール、スパナを盗みに行つた際の同倉庫の戸を外す状況についてそのような恰好をして見せたのか。

答 左様であります。

問 そのような恰好をして見せたのが誰れであつたか記憶していないか。

答 はつきり記憶しておりませんが考えて見るとA22であつたように思います。

問 どんな恰好をして見せたのか。

答 取調をした部屋の窓の所え行つて「こうして外したんだ」といつてその恰好をして見せたのです。丁度こんな恰好でした。

このとき証人は証人台から裁判官席の机の前に進み、同机の前方嵌板を窓に想定して両腕を胸の高さに上げ丁度幅三尺の戸を左右から押さえていてこれを持上げ先ず戸の下方を敷居から手前に外し次にそのまゝ戸を完全に取外す恰好を実演した。』云々以上る述したとおり、右被告らの各自白が任意になされたものでないこと、またその疑のあることを首肯させる証拠はないのであつて、所論違憲の主張は前提を欠き、採るを得ないものと云うべきである。

(10)原判決公開原則違反論について(憲法八二条一項)

論旨は、原審では公開の裁判が実際においては捜査記録中の被告人に不利益な部分を採用するための単なる形式的手続に置き替えられ、口頭主義の名の下に書面審理を合理化し公開主義の名の下に秘密審理を合理化するための手段に過ぎないものとなつていた。すなわち原判決は公開主義、直接主義、口頭主義の外観の下に秘密主義、書面主義の下に行つたものであるから、憲法三七条一項および八二条一項に反するというのである。しかし記録を調査すれば原審の審理に所論のような不法のないことは極めて明瞭であるから所論は採用の限りではない。その他、この点に関しては既に(2)につき述べたとおりである。

以上る説の通りであるから、上叙憲法違反の主張はすべて採用出来ない。その他憲法違反をいう点はその実質は事実誤認、単なる法令(訴訟法を含む)違反、量刑不当の主張を出でないものであつて、刑訴四〇五条の上告理由に当らない。

第二判例違反の主張について

論旨中には、原判決には各種の判例に違反する欠点があるというものが可なりあるのであるが、その中の原判示実行行為に関するもののみを取上げて見ても、所論は判例の意味を正解しないで漫然と判例違反をいうか、あるいは原判示の事実と全く異る事実関係を想定して判例違反をいうか、あるいは、また、原判決が判例に従つた判断をしているに拘わらず徒に判例違反を唱えるか、以上いずれかを出でないものであるから、所論は刑訴四〇五条にいう判例違反の主張に属せず、従つてすべて採用に値しないものと云わざるを得ない。

以上の通りであるから、本件実行行為に関しては、刑訴四〇五条は適用の余地なく、この点に関する限り、本件上告は理由がないものと云わなければならない。

(乙) よつて原判示の実行行為の判断について刑訴四一一条一号、三号、四号の事由があるかどうか職権を以て調査を進めることにする。

第一 先ず原判示に右四一一条一号にいう判決に影響を及ぼす重大な法令違反のかどがあるかどうかであるがこの点に関する上告理由を考察しつつ、記録を精査したが、原判決には判示実行行為の判断に影響を及ぼすほどの重大な法令違反の欠点は遂に見出し得ないのである。

第二では同条三号にいう判決に影響を及ぼす重大なる事実誤認があるかどうかであるがこの点は論旨の極力抗争するところであり、大いに問題の点である。

しかし、論旨各点に即して、本件記録を綿密周到に調査を重ねてみても、原判決には判示実行行為に関する限りにおいて、判決に影響を及ぼすほどの重大な事実誤認の点は遂に早い出し得ないのである。尤も右事実認定中には時刻地点のずれ、あるいは被告らの記憶違いや、見損いがあり、客観的事実と吻合しないものがあることは認めないわけにはいかないが、そうした些細な欠点はあつても、大筋において判決をゆさぶるような事実誤認のあることは、如何に記録を精査してみても認むることができないのである。この点についても垂水反対意見の中の該当部分を援用させて貰うが、事柄は重要であるから、私の所見を若干付け加えることとする。

(一) 本件実行行為について、先ず問題となる点はA4、A13、A12の三被告においてA4自白にある所要の時間内に事件発生地点えの往復が可能であつたかどうかという点である。この点は記録によつて窺い得るように、原審の特に意を用いたところであつて、原審は昭和二七年六月一四日夜間から翌早朝にかけて実地検証を行い、慎重に調査を重ねた結果、その往復は可能であるという判断に到達しているのであつて、私もその判断を正当と認める。右検証はA4の自供に基き略同一条件の下において裁判官、検察官、弁護人ら総勢一九名が参加の上で行われたものであるが、その結果は病気疲労等のため落伍した者を除き、裁判長始め一五名が略A4自供の線に副う時間関係で全行程を歩行できたのである。そして、右一五名の中には平素そのような遠路を歩きつけておらないと認められる年令四〇才台あるいは五〇才台の者が多数存在していたのであつて、そのことは普通健康体の者であれば優に歩行可能であり、その反面当時年令二〇才台、血気盛りであつたA4、A12両被告はさしたる苦痛もなく全行程を歩行し得たであろうし、又身体に軽微な障碍があつたという(この点は後述)A13被告においてもあえてA12、A4に追随することが不可能でなかつたことを証明するものである。

(二) A13被告の身体障碍について

この点に関し原判決はいろいろな角度から詳細、克明に検討しA13被告は鉄道に奉職中昭和一八年三月六日公務負傷に因り骨盤骨折尿道破裂症を患い、その治療を受け、完全に負傷以前の状態には戻らず、その後遺症として股関節運動の軽度な制限、軽度の骨盤変形、会陰部尿道手術創痕部球海綿体筋端部の圧痛等の症状を遺したが、昭和二四年八月一六日、一七日当時においてはその症状は固定期に入つていた。そして、その当時右障碍はいずれも軽微のものでこれによつて格別歩幅が制限されるということもなく、椅坐にさほどの困難もなく、人が気付く程の跛行もせず、跳躍や疾走もある程度は可能で、要するにその運動機能、特に歩行機能においては、常人に準ずるものであつたと認めるのが相当で、又A13被告の右当時の一般的健康状態は良好であつたことが明かであるから、その当時の歩行能力は、同年配の正常人(身体障碍のない健康人)に準ずるものであつたと認めるのが相当であると判断しなお前示夜間検証の結果を参酌し当時年令二五才を越えたばかりで且つ前記の如く歩行能力を持つていたA13被告は右夜間検証の際の歩速で問題の区間を歩行することは可能であつたと認めたものであり、右判断は記録を調査して十分首肯でき、そこに事実認定の上において重大な誤認のあることを認め難いのである。

A13被告の身体障碍に関しては、原審の審理は慎重を極め、特に智識経験豊富なその方面の権威者である

東北大学医学部整形外科助教授 A122

東京大学医学部整形外科教授 A123

慶応義塾大学医学部整形外科教授 A124

日本医科大学整形外科教授 A115をそれぞれ鑑定人に選定して鑑定を為さしめておるのであるが、A122鑑定人は

(イ) A13被告は昭和二四年八月一六日、一七日当時歩行機能の障碍あつたものと認める、その程度は現在の歩行機能障碍程度と大差ないものであつたと思考される、

(ロ) A13被告はその歩行機能障碍のため昭和二四年八月一六日夜から一七日朝にかけて問題の区間の歩行に堪えない程度のものであつたと判断し、

A113、A31、A114三鑑定人は

(イ) A13被告は昭和二四年八月一六日、一七日当時その身体に運動機能特に歩行機能に障碍があつたかどうかについて軽微障碍があつたものと意見が一致し、

(ロ) 右歩行機能の障碍が問題の区間を指定された条件で歩行するに堪えない程度であつたかどうかについてはA113鑑定人は困難ではあるが不可能ではないと判断し(同鑑定人は後に証人として右のいわゆる困難というのは、歩行区間中往路の問題の行程約一里三〇町を四五分ないし五五分位で歩行するには、時に疾走しなければならぬと推察されるがその疾走を含めてA13被告の身体状況から不可能ではないと証言する)、A114鑑定人は旺盛なる精神力が加わるならば歩行に堪えないものではなかつたと判断し(歩行区間中の往路中問題の行程の強行軍も自己の軍隊における六キロ行軍等の経験に鑑みA13被告の身体状況でも歩行可能と認めると証言する)、A115鑑定人は精神力の如何によつては十分歩行可能であると判断しているのである。

右対立する鑑定のいずれがより信頼度が高いかは討論の価値ある問題であろうが私はA122鑑定はその基礎とされた資料において他の三名の鑑定より重要なるものが不足していること及びその鑑定の方法にいささか納得し難いものある点に鑑みて、A122鑑定は俄に首肯し難いものと思料するのである。

右鑑定の優劣はともあれ、重要な点はA13被告の事故発生当時の一般状況であらねばならない。(イ)原審三二回公判におけるA13被告の供述、同七六回公判における証人A125、同七三回公判における証人A126、A127の各証言によつて認められるA13被告は受傷後本件事故発生前において一里有余の道を自転車で通勤し、時には野球をし又は実家の裏山にキノコを採りに行つたという事実、(ロ)原審二四回公判における証人A128の証言によつて認められるA13被告は二二年四月から二四年七月まで庭坂駅に勤務しており、その勤務は一昼夜交代で一日おきに終夜勤務し特に記憶に残るような欠勤病気等のことがなかつた、そして昭和二二年四月から同二四年七月当時まで庭坂駅では春秋、二回位駅員で旅行会をしていた、それは庭坂駅から二、三里位の吾妻山の中腹にある高湯温泉と同駅から一里位のところにある信夫温泉で、高湯に行く道は途中二里位は可なり急な山道で且つ路面も悪くラツクで上るにも難儀な道である、信夫温泉に行く道は大体平坦である、それらの旅行会にA13も大体参加していたとの事実、(ハ)昭和二四年九月二六日付A129医師作成名義のA13被告に対する診断書並びに原審二五回および七八回公判における証人A129の証言(前後二回の証言により認められる)A13被告に対する肛門部手術創の治癒後において本手術瘢痕部をも考慮し椅座に差支ないものと診断したが、右診断当時A13被告は何らの苦痛をも訴えていなかつたとの事実、(ニ)原審七三回公判における証人A130、A131の証言により認められる、A13被告は第一審の検証に立会い相当の距離を歩行したる際にも何ら苦痛を訴えたことのない事実、(ホ)前示A114鑑定は一般に瘢痕というものは初め過敏であるが、時日の経過とともに漸次馴化し鈍化して、やがて大して気にかからなくなるもので、会陰部の手術瘢痕が何時までも、過敏であり股関節の運動制限歩行機能障碍の原因を為すということは普通考え難いところであつて、さればこそA13被告は野球をやり裏山にキノコ採りに行くことが出来たと論及している事実、(ヘ)前示A115鑑定人が証人として骨盤骨折に関する九州大学赤岩外科所属A132氏の論文を始め幾多の論文に基き骨盤骨折は骨折当時死亡すれば格別、生命を取り止めたものは予後極めて良好で歩行機能についても障碍を残すことは少く甚だしい障碍を残す例がないものだとされている旨証言している事実、(ト)A13被告は一審九一回公判の最終陳述で初めて、しかもA12被告が云い出した後になつて、自己の身体障碍の事実を主張した事実(この点に関しこのように主張が遅れたことを以て障碍の部位が露出をはばかるような場所にあるので、耻しくて主張が出来なかつたのであるとか、あるいは当然無罪と思つていたから主張しなかつたとか言うA13被告の弁解はそれ自体不合理で到底首肯できない)、等に鑑みて考えれば本件発生当時のA13被告は軽微な身体障碍しかなかつたものと認むべきものと考えるのである。

論旨中にはA13被告の当夜だけの本件歩行を考察するだけでなく、翌日のA133調査団に代つての活動に影響を及ぼさなかつたかどうかも検討を必要とするので、もしA13被告が本件に参加したとせば翌日の活動は不可能であると主張する者がある。

しかし八月一七日のいわゆるA133調査団は一、二審相被告A30、A97、A12、A13、A10各被告及びA134で構成されたもので、一審六六回公判における証人A135の証言によれば、一七日は午前一〇時半のバスで出発し金谷川小学校附近まで行つて下車し、前示A97被告とA12被告は弁当がなく朝食を済ませていなかつたので、A13被告の弁当を貰つて附近で食事を済ませ徒歩で現場に着いたというのでありその調査の内容は不明であるが二審二八回公判における証人A134の証言によれば、相当歩いたけれども、一里も二里も歩いたというわけでもなく帰りは又さきに下車したところまで歩いて、そこからバスで福島に帰り二時か、三時には帰つて来たというのである。その他原審三二回公判におけるA13被告の供述によれば、同様調査の内容は明瞭でなく、現場を離れた時刻も明らかでないが、弁当をA12被告らにやつて了つたので福島に帰つて昼食したことになつており、最初は午後四時頃帰宅したと述べていたが、(前示A30被告の一審公判における質問で午後七、八時頃まで事務所で話しをしていたと訂正している)いずれにしても、現場に到着したのは午前一一時半頃から一二時頃の間であり、午後一時から二時までの間に、現場を去つたことになるから、この程度の調査が前夜強行作業をしたからといつてできないものとは到底言い得ないものと考えるのである。

(三) 証拠品のバール、スパナは松川線路班のもので犯行に使用されたものか、

(1) 証拠品のバール、スパナは八月一七日午前中顛覆現場附近の水田中から発見されたものである。これが本件作業に使用されたものであるか否か、またこれが前夜松川線路班から盗取されたものであるか否かが争われている。まずバールについては、それに鉄道では一般に使用していない草色のペンキが附着している(現在はそのペンキの色は判定できない。)のは、鉄道で使用しているものでないことを示すとか、バールにX型の疵がついているが、一般のバールの使用法ではこのような疵は附着しないとか、Y字が刻んであるのは国鉄のものでないとか、本件のバールがゲージタイを加工した特殊のものであつて、それが松川線路班に一本だけあつたというのは経験則に違反するとか主張し、更にスパナについてはそれが松川線路班のものである旨の証拠はなく、却つてそうでないとの証拠があるとの主張がある。そして殊にスパナについて発見者が不明であるということは、取調官の工作であるかのように主張がなされているのである。

(2) これらバール、スパナが八月一七日午前中顛覆現場附近の水田中から発見されたものであり、その発見者はバールについては本件事故発生当時線路の遊間調査に従事していて、永井川線路班から本件事故の通報を受け直ちに現場に急行したA136であつて、同人が附近の水田に稲の少し折れた箇所が目についたので自分で入つて探した結果見付けたものであり、その際同所より約一〇米離れたところに稲の折れたような箇所があつたので、そこにも何かあるのではないかと警察官に知らせたが、そこでバールが発見されたことを後刻聞いたというのであつて(二審証人A136の証言)、このことは現場の検証に当つた検察事務官A63によつて確認されている。(二審二六回公判同証人の証言参照)そして発見の時刻は松川線路班工手A73が午前七時五〇分頃現場に到着した際に既に発見されていたというのである。(二審二〇回公判の同人の証言参照)

(3) 右A13の証言によれば、証拠品のバールは戦時中ゲージタイを加工して作成したものであつて他の線路班にもあり(先端にラセンが付いているので判る)また英字の刻まれたものも見たことがあるというのである。従つて、バールに、英字が刻んであつても、またそれがゲージタイの加工品であつてもそれが松川線路班のものでないということにはならない。草色のペンキについてはA13証人は何故附着したか見当がつかない旨証言しているが、これはそれまでの作業中に附着しなくとも証拠品集取から、その保存の間につかなかつたとも直ちに断定できないことであるし、国鉄で使用しないペンキ色が附着していたからとて、国鉄のものといえないとまで断定はできない。縦疵についても右A13証言によれば、作業の際につくことはないが製造の際につくことはあり得るというのであつて、これもこの疵があるからといつて松川線路班の所属たることを否定することはできない。そしてA13証言及び松川線路班工手A72証言(二審二〇回公判)によれば、いずれもこのバール、スパナが松川線路班のものであるとは断言はしていないが、これは具体的の特徴を記憶していない以上確定できないというだけのことで、そうでないとはいつておらず、とにかく当時現場でバール一挺スパナ一挺が発見されたことから、同人らで松川線路班に連絡し同線路班でバール一挺スパナ一挺紛失されたというのであるから、そのような事実及び右両名の供述の全趣旨から本件のバール、スパナが松川線路班所属のものであると推認できないわけのものでなく、そこに重大な事実の誤認があるものとは認められない。

(四) 論旨は証拠品たるバール、スパナが本件犯行に用いられた旨の確証がないという。しかしバールについてはその爪と犬釘を抜いたものの光沢、枕木の傷痕が一致した旨の検察事務官の検証調書により、本件犯行に使用したものであることが明らかであり、またスパナについては、本件犯行に使用されたとの直接の証拠はないが、このスパナで継目板のボールト、ナツトを緩解し、これを取り外すことができ且つその際スパナが破損するとは限らないことも明らかである。(これらの点については後記参照)そしてこのような器具が前記のように本件犬釘抜取に使用されたことが明らかなバールの附近に遺棄されていたということは、このスパナも継目板の取外しに使用されたものであることを示して余りあるものである。

(五) また論旨中にはバール、スパナが松川線路班で紛失したとしても、それが八月一六日夕刻から本件事故発生までの間に紛失したことにならないと主張し、事故発生から調査までの間に紛失することも考えられると主張するものがあるが、A20、A21、A22各被告が八月一六日午後一〇時半過頃松川線路班から持ち出したものであること、それをA15、A19の両名が犯行の現場に持参したものであることが認められる以上は所論は採用の限りではない。

(六) 継目板二箇所切断の事実は原審以来争がなくなつているのであるが、この事実に対し一箇所切断を内容とするA4自白以外これを確むる証拠は皆目ない、この点はどう説明するのであるかということは激しく争われているところである。成程、脱線てん覆作業に参加した被告らが右二箇所を切断したという自白調書も、またその目撃証言もなく、単に一箇所の取外しを認めるA4調書と一箇所とも二箇所とも云わず、単に継目板を取り外していた事実を認めるA19調書があるだけであることも明らかである。しかし、肝腎な点は当夜現場において、右被告ら五名が継目板二箇所を切断した事実があつたかどうかという現実そのものの究明である。証拠関係を按ずるに、右A4、A19両被告の各自白調書を始め、一審におけるA63名義の検証調書、仙台鉄道局福島管理部長名義金谷川松川間列車脱線事故調書(証第一〇号)A60外二名の鑑定書、原審一五回公判における証人A137、同二六回公判における証人A63、同六一回及び六二回公判における証人A26、同二七回公判における証人A65、同二八回公判における証人A138、A139、同四八回公判における証人A140の各証言、写真七葉(証第七六号の二ないし八)、関係書類追送書と題する書面(証第七七号)の存在等の各証拠を綜合すれば被告ら五名で右継目板二箇所の取外しをしたという事実は認められないことはないのである。従つて原判決にはこの点において判決に影響を及ぼす程の重大な事実誤認があるものとは云えない。

論旨は継目板一箇所切断を内容とする右A4自白は右の如き現実の事態と合致しない、これこそA4自白がデツチ上げで虚偽架空のものであることの有力な証左であると主張する。

しかし、昭和二四年一〇月一日附A26検事のA4調書及び同一〇月五日附A7裁判官のA19調書によつても認められるように、当夜は一〇メートル位離れれば人の姿が分らなくなる位の暗さであり、そのような暗い場所で二、三〇分の間に、はなればなれに大急ぎで作業をし、その間にA4は「A12は継目板一箇所を完全に取り外すのを見た」というのであるから、問題の右A4自白は自分の見た処ではとか、記憶の範囲内ではとかいう前提の下に為されたものと解されるから、A4自白の中に継目板取外しの点が一箇所しかないということだけで、その自白全体をデツチ上げであり虚偽架空のものであるとは到底云い難いものと考えるのである。

(七) 本件証拠品である証第一号の五の自在スパナを以て前示二箇所の継目板の取り外しが可能であるか、可能であるとしてもA4自白に沿う時間内、すなわち約二、三〇分ないし二七、八分程度の作業時間内でそれが可能であるかどうかは、原審において激しく争われたところである。原審はこの点に特に意を用い学理的(物理的)に究明すべきものとし、

日本国有鉄道施設局保線課事故係主席

A141同課線路計画係主席

A142同課作業係主席

A143東北大学工学部機械工学科教授

A61山形大学工学部機械工学科教授

A60

を鑑定人に選定の上、前示作業の可能性につき広汎且つ周到なデータを提供して鑑定を命じ、更に右鑑定人を証人として尋問し、右鑑定人らは多大の努力を傾倒して事に当り、詳細且つ綿密な鑑定書を提出しているのである。

しかし、思うに本件作業が可能であつたかどうかということは、物理的究明を度外視して断定し得ないことは勿論であるが、この場合肝腎なことは本件スパナを以て問題の作業を当夜の条件に即して実際にやつてやれたかどうかというなまの事実そのものの究明である。然るに一審昭和二五年四月七日の検証の結果、同じく同年六月八日の検証の結果、二審同二七年六月一六日の検証の結果、原審二〇回公判における証人A73、A72の各証言、同三四回公判における証人A144の証言、同七五回公判における証人A145の証言、同四一回、四五回、五四回各公判における証人A80の証言に徴すると、本作業は現実の問題として必ずしも不可能の事ではなかつたことが是認されるのであり、しかも前記鑑定人らの各鑑定書及び証言(調書)を熟読吟味すれば、本作業は学問的に究明しても、物理的に絶対不能事に属するものではないことが確め得られるのである。してみれば原判決は本問題の点においても判決に影響を及ぼす程の重大な事実の誤認がないものと云うべきである。なお、前示証人A80は原審四一回公判において、「自分はA4被告の自供後、本件自在スパナを使つて本件現場附近で継目板取り外しの作業を試みたところ、容易に取り外しができた」旨の供述をしており、この供述によると、本事件発生後間もなく警察当局はこの点の究明に着手し、その可能なことを確めたことが明らかであり、この実験は事件当時に接着して列車てん覆の現場附近で行われ、レールの状況等も事件当時と殆ど変更なかつたものと推定され、本事件解明の為めには、看過し得ない点であると考えられるのである。そして原審六一回公判における証人A26の左記証言は右事実を裏書して十分なものがあるのである。すなわち右証人は裁判長の問に対し左記のように答えている。

『問 事故現場で発見されたバール、スパナでA4被告の供述のような作業が出来るかどうかについて実験若しくは調査等をしたか。

答 しました。鉄道の保線関係の職員に現物を見せて、しばしばきいたのでありますが、いずれもそういう作業は出来るという答えでありました。

問 証拠のバールで犬釘をぬくことは出来るかも知れないが、証拠の自在スパナで継目のボールト、ナツトを取外し、継目板を取外すことも出来るという答えであつたというのか。

答 左様であります。

問 普通証拠の自在スパナの様なものでは継目板の取付け、取外しをしていないということを当時証人は知つていたか。

答 きいて知つておりました、通常は固定式の大きいスパナを用いていると申しておりました。

問 証人や警察官は継目板を取外すことの実験をしてみなかつたか。

答 私は実験してみませんが警察官は実験してみたようであります、然し私はその実験の場を見ておりません。

問 警察官が浅川踏切り附近で左様な実験をしたとき、証人もそれに立会つたのではなかつだか。

答 私は行つておりません。

問 そのように実験をして見た結果を証人は知つているか。

答 知つております、「出来る」と申しておりました、尚只今思い出しましたが、その実験には私も立会う心算で出かけて行つたが遅れて行つた為に間に合わなかつたように思います、いずれにしてもその実験の場面を見なかつたことははつきりしております。

問 証人は、継目板を鉄道の職員が実際に取外す場合、どのようにしてやるかという点について調査をしたか。

答 調査致しました。それに依りますと、固定式の大きなスパナでボールト、ナツトを取外してから継目板をたたけば外れると申しておりました。

問 どんなものでたたけば外れるというのか。

答 その点どうだつたか記憶しておりません。

問 証拠の自在スパナ程度の大きさの物でたたいても外れるというのか。答 その様な説明であつた様にも思います。』云々

(八) 本件実行行為の認定に対し右被告ら主張の各アリバイの成否が重大な影響をもつことは云うまでもない。もし右アリバイの成立が認められるとすれば原判示実行行為の認定は根底から崩れるかもしれないのである。よつて以下右各アリバイの成否について検討言及することとする。

(1) A12被告のアリバイについて。

同被告は八月一六日夜から八月一七日朝にかけての自分の本当の行動は次のようであると主張する。すなわち、「八月一六日の晩自分はA9、A11らと共にA30方で酒の振舞を受け、同人宅を辞去したのは一〇時半近くであつた。そして福島駅前のA146旅館の角までは普通の徒歩所要時間二五分のところ、、酔つていたので既に一一時に達していた、そこで立止つて五分位話をしてから別れ帰宅の途についたのであるが、酔つて歩いたため、吐気を催し組合事務所(国鉄支部)の側まで行つた頃には歩行が苦しく、それからなお三〇分を要する自宅まで帰ることが苦痛に思われたので、組合事務所に入つた。事務所内にはA117が近所の青年と将棋をさしていたので「A105君酔払つてきて悪いな、かんべんしてくれ」といつて、宿直室の畳に靴も脱がずに引つくり返つてしまつたが、A105がすぐ私の寝る床を敷いてくれたので、靴をねいで上つてシヤツもズボンも着たままで寝てしまつた。そのとき宿直室には蚊張が吊つてあり、西からA104、A103、A134の三人が寝ていた。A105は毛布をかけてくれ、また将棋の場所に行つたが、しばらくして吐気があるため熟睡できないでいるうちにガタガタ下駄の音がして枕元で「奴さん参ちやつたな」というA11の声を聞いたのを憶えている。それから後は翌朝まだ暗いうちに「保線区のA13という人の家を知らないか」といつてA105に揺り起されるまで熟睡していた。揺り起されても起上る気力もない程非常に眠かつたし、A13という人の家も知らなかつたので、「知らない」と答えてそのまま寝ていた。(尤も私の記憶ではこの時起されたことは記憶していない。)私の記憶ではA105に起されて、一番先に掛つた電話は、郡山分会の書記A147からの電話であつた。電話の内容は「事故現場に調査団を出してくれ」ということだつた。しかし、記憶ではこの薄井の電話で「金谷川、松川間に貨車十五輌とか三十輌の脱線らしい」ということで、列車番号も、その他詳しいことも分らなかつた。それで事故の状況を知るために、かつての自分の職場である郡山駅運転の輸送司令に電話した。そのときに電話に出たのがA41で事故の模様をきいたところ、「機関車と客車が二、三輌脱線したらしいが、乗客には別条がない」ということであつた。その話しぶりが非常に忙しい様子なので、長いことは話しせずに電話を切つて蚊帳の中に戻つた、私が電話しているのを聞いてA103、A134、A104、A105が起きていたので、「乗客には別条ないそうだから大したことはないだろう、調査団を出すまでもないだろう」と話し、外はまだ暗かつたし、眠い為に勝手にそう決めてしまい、又直ぐ寝てしまつて、朝九時頃組合に来たA135に起されるまで熟睡していた。その時は宿直室に寝ていたのはA12一人だつた。女の書記A148、A149も出動していた。」との旨の主張をし、なお、「A150と共に歩いている間に陣場町の管理部長官舎前で雨にあつたが、その雨は、原審証人A151が証言している当夜の第一回の雨、即ち十時四十二分からの雨であつた」と主張し、なお、「十七日朝A137から電話があつたとき、A117から列車事故があつたことを聞かせられた」とも述べている。証拠を検討するに、八月一六日夜A104、A103、A134、A117が国鉄支部宿直室(畳五枚を並べた一間に二間半の部屋)に蚊帳を吊つて右の順で宿泊したことは明らかであるが、問題は先ずA12がそのような狭い場所え来てA117に床を敷いて貰い且つ介抱されながら他の三人に気付かれないままで横になり、翌朝九時頃まで寝ていたかどうかという点である。この点について原審二八回公判において証人A134は「私が寝てからA12が来ました、来た時刻は判りません、正確な時刻ではありませんが、眠りに入つてから一時半か二時頃私は小便に起きましたところ、泊る予定になつていた私達四人以外にも一人誰かが毛布を掛けて寝て居りました、それで私は小便より帰つて来てから毛布をめくつてみましたところ、その人がA12であることが判りました、それでA12によく毛布をかけてやつて、自分の寝床に戻つて又眠つたのであります」旨供述し、また一審七〇回公判における証人A103は「八月一七日朝、二時半か三時頃一度目をさまし、また寝て七時頃起きたと記憶している。A117は私より先に起きていました。私が起きたとき宿直室に寝ていた者があつた。顔は毛布をかぶつていたので私が起きるときは誰か判らなかつたが後で皆出てくるようになつたとき、それがA12であつたことを記憶する」旨供述し、いずれもA12のアリバイを裏書するが如き供述をしているのであるが、右両証人ともA12がA105に介抱されて寝付いた場面を気付いたとはいささかも供述していないのであり、もしそうだとすれば右のような狭い部屋で不自然な事態といわなければならない。のみならず、右両名の供述を後記証人A117の供述に対照するときは、全く対蹠的であり、到底措信し難い。また、一審六六回公判における証人A135は

『八月十七日朝私は、午前八時半頃福島市a町b番地A152方を出て、八時五十四分かの上り列車に乗ろうとして八時四十五分頃駅に着いたところ、改札口の掲示板に「事故のため上り列車は行かない」と書いてあつたが、何の事故か、判らぬので国鉄支部に行つた。それは八時五十分頃と思う。国鉄支部入り口真向いの所の向つて左側の机に当時A133青年団に一部貸していたところで、女一人混えて四人が飯を食べていた。又右の方の机は総務の方になつているがそこでは庶務のA148が事務をとつて居り、その前の宿直者が寝る処が四畳敷位の部屋で、そこに誰か寝て居た。私はA148に「お早う、暫らくでした。誰も居ないのですが、上り方面の列車は不通ですが、何かあつたのですか」などと話してから「そこに寝ているのは誰ですか」と尋ねると、「A12さんです」と教えられ、そこに寝ているのが、A12であることが判つた。シヤツの下に黒いズボンをはき、毛布を被つて寝ていた。起して挨拶しようと思い、起したところ、目をこすりながら、起きて、「暫くだつた」というわけで、それから四方山の話に入つた。その時A12は、二日酔のような状態であつた。A12は余り酒を呑まない人であるが、後できくと「昨夜酒をのんで、頭がガンガンする」といつていた。お盆でA30(A30)の所で御馳走になつたといつていた。それからA12と話しているうちに、てん覆の内容も次第に判つて来た。それに私が帰ろうと思つていたところに汽車が行かないことも判つたので、それから二人で雑談をしていた。その後組合事務所には、組合関係の人が沢山来た。その中にA13、A97、A30、A10、県労の三輪がいた。その人達が来たとき、A30がA12を見ると、「痛い、A12の野郎昨晩暴れて歯がグラグラした」などといつていた。列車事故については、A133調査団を派遣することになり、調査団が出かけた。調査団は、仙台方面から来た起重機のようなものを載せた列車に乗せてもらおうとしたが、それは発車してしまい、九時半のバスも出た後なので、十時半のバスで行く事になり、富士銀行脇の停留所に行き、結局二本松行の臨時バスに乗つて行つた。その顔触れは、A30、A10、A12、A97、A13、私、外にもう一人民青のヅツクリした色の黒い人と計七名であつた、』旨(以上弁護人の問に対する供述)

「八月十七日朝、国鉄支部で私がA12を起したときA12は列車の脱線事故を知つていた様子であつた。郡山のA41さんとかあちこちから電話がかかつて来たということであつた。だからA12は事故を知つていながら寝ていたことになる。A148は、私がA12を起すところを見ていたと思う。A12は宿直室の入り口から入つて寝る方に行つたところの手前の方である。足を机の方即ちA148の居た方に向け、頭は窓際の方に向けて居た。毛布は被つていた。A12を起してから同人と話したのは時間にして十分位のものである。その場所は机の前で、起きて立つたところの板の間である。その時A148は矢張り机に向つて居た。事故については、A12と話していて判つたというのは、A12は電話がかかつて来たとかで判つていたので、自然事故か妨害事故か判らないということであつた。」旨(以上田島検察官の問に対する供述)供述し、更にA12被告の寝ていた姿勢につき、A12被告の問に対し(問)「その時足を机の方に頭を窓の方に向けて寝てたというが、証人は私を起す時畳に腰をかけて私の肩をゆすぶつたのではありませんか」(答)「起した時はそうでした。」(問)「それで足が机の方に向つて居りましたか、窓の方が足だつたのではありませんか」(答)「私の記憶違いかも知れませんね。私が起すには右の手をづつと延ばさねばならない訳ですから、それに毛布を外して直ぐ答えたのですから、記憶違いかも知れませんがはつきり致しません」旨供述し、

一審三三回公判における証人A148は

「私は昭和二十三年七月十五日からA3労組福島支部有給書記をしている。本件列車事故のあつた昨年八月十七日朝、私は午前七時五十分頃に組合に出勤した。七時五十分頃というのは私が事務所に着いた時刻である。私はその時一人で出勤したのではなく、同じ笹木野駅から一緒に通勤しているA149と一緒であつた。事務所に着いてから普通の日と変らず、私は掃除をした。その日朝出勤すると、A117が机の所で電話をかけて居た。私はその時A105から、列車事故があつたことを聞いた。私は組合にいて、いろいろ列車の話を聞いて居るので、別に大した事故でもないと思つて、自分の机の処で、新聞を読んでいた。右事務所内に畳の敷いてある部屋がある。そこは、私が執務するところから二間位離れているが、その部屋は私の机から真向いになつている。私は事務所に来て入るとすぐにその畳のしいてある部屋を見た。私は朝出勤すると習慣になつて畳の敷いてある部屋を見ているが、偶には、宿直員が寝ていることもある。其の日(八月十七日)は寝て居た。そこで寝ている処に入つて行くのも悪いので、誰が寝ていたか確めなかつたが、寝ていたことだけは確かである。その人は、ラジオの方に向つて、毛布を着て寝ていたように記憶している。私は、自分の腰かけにかけてからは別段に見ない。私は事務室にA79さんと一緒に入つた時、「A12さんまだ寝ているのだね」といつて話合つたことを記憶して居る。A12さんとはA12のことである。それからはA79さんも私も机の処に来て新聞を見ていたが、それからは別に二人の間では寝ている人の話はしなかつた。畳の間に寝ていた人が起きるのは気がつかなかつた。右の寝ているのがA12さんだと判つたのは、普通頭の恰好で誰だか判る。その時も確めては見ないが、頭の恰好からA12さんと思つたのである。八月十七日の日に、A3労組福島支部事務所にA3労組関係者で出勤した人で名前を覚えているのはA30、A11、A97、A13、A10位である。A13が出勤した時間については覚えていない。一番最初はA11、次はA30だと思うが、その日出て来た人達はあの人もいるなあと感じただけで、其の次に誰が来たとかいう順序ははつきり判らない。出勤した人達は、皆がラジオで聞いたといつて事故のあつたことを話していた。そしてあんな酷い事故では組合でも調査しなければならない、それには調査団を組織して現場を見に行こうといつてカメラを探したり等して、とても忙しい様であつた。その調査団の中にはA12も加つていた。調査団が出発したのは十時頃と思う。』旨及び『私はA135を知つている。同人は若松分会の書記をしていたので知つている。八月十七日朝A135は国鉄支部事務所に来た。A135は皆何処え行つたかときいた、A135は皆が出かけてから来たのである。私はそうきかれて、今日は列車事故現場を調査するとて、十時半頃皆出かけたので、大急ぎで行かねと間に合わないと答えた。その朝A135から「畳の部屋に寝ているのは誰ですか」ときかれたことはない』旨(いずれも弁護人の問に対する供述)各供述し、

同じ公判における証人A149は、

『私は昭和二十四年二月十五日から、同年十一月頃迄福島地区労働組合会議(略称地区労)の有給書記をしていた。地区労の事務所はA3労組福島支部事務所内にあつた。本件列車事故のあつた八月十七日朝私は七時五十分頃事務所に出勤した。A3労組福島支部に勤めているA148テル子と二人一緒に出勤したのであつた。私がその朝出動した際、別に話というわけではないが事務所に入つてすぐ、A148が私に「A12さんがまだ寝ているんですね」と話掛けられたことがある。そこで私は振返つてA12が寝ているところを見た。A12は組合事務所の宿直室である畳の敷いてある部屋に寝て居た。私は、それが誰であるかということはよく判らなかつたが、丸くなつて寝ていたのが、A12ではないかと思つた。その時布団でも被つていたかどうか記憶ない。私がその人をA12だと思つたのは頭の形がA12に似ていたのでその様に思つた。それから私達は仕事を始めたのであるが仕事を始める前に、A148のところに行つて、新聞を読んだことがある。A148の机と畳の部屋は二間位離れているがA148の机に向えば、畳の部屋が向い合つている。畳の部屋に寝ていた人が起きるところを私達は見ていないが、新聞を読んでいるときに黒板の前に来たのがA12であつた。その時のA12の姿は今起きたばかりの様子であつたが、どんな様子であつたかはつきりした記憶はない。A12が黒板の処にいたのは記憶している、そしてA12はてん覆のあつたことを聞いていたようであつた。それは私がA148の机の処にいた時見たのである。その時畳の部屋には誰も居なかつたように思う。私がA148と共に出動した時事務所にいたのは、A134、A104、A117、A103等であつたと思う。その日A3労組福島支部の人で出勤した人の内、私が現在記憶しているのはA30、A31、A97、A11である。それらの人達は、支部事務所に来て、列車てん覆の調査団として現場に行くという話をしていた。調査団の顔ぶれで私が記憶しているのは、A30、A31、A97、A12である。調査団が出発した時刻ははつきり記憶していないが、午後からであつたと思う。そして帰つたのは午後四時か五時頃かと思う。私はA135を知つているが、同人が八月十七日朝労組事務所に来た記憶はない。』旨(以上大塚弁護人の問に対する供述)及び「八月十七日朝私が労組事務所に行つた時畳の間に寝ていた人は、入口の方に寝ていた。その時寝ていたのは二人であつたような気がする。私がA12だと思つた人はラジオの方に寝ていた。もう一人の人はそのすぐ脇に寝ていた。そこに寝ていた人がA12であるかどうかはつきりはしないが、A12だと思つた。もう一人の人はA103だと思う」旨(以上田島検察官の質問に対する供述)「八月十七日朝A12の寝ているところを見たといい、田島検事の問に対してはA12とはつきり判らなかつたという趣旨のことを答えたが、A12のような気がしたのである。私が新聞を見ている間に黒板のところに来たのは正にA12であつた。A103、A12の二人が寝ていたといつたが、二人とも毛布を被つて寝ていたかどうか記憶がない。私がA148と一緒に新聞を見た時間は私等が支部事務所に行つてから二十分位後で、八時十分頃である。」旨(以上A31被告の問に対する供述)及び「八月十七日の朝、私が事務所に入つた時は、A134と思うが、私が入るのと擦れ違いに事務所を出て行つたように記憶する。それから事務所に入るとA104、A105が起きて居り、外に二人が寝ていた」旨(A24弁護人の問に対する供述)供述し、

以上いずれもA12の右主張に照応するが如き供述をしているのであるが、その供述の間においてすら重要な部分に喰い違いがあり、これを後記A117の証言と対比するときはこれ亦対蹠的で到底措信するを得ないものと謂わざるを得ない。

A12が当朝電話に掛かつたかどうかは同人のアリバイの成否を決するに付いて相当重要な点である。

この点の同被告主張の要旨は、電話は、

(a) 福島保線区A137から国鉄支部にかかつたものであり、これはA117が応対に出たもので自分の記憶にはない、

(b) 郡山分会から国鉄支部にかかつたもので、これは右(a)の電話後間もなくかかつたもので、A117がかかり、A12を起して取次いだ、郡山分会ではA147が電話に出た、A12はこの電話で事故を知つた、

(c) A12から郡山駅運転掛のA41にかけたもので、これは右郡山分会からの電話で事故発生を知りその内容を問合せたものであるというのである。

しかし、証拠関係を案ずれば、A12主張のような事実は認められず、右(a)、(b)、(c)いずれの場合でも外部から国鉄支部にかかつてきたものであり、国鉄支部から掛けたものはなく、その発信者は(a)の場合はA137であり、(b)の場合はA153であり、(c)の場合はA41であつて、A12被告は発信者としても受信者としても電話にかかつたことはなく、右いずれの場合もA117が電話にかかつたことが認められるのである。この点は後述のA117の証言の検討の場面で自ら言及するであろうが、A12被告が一六日夜国鉄支部に宿泊していたことを夜半に知つたと述べている前示A134証人すら同じ公判でA24弁護人の問に対し「八月一七日朝私はA117以外の人が電話をかけているのは見ない」旨、またA13裁判官の問に対しては「八月一七日朝電話がかかつて来てA105が電話に出た際、A12は寝ていた、A12は電話に出なかつたと思う」旨供述をしており、また一審六六回公判において右A153は証人として「国鉄支部に二回電話をしたが、支部で出たものは同じ人であること、その者は今日は役員(A12被告は国鉄支部の宣伝部長、役員である)はいない」旨云つたと供述しているのである。この点に関する原審八四回公判における証人A41の供述は前後撞着首尾一貫せず、到底措信し難い。

A12アリバイに関するA117の一、二審公判における証言はA12に極めて不利であると同時に本件実行行為の認定の上で極めて重大なポイントを成しているのである。A105は次の如く供述する。一審一五回公判において「八月一六日の晩寝たのは私とA134、A103、A104の四名だつたと思います、その晩右に述べた以外に泊つた人はありません、A12さんは居りませんでした、その晩管理部内の保線区、郡山分会等から三回位電話が掛つて来てそれにかかりました、A12さんが労働組合に泊つたのは酒を飲んで来て泊つたということですが、私が一六日の晩泊つたときには一七日朝六時頃までには皆が起きておりますから、その点からしてもA12さんが二日酔で翌朝九時頃まで寝て居たということは考えられないのです」と云い、また原審四二回公判において「その晩組合事務所に泊つたのは、四、五人であつたと思いますがはつきりしません、国鉄関係者と云いましようか、組合の係の人といいましようか、そういう立場にある人は誰も泊りませんでした、これははつきり云えます、その晩全部で三回位電話がかかつて来たと思います、電話がかかつて来たとき、その電話の内容を私はそこに寝ていた者皆に知らせたのですが、その人達は起きてしまつたというのではなく、ただびつくりして床から出て窓から外を見たりしておりました私は事故の電話を聞いてから眠れないので、翌朝は普段より早く起きたのであります。私以外の人もそのまま私と一緒に起きたと思います。八月一六日の夜電話がかかつて来て事故のあつたことを知つたとき、国鉄関係の人は誰もいなかつた、もしおれば自分には何ら関係のない電話であるからその人に電話を引継いだ筈である」というのである。思うにA12被告は当時A3労組福島支部の執行委員であり且情報宣伝部長の地位にあつたものであるから、もし本当にその夜労組事務所に宿泊していたとするならば、A117は右供述の如く右電話をA12に引継いだであろうし、また当夜の状況として皆は驚いて起き上つたというのであるから、A12もその地位に鑑み何らかの行動に出ずべく活動を開始するを当然とするに拘らず(A12のアリバイ主張は最初の電話の内容は「事故現場に調査団を出してくれ」というのであつて、現にその調査団が早朝結成されて現場に急行しているのである)、A12被告はただ漫然とA105に起されて一番先に掛つた電話は郡山分会からの電話で金谷川松川間に貨車一五輔とか三〇輔の脱線らしいということで列車番号その他詳しいことも分らなかつたので、事故の状況を知る為め郡山駅運転の輸送司令に電話し、「機関車と客車が二、三輌脱線したらしいが乗客には別条ないときき、大したことはないだろう、調査団を出すまでもないだろうと云つてまたすぐ寝てしまつて朝九時まで熟睡した」というのである(その間にいわゆるA133調査団が出来上つて一、二審相被告のA97、A30、相被告のA10、A13らが現場に急行しているのである)。右両者の陳述はいずれが真実を物語るものであろうか。私は両者の供述を比照し且前示証人の供述等を勘案して考察するときは、A12の供述の容易に信用し難いものあるを感ずるのである。尤もA117は最初警察において取調を受けた際は、A12被告は当夜組合事務所に泊つた旨供述し、後に前示公判において前言を翻えし前示のように供述するに至つたものであることは記録上明かな事実である。この点についてA105は証人として次の如く供述する。すなわち一審一五回公判において「私はいろいろ考えてみましたが、一七日の朝にはそのような事件が起きた為皆早く起きたのです、それを思い合わせますと皆が起きたにも拘らず一人だけ寝ているわけはないのです、その日は泊つていないということが判つたのです、私が一六日の晩泊つたときには一七日の朝六時頃までには皆が起きて居りますからその点からしてもA12さんが翌朝九時頃まで寝て居たということは考えられないのです、そういうことを考え合わせますとA12さんが泊らなかつたことははつきり言えるのです」といい、また原審四二回公判において「私が最初警察の取調を受けた頃は、その晩A12は組組合事務所に泊つたと記憶するという趣旨を供述致しました、それが、その後いろいろ考えた結果、A12はその晩労組事務所に泊らなかつたと思うようになつたのは、八月一六日の夜電話がかかつて来て事故のあつたことを知つたとき国鉄関係の人は誰もいなかつた、もしおれば自分には何ら関係のない電話であるからその人に電話を引継いだ筈である、しかるにそういうことがなかつたので国鉄関係者は居なかつた、従つてA12さんもいなかつたと考えたからです、最初A12が泊つたと思つたのは、警察に行つて調べられる前に組合事務所の人達といろいろ話をしたとき、A12さんが泊つていないという話がありましたので、私もそのように思つていたのです、それからそうでないということが調べられている中に考えて判つたのです」と云つているのである。何人にも記憶違いはあるであろう。A105の場合もその例外であるとは認められず、そこに何ら無理があるものとも認められない。所論はA117とA26検事との間に特殊の関係があり、A105は検察官の意に迎合して右の如き証言をなしたものであると主張するが、そのようなことを認めしむる証跡は全記録を通じても見当らない。なお前示原審四二回公判における証人A117とA12被告との問答の一とこまは本件の審理において最も劇的ないわばクライマツクスとでも云つて然るべき場面である。その問答は次の如きものである「 問 私が酔つて組合事務所に行き証人に介抱されてその晩は組合事務所に泊りA148さん等が出動するまで寝ていたということは証人も認めております、その日がいつであつたかもう一度考直していただけませんか、その日が八月一六日の晩でないということを証人は確信を以て断言できますか。

答 断言できます。

問 八月一六日でないと断言されるのですか。

答 そうです。

問 私が酔つて組合事務所に泊つたことは事実あるのですね。

答 事実ありました。

問 そして証人が私を介抱してくれたことも事実あるのですね。

答 あります。

問 私は三年の間組合に勤務していましたが酒を飲んで生態もなく組合に泊つたことは只の一回しかありません、それがお盆の十六日であつて、あの八月十六日の晩です、そして今でもあの晩あなたが私を寝かせてくれ、毛布もかけてくれ夜中に僕を起して電話に出してくれたそして僕は次の日の朝おそくまで寝ていたたことに私の記憶は変りないのです。

裁判長

問 証人の記憶は変りないのか。

答 変りないです。

被告人A12

問 証人はその朝A148さん等も僕の寝ているのを見ているといつています、それについてA148さんもそれが八月十七日であつたと言つておられます、夜中に電話がかかつて来てあなたが聞かない電話を私がきいております、電話は最初から客車二輌ではなく貨車の脱線であつたのです、A134君もA103君も大体これを認めております、A104さんも証人にはなつておりませんがあの警察調書の前の方を見れば明らかにその晩私が泊つており事故通知の電話は私がきいたと言つております、それでもあんたはがんばられるでしょうか。

答 僕の記憶では先程来述べているようにしか思はれないのです。

問 僕はこれで無実を着て絞首台に吊されても矢張僕の無実を信じ又は証明するのはあなた以外にないということを信じていなければならないのです、それでも思い出してはいただけないでしようか、こんな惨酷なことがありましようか、無実で殺されるものが矢張りあなたを信じていなければならないのです。裁判長

問 証人の供述は記憶の儘か。

答 そうです。

問 記憶は違はないか。

答 A12さんについての僕の気持は本当に先程来述べたようにしか思えないです、僕の記憶はどういうようにきかれても違いありません、私の証言でA12さんの白黒が分れるということは知りませんが、仮りにそれが事実としても記憶通り述べる自分の気持を変えることは出来ません。」

私は以上の問答を調書の上で読んだばかりでなく、録音によつてもきいたのである。A12被告は右最後の言葉を鳴咽しつつ述べており、まことに悲痛であわれにも感じたが、右両者の発言のいずれが真実を語つているであろうか。聞き了つて思い半ばに過ぎるものあるを感じた次第であつた。

以上を要するに、A12被告のアリバイの主張は所論A30方からの同被告の足取り等の点の審究をまつまでもなく、首肯し難いところであつて、右アリバイは到底成立しないものと認めざるを得ないのである。(2) A13被告のアリバイについて

この点につき、一審三四回公判においてA13被告の妻A13キイは証人として「昭和二四年八月一六日夜は午後一〇時半頃盆踊の見物から帰宅し、ミシンをいじつて午後一一時過ぎ頃夫のA13と一緒に就寝した、一一時半頃、二時過頃、四時一寸過頃の三回子供のおむつを取替えたとき主人は三回共寝ていた、私と主人は六時過頃目をさましたが、私は先に七時半頃起きた」旨証言しているのであるがこの証言は一審一五回公判における前示A117証人の次の如き供述と抵触するのである。すなわちA105は「その朝一番早く出勤したのはA13であつた、皆が起きたのは六時頃で、A13の出勤はその頃である、時間の点ははつきり分らないが、とにかく明るくなつて間もなく出動して来た。自分はA13に郡山分会からかかつてきた列車脱線てんぷく事故の電話の内容を話した処、A13は何んだか判つているといつたような口吻であつた」と供述し、更にA13と次の如き問答を交しているのである。問はA13である。

『問 証人(A105のこと)は一六日から一七日にかけてA12君が泊らないことと私が一七日の朝早く、私が六時頃出勤したこととを断言出来るのですか。

答 出来ます、新聞が配達されると間もなく出勤されて来たので、私はあなたに「えらく早いですね」と云つた覚えがありませんか、そしたらあなたは「うん」と云いました、それから私が「事件がありました」と云つたら、あなたは「判つて居る」と答え、そしてあなたは私に「新聞が来て居ないか」と云われてから机に向つて何か探し物をされて居たのではありませんか。(註、A13はこの反問に何ら答えようとはしない。)

問 それから証人はA12君の質問に対して最初は一六日の晩A12さんが泊つていたと思つていたがその後行き違いが出来たため、だんだんと思い出したところが、泊らないという事が判つたということですが、その行き違いというのは何を標準にしていうのですか。

答 私はA12さんと一緒に泊つたことは相当あります、それで私はこの事件について誰れからも干渉されずにそういうことや、それから皆からA12さんはその晩酒を飲んで酔つて来て泊つたのだと云われましたので、私もそう思つたのです、ところが冷静に考えてみますとA12さんが酒に酔つて来たのは再三ということはなく、一、二回位のものであり又A12さんが二日酔とか何んかで朝九時頃迄寝ていたことはA148さんやA79さんも知つています、それでそう変つてきたのです。』といつているのである。

以上のとおりであるが、私はA13キイの供述の中には著しく矛盾撞着の点があり、真実を捕捉し難い点(右証人は七時半に起床したと云いながら、他方においてラジオで七時の列車てんぷくのニユースをきき、最後まで聞かないで下に行つて炊事をしたなどと述べている)あるに反し、A117の供述は一応整然としているに鑑み、A105の供述が真相に触れているものと認め、A13キイの供述は信用し難いものと認めるのである。なお、A13被告夫妻はA68方二階四畳半を間借りしていたのであるが、事件当日A13の出入を家主A68が気付かなかつたからといつてA13が外出したり帰宅したり、しなかつたものとは断定できるわけのものでないとした原判決の判断は相当と認める。

以上の次第でA13被告が八月一六日夜一〇時半以後一七日午前七時半まで終始自宅におり、外出したことがない旨のアリバイ主張は首肯し難く右アリバイ主張は成立しないものと考えるのである。

(3) A4被告のアリバイについて

この点についてA4被告は自分は八月一七日は午前零時から同一時頃までの間に帰宅して就寝、それから朝起床まで在宅していたものであると主張し、同人の祖母赤間A43は一審二八回の公判において証人として右に照応するが如き供述をしているのである。しかし右A43の供述を具さに検討すると、その内容は明確と云うを得ず、むしろとりとめなく捕そくし難いものあるを感ずるのである。赤間A43は右公判において弁護人の問に対し次の如く応答している。

「問 その晩A4さんは何時頃帰つて来ましたか。

答 一二時から一時までの間に帰つて来ました、そしてその日孫が泊りに来ていたのでその子供と一二時頃便所に起きたときは、A4はまだ帰つて来ておりませんでした。

問 それから一二時から一時までの間に帰つて来たのですか。

答 そうです。

問 帰つたのは一時前でしたか。

答 一時より一寸おくれたかと思います。

問 一時が鳴つた後ですか、それとも鳴る前ですか。

答 鳴つてからです。

問 鳴つてから直ぐ帰つてましたか。

答 はい。

問 一時が鳴つた頃帰つたのですか。

答 そうです。

右応答の瞬昧さ、以て知るべきである。しかも赤間A43は昭和二四年九月二六日検察官A26の取調に対し「八月一七日の朝A4が起きてからA4にお前昨夜何時頃帰つたかと聞くと、A4は一時頃帰つたと云つておりました。A4は八月一七日午前零時半頃便所に起きた際には禾だ帰つていなかつたが午前六時頃起きたときには寝ていた旨供述し、一方A4自身は検事A26の昭和二四年一〇月一日の取調に対し「八月一七日午前七時頃起きたところ、祖母A43は昨夜何時頃帰つて来たかと聞くので午前一時帰つたと嘘をついた」旨供述しているのであり、これらの供述を思い合わせるときは前示赤間A43の証言は到底措信に値しないものと認めざるを得ないのである。そしてこの供述を外にしてはA4アリバイを首肯させるに足る何らの証拠があるわけではないから、右アリバイも結局成立しないものと断ぜざるを得ない。

(4) A15、A19両被告のアリバイについて

この点についてA15被告は事件勃発の当夜自分は松川工場八坂寮真の間に、またA19被告は自分は松川労組事務所に各宿泊し外に出たことがない旨主張するのである。

しかし、その主張も次に記す検事A8に対するA21被告の供述(二四年一〇月一三日付調書)同じくA22被告の供述(同月一八日付調書)及び後記のA7裁判官に対するA20被告の供述(同年一〇月七日付調書)に照合すれば到底首肯し難く、右アリバイも、また不成立に了つているものと認めざるを得ないのである。

A21被告は次の如く供述する。

『(前略)

座ると直ぐにA14さんが皆に向つて小声で「今夜踏切先のカーブで脱線作業をやる……A21、A20、A22は駅の工夫小屋から十二時前迄に適当な時間を見はからつてバールとスパナをもつて来て組合事務所の所に置いて呉れアリバイがはつきりして呉れば絶対にもれる心配はないこの事は絶対に口外してはならぬA19、A21、A20、A22の四人は組合事務所に泊れA18に話してあるから……」と言はれましたので私、A22、A20、A19は皆「ハイ」と答へましたこのA14さんの話の内私等にスパナを持つて来いと言はれる前に「こちらからA15君とA19君が行くから」と言はれた様な気も致します又私達に事務所に泊れと言はれた後に他の同席者に泊る所を言つておられた様な気がします私はこの話を聴いて直ぐにA22は寮に居り駅の近くだからバールスパナの有り場所を知つてるるかと思いA22君に「在る場所は分るのか」と言いますとA22君は「行けば大丈夫分るから」と答へました私はこの後無言でしたがA14、A15さん等向ふ側に居た人は話をして居られました。杉はA14さんに会釈して場を立ち一番先に医務室の入口から外に出組合事務所に帰りましたA20、A22、A19は自分の直ぐ後バラバラと出て来て事務所に来ました私がこのA14さん等の席に居たのは前後約二十分位でありました。事務所に帰つた私達四名とA18、その、の六人で又ビラ書きを始めました二十分位して私は事務所土間の方に置いてあつた私の米袋を持つて八坂寮に行きました便所の方の入口から入り食堂を抜けて炊事場に入り流しに置いてあつた鍋を洗いそれに袋の米全部約四合を入れて米を洗い水を入れて同じ経路で事務所に帰り土間の電熱器に鍋をかけ飯を炊き始めました。この八坂寮へ行つてみた時間は十分か十五分位でありますがその間寮では誰にも会いませんでした私は電熱器の所で鍋が大きいし電熱は小さいので旨く炊ける為に鍋の上からバケツをかぶせたり電熱器をいぢくつたりして十分か十五分位居りますとA20君が私の所に来て小声で「行つても良い時間になつたのではないか」と言いますので私は「うん」と言いますとA22君も板張りの方から土間の方に来ました私はA20君が良い時間と言つた意味を丁度其の晩は駅に近い松楽座でレビユーがあり遅くなると其の帰り客にぶつつかり早いと又人通りがあるので丁度其の頃が良いと言ふ意味で言つてるるのだと考え承知の返事をしたのであります。斯様にして丁度十時半頃私、A20、A22は事務所を出ましたA20が先頭で次に私最後にA22の順で事務所から細道を東に上り八坂神社の参道に出鳥居をくぐり県道に出て県道を右に折れ県道に出てから三人は横隊になりました踏切を越え新聞屋の前の横道を左に折れましたこの横道で又一列にA20、私A22の順になりましたこの横道を歩いて大きい家の後を廻り端にコンクリートがしてある土手の様な所を通り駅長官舎前の広場を横切り工夫小屋の前に出ました小屋の北寄りにある板戸にA20君が手をかけ動かそうとしましたが鍵がかかつて居りますのでA20の北寄りに私南寄りにA22が並び三人でこの二枚の板戸の北の方外側にある戸を持ち上げ前へひきますと共の戸ははずれましたので共の戸を南内側の戸に半分程あけて寄りかけA20が先ず中に入り続いてA22が入りました私は背が高いので入らず私は戸の開いた所より三歩程北に寄つた所で見張りをする為線路の方を向いて立つて居りました中に入つた二人は音を立てませんでしたが二分程して中でライターかマツチの火と思はれるあかりが一瞬間ついた様が気がしますそれから一、二分してA22が戸の開いた所から手を出しスパナを一挺自分の前に投げ出しました続いてA20が先A22が後で二人でバールを一本かかへて出て来た様に思います二人が出て来る前私は直ぐにスパナをひろい上げネヂのあるモンギースパナであるかどうかを確めましたがネヂがありモンキイスパナでありました私はスパナをとりに行く時モンギイでないと大きさが合はない場合困るので盗み出すスパナはモンキイスパナでなければならんと思つてゐたので確めて見たのでありますA20、A22が出て来たので三人は直ぐにバール、スパナを開いた戸の前の地面に置き三人で立て掛けた戸をもとの様にはめ込み私がスバナ一挺をA20、A22二人がバール一挺を持ち合い私、A20、A22の順でもと来た道を縦隊のまま踏切り迄来て県道路切を越えた所で直ぐに左に折れ軌道に副つて北に歩き駅員官舎の前から右に折れ井戸の所を通つて八坂神社鳥居の手前で畑の中の小道を事務所前のA154と言ふ家の方に歩きA154の家の後同家の便所の前を抜けて組合事務所に帰りました。帰りは終始一列で私A20、A22の順であつたと思います私は事務所土間の前の小道をへだてた向側にある菊の植へてある所にスパナを置き事務所に入りましたA20、A22は恐らくバールを事務所の外側の壁に立てかけて続いて事務所に入つて来ましたバールは何処に置いたか私にははつきりしません。私は中に入つて「行つて来た」と言い続いてA20、A22も「行つて来た」と言いますと事務所内にゐたA18、A23、A19は口々に「御苦労様」 と言いました私は直ぐに電熱器の鍋を下しますとA23さんが「飯喰ふのかい」と言いますので「そうだ」と答えますと「茶碗持つて来るから」と言つてA23とA22君が出て行きました十分か十五分してその、A22の二人は茶わん六つと箸六つ皿に盛つた味噌を一皿もつて来ましたのでそのが飯を一杯づつ盛り六人して事務所の机の上で食いました味噌は白つぽい感じがするものでありました食つた人から茶わん箸を鍋に入れ机の上に鍋を置いて又六人はビラ書きを始めました飯を食い又旨くバールスパナが盗めたので皆の気持がよくなつたので直ぐにビラ書きをし乍ら誰からともなく歌い出す者があり六人は普通の声で「インター」「赤旗」「仕事の歌」「若者」を合唱し出しました二十分位歌つて又ビラ書きをしましたビラは「スト突入」「首切り反対」「我々を殺す気か」等でありました一時頃迄続けて居ましたがその間誰も外から来る者はなかつた様に思います一時頃私は「ねむいから先に寝る」と言つて事務所土間の方に行き机の上で横になりましたが危ぶなかつたので十分程して板張りの間の方に行き東北隅に新聞紙をしいてまくらなしで横になりました十分程してA22君が「蚊が居るから蚊いぶしをする」と言つて出て行き菊の葉を持つて来机の下の板敷きの処で新聞紙を丸めて焼きその中に一握り程の菊の葉を入れましたA18君は「蚊いぶしは蓬の葉だ菊の葉では駄目だ」と言いますとA22君は「煙が出ればなんでも良い」と言つてうちわであほいで居りました、これからしばらくしてA22君は私の左の脇に来て新聞紙を敷き横になりましたA18君は幻燈の暗幕を私とA22君にかぶせて呉れましたそれから私はうとうとしましたが室内を歩く足音で目を覚しましたすると事務所入口の内側の処にA22、A18A23、A20の諸君が外を向いて立つて居ましたので私は上半身をおこして「今行くのか」と言いますとA22君は「そうだ」と答へ入口の所でこの四人が口々に「しつかりやつて来て呉れ」と言つて居りました。A19君の姿は見えませんでしたが同君の声で「うん」と言ふのが聴えましたA19君の外に猶人が行く様な気配がしましたが誰だか判りませんでした私はそれから直ぐに横になり寝ました。一眠りするとサイレンと半鐘で目を覚しましたA20、A22両君は外へ出て行き外でA20君が「火が見えないから火事は遠いのだと言いました私は「そうか」と独り言を言い又横になりましたA19君は何時帰つたか分りませんが机の向ふ側で横になつて居りA18君は自分の頭の上の椅子に腰かけて起きて居りA23は右前の机に寄りかかつて寝て居りました。』云々また、A22被告の供述は次のとおりである。

『(前略)

A14さんは「A21、A20、A22は保線区へ行つてバールとスパナを取つて来てくれ、保線区には誰も泊つたりしてるないのだから、之を終つたらA21君は一番年上なんだからA20やA22を見付からないようにやつて来てくれ、成る可く早く行つて取つて来てくれ、取つて来たら、組合事務所の脇の処へ置いおけ、A15さん、A19君は其のバールとメバナを持つて行つてくれ、見付からないようにするには、アリバイを作つて置けば大丈夫だ、お前等は若いんだから一寸して喋つたら駄目だぞ、お前等三人して行つて来た後、事務所で歌唱つたりビラ書きして騒いどれ、二時頃迄騒いどれ、後寝ても構はないから、寝る時にA21とA22はA54君の机の後で寝ろ、A20とA19とはA155の机の後で寝ろ、俺はA37の処へ行つて泊るから」と云いました。A1さんは「国鉄と俺の方が組んでやるようになつてるるのだから」と云いましたA17さんは「俺は姉の処へ泊るから」と云いました。A1さんは「俺は大丈夫、家へ行つて泊るから」と云ひました。A15さんは「お前等は上の人達の云ふことを聞かなければ駄目だぞ」と云いました。私、A20、A19、A21の四人は黙つて居りました。A14さんは「倉庫に行けば判るから、行けば大丈夫だ」と云いました。A1さんかA17さんかが「これ、早いとこやつて来てくれ」と云いました。A14さんは「行つて来て、やつて来てくれ」と云いました。A21、A20と私は「ハイ」と答えました。一、二分してA21君が先に立ち、続いて私、A20、A19の四名が立ちました。四人が出て行く時A17さんが「見付からないようにやつて来てくれよ」と云いまた。四人は医務室脇の出入口から出て事務所の方へ行きました。私達四人が出る時未だA14、A1、A17、同一さんの四人は組合室に残つて居りました。事務所に帰る途中私の前に居たA20君が私に「生意気しているのではないぞこの野郎」と云いました、これは私がA20君の後からA20君の下駄を軽く蹴つたからであります私は「何この野郎」と云いました、A21君を先きにして私達両名は組合事務所に入りました。私はA14さんから列車顛覆と盗みに行く話を聞いた時、これは大変なことだ、嫌だなあと思いましたが本年四月頃A14さんと仲の良い八坂寮の炊事婦A101さんの「みのり」十個を盗んだことや、又其の頃工場の鈩や錘を盗み私の部屋に持帰つたことをA14さんに知られて居り、此の為自分が選ばれたのだと感じ自分に弱身が、あるので断はることが出来ず「ハイ」と云つて承知したのであります。又A14さんはA15さん、A19君にバールとスパナを持つて行つてくれと云つた丈けでありましたので、其の方のことはA15さんが詳しく知つてみるのだなあと思いました。私達四名が事務所に帰りますとA18、同A23さんの二名が居りましたA20君とA18A23さんが芝居の真似をしたりして居りました、A21君は暫らくして米をとぎに行きました、其の間ビラも少しは書きました、私は保線区へ行くには明りの火があると思い「マツチ持つて行くべえ」と云つて事務所板の間にある五ツの事務机の真中辺石田A155の机の上に在つたマツチ一箱を取りズポンの右ボケツトに入れました、此のマツチはマークは覚えて居りませんが普通の大きさの箱で中味は半分より少し多い位入つて居りました。勿論誰のマツチか知りません、A21君は十分程して鍋を借りて来て、米を土間の電熱器にかけて居りました、十時過ぎ頃と思いますが土間でA21君が板の間の方を向き「もう行つて来るべえ」と云いました、私とA20君はA21君のところへ行き三人はA21君を先頭にして事務所を出ました此の時の服装は私は白の半袖開襟シヤツ黒いズボン(白が混つてゐますがよごれてゐますので黒色になつてゐます)無帽でゴム草履を履き、A21君は白い開襟シヤツ黒ズボンで鳥打帽を被り下駄履きで、A20君は白いシヤツ白ズボンで無帽下駄履きでありました。A21君が先頭でA20君、私と一列になり事務所から細い道を東に登り八坂神社参道に出て参道に出てから三人横に列び鳥居をくぐつて参道を県道に出県道を右に折れ県道踏切を越えて新聞屋の手前の横道迄横隊のまま参りました共の横道を左に折れ、A21、A20、私の順に一列になつて三軒程家の前を通りそれから大きい家の後を廻つて端にコンタートのある土手のような処に出、其処を南に進み駅長官舎前の広場に出保線区倉庫に来ました。此処へ来る迄の間参道と県道の交叉点にあるアイスキヤンデー屋は店を開いて居りましたが県道踏切には踏切番は居らず又新聞屋横の横道を入つたところの三軒程ある家の内一軒は中で話声がして居り此の三軒程の家は皆戸は閉めて居りましたが中は明りが点いて居りました、駅のホームは明りが点いて居りましたが駅には誰も人が居なかつた様に思います。保線区倉庫の北端の二枚になつている入口の板戸をA20君が先づ開けようとしますと鍵が掛つて居りました、其処でA21君が真中、其の北側に私南側にA20君と三人が戸の前に列び二枚の戸の内北外側にある戸を三人で主としてA21君が力を入れて持ち上げ手前に曳いて来ますと其の戸が外れました、共の戸を五十糎程開けて南内側の戸に寄り掛けました、A20君が先き続いて私が共の五十糎程の空いたところがら倉庫の中に入りました、戸を開けた時A21君は「俺見張りしてるから、お前等早くやつて来い」と云いました、A21君は中に入らず入口より三尺程北の方に離れた処に立つて居りました。私は中へ二、三歩入つてから真暗でしたのでズポンのボケツトからマツチを出し軸木二本を一度に擦り明りにしました私はA20君の後から明りを見せるようにして左の方へ歩きました、マツチが燃え尽しましたので矢張り二本の軸木を一緒にしてもう一度点火しましたするとバールが右の方、スパナが左の方にありましたA20君は先づバールを取つて部屋の何処かへ立掛け、次にスパナを取りました。A20君はスパナを取ると直ぐにそれを私に手渡しました、其の少し前二回目のマツチも燃え尽しましたので私は今度は一本の軸木で第三回目の点火をして居りました私は右手でマツチを持ち明るくして居り左手にマツチ箱を持つてゐたのですがA20君がスパナを渡しましたので左手のマツチ箱を点火してゐる右手の掌に持替え左手でスパナを受取りました、私はスパナを受取つて先きに出口へ行き中から外のA21君にスパナを渡しました、A21君は入口の処迄来て居りました、スパナを受取つてからA21君に渡す迄の間に三本目のマツチが尽きかけましたので、それを下に落しました、小松君に渡してからA20君が「持つてくれ」と云いますので私の左脇奥の方に居るA20君の持つてるるバールを左手で掴み、二人で持つて私が先き続いてA20君が外に出ました。私は倉庫の中ではマツチの火に気を取られて居りましたのでバールとスパナが何のように置いてあつたか細かいことは見て居りません三人が出てバールを南側の戸に立掛け、スパナはA21君が地べたに置いたらしくA21君が主となり、私がA21君の南側に行き二人で立掛けた戸を元のようにはめ込みました、A20君は戸を向いて私の左側の方で見て居りました。A21君がスパナを持ち、A20君と私がバールを横向けに持ち合い、A21、A20、私の順で一列で元来た道を新聞屋の処迄参りました、私は左手でバールの元の方を持つて居りました、帰る時も横道を入つたところの三軒の家は往きと同じように燈は点いて居りましたが中の人声は往き程大きくはなかつたように思ひます、其の家の前でA20君と私はバールを立掛けて持ちました、A20君が右手、私が左手で縦にバールを持ち私の左側にA20君が来て二人列んで県道に出ました。A21君は県道に出る迄私達の十歩程先きをドンドン歩いて行きましたが二人が県道に出た時A21君の姿は見えなかつたように思います県道を通るのは危険だと思い、県道に出てから十五歩程踏切の方へ歩いて私は「こつちへ行くべえ」と云つて其処から北の方に入る細道を左に折れました此の細い道を二人横に列んだ儘真中にバールを持つて五十米程北に歩き其処で東の線路の方に道を降りました、降りた処は道も何もない処でありました、二人は真中にバールを立掛けて見えないようにして鉄道線路を横切り駅員官舎の前に出ました、官舎の間を通つて東に行き井戸のあるところを二ツ通り後の井戸のところから畑の中をA154と云ふ家に行く道を組合事務所の方に歩きました、A154の家と其の便所の間を通り抜け組合事務所に出ました帰る迄ズツト私がA20君の左側に居り二人列んで真中にバールを縦にして持つて居りました、帰りは倉庫から組合事務所迄誰にも会いませんでした私は事務所の入口で手を離し、A20君より先きに中に内りました、A20君はバールを一人で事務所物置の処に立掛けに行き続いて入つて参りました。私が事務所に入るとA21君が帰つて居り「見付からなかつたか」と聞きますので「見付からない」と答えました、スパナはA21君が何処へ置いたか気が付きませんでした、私とA20君のバール、スパナを取りに行つた道順は図に書いて提出した通りであります。

(図面省略)

帰つて二、三分するとA21君が「飯、食うべえ」と云いますと私とA18A23さんとは寮へ茶碗を取りに出て行きました。二人は便所脇の入口から中に入り食堂の戸棚を開けて茶碗六ツと箸六ツを出しそれをA23さんに渡し私は更に舟型の皿一枚を出して、A23さんを食堂に待した儘皿を持つてA156さんの部屋に行き「A156さん」と呼びますとA156さんは寝て居りました、「ウン」と云ひましたので私は戸を開けて中に入り「味噌呉れないか」と云いますとA156さんは「持つて行きな」と云いましたので私は共の部屋の窓際に置いてあるかめから味喰を其の皿で掬い上げて部屋を出、A23さんと二人で又便所脇の入口から出て事務所に帰りました此の間約十分でありました、A23さんが事務所で茶碗に飯を盛つてくれましたので私、A20、A21、A19、A18、同A23の六名は一緒に飯を喰いました、飯は各人一杯宛しかありませんでした、食べ終つてからビラ書を始め、六人で歌を合唱し始めました「インター」「赤旗」「仕事の歌」「メーデー歌」等を何回も唄いました、歌は普通の高い声で約一時間位唄つてゐたと思ひます、歌を唄つてゐる時私はA21君に「スパナ何処へ置いた」と尋ねますとA21君は「便所の脇に置いた」と答えました、又其の間A23さん、A20君、私等は芝居の真似等をもしました、此の間に書いたビラは「首切り反対」「吉田内閣打倒」「不当弾圧反対」等でありました、このようにして一時頃迄遊んで居りました、一時頃A21君が事務所東北隅で板の間に新聞紙を敷いて横になりました、共の頃蚊がゐましたので私は一人で事務所を出て前の組合便所の処にある菊より菊の葉を一握程取つて来、棚に置いてある深さ約一寸、一尺四方位のブリキの箱(アリスタの箱の蓋)を取り出しA23さんの足許に置き其の中で書き潰しの紙等を丸めて燃き其処へ菊の葉を置き団扇で煽ぎいぶし始めました、紙に点火するには土間へ行つて電熱器で火を付けて来ました私はいぶして居るとA18さんが「何んだ、それ菊の葉ではないか」と云いますので私は「違ふ蓬の葉だよ」と云いましたA18さんは「菊の葉だよ」と云つて笑いました、十分位いぶしてみると皆から止めろと云はれましたので止めて仕舞いました、私は其のプキの箱を事務所の上間へ持つて行き中のものを踏み付けて消し、それからA21君の左側に新聞紙を敷いて沢山ある新聞紙の把を枕にして横になりました私とA21君以外の人は未だ起きて居りました私は横になるとA21君が被つてゐる幻燈用の幕の中へ私も入つて行きました、そしてウトウトして居りました。二時頃かとも思いますが一眠りしたら室内の足音で眠を醒しました。見ますと事務所入口の処に(入口の内側)A18、同A23、A20君が立つて居りましたので私も其の場で立ち上りますと三人はぞろぞろと中へ入つて来ましたA20君が入つて来て「A19行つたなあ」と云いましたので、私はA19君が顛覆作業に出て行つたと思いました。A21君も寝て居る処で立つて居りましたA19君の姿は見えませんでした、出て行く時は見て居りませんが、A19君の其の日の服装はチヤツクの附いた長袖のシヤツを着て居りました、そこでA19君を除く残りの五人が寝ました。A20君は石田A155の机の後に横になり、武夫さんは圓谷さんの机にもたれ掛けて腰掛けた儘、A23さんはA23さんの机にもたれて居りました、五時頃と思いますがサイレンと半鐘で眼を醒し私は入口から外へ出ますと何も火のようなものは見えず私は何かなあと思つて又中へ入つて元の位置で横になりました、A18さんも出て居りました、A19君は此の時にはA20君の隣り出入口の処に横になつてるたようでA21、A20、A23さんは前の位置の儘で寝て居りました。』云々

右両被告の供述が任意性に欠くるところのないものであることは既に述べたが、右両供述ともバール、スパナ盗み出しの件及びアリバイ擬装の点を具さに、淡々として如実に述べており、細部に多少喰い違はあつても、大筋において一致し、その間にデツチ上げられたと思わしめるような暗い影などはいささかも認められず、真実性豊かであると認められる。(なお右両被告を始めA20両A18被告らが右寮内で深夜労働歌等を合唱して騒いでいたという当夜のような状況はそれ迄に曾つてなかつたことであることは記録上明かなところである)従つて右各供述を一つの資料として認めた原判示のバール、スパナ盗み出しの件、アリバイ擬装の点には判決に影響を及ぼす程の重大な誤認があるなどとは到底認め難いのである。

以上、私は右被告らのアリバイ工作に関して冗々しきまでに述べたが、A4、A19、A22、A21、A20ら各被告の自白調書を見ると、「アリバイをしつかり作れ」とか、「アリバイを作つてやれば大丈夫だ」とか、アリバイ工作に腐心した形跡が随所に認められるのである。にも拘らずそのアリバイ工作は前記のとおり遂に無効に帰しているのである。してみると原判決は実行行為の認定に関する限り判決に影響を及ぼす程の重大な事実誤認のあることが、ますます以て認められないということになるのである。

思うに、本件実行行為の列車脱線てんぷく作業のくだりを立証する直接の証拠としては、A4自白、A19自白以外にはなく、従つて右実行行為の認定はA4自白A19自白の真実性(信憑性)如何に懸つているといつても差支ないのである。故にもし右両自白の真実性が否定されれば右実行行為の認定は固より、本件は根底から揺らぐといつても過言ではない。その故にこそ、被告らは一審以来右両自白を官憲のデツチ上げであり、虚偽架空のものだと抗争するのである。よつて最後に右の点に若干言及したいと思う。

A4自白を録取した調書は

(イ) 昭和二四年 九月二三日付A26(検事)調書

(ロ) 同     九月二五日付A7(裁判官)調書

(ハ) 同     九月二六日付A26調書

(ニ) 同    一〇月 一日付A26調書

(ホ) 同    一〇月 二日付A7調書

(ヘ) 同    一〇月一九日付田島(検事)調書

であり、

A19自白を録取したものは

(イ) 昭和二四年 九月三〇日付A28(検事)調書

(ロ) 同    一〇月 三日付A28調書

(ハ) 同    一〇月 四日付A28調書

(ニ) 同    一〇月 五日付A7調書

(ホ) 同    一〇月 九日付A28調書

(ヘ) 同    一〇月一一日付A28調書

(ト) 同    一〇月一二日付A28調書

(チ) 同    一〇月一三日付A28調書

(リ) 同    一〇月二九日付A28調書

(ヌ) 同    一一月 五日付A28調書

(ル) 同    一一月 五日付A7調書である。

以上の調書はA4、A19両被告の自白の全ぼうを録取したもの、或はそれを補充訂正したもの等さまざまであるが、いずれも本件において証拠として取調を受けており、その中で、原判決が本件実行行為の認定に供しているものはA4については前示(ニ)(ホ)(ヘ)であり、A19については前示(ロ)(ハ)(ニ)(ト)である。よつて説明の便宜上まずA4自白については(ニ)A26調書を、A19自白については(ニ)A7調書を左に摘録して検討を進め度いと思う。

(1) A4被告のA26調書

『(前略)八月十六日になると私は今晩列車脱線の仕事をしなければならないが今晩の自分のアリバイをどう言ふ風にして巧く作らうかと思つて苦心して居りました、午後三時過頃私の親戚のA110が経営しているA157商会のA74、A75、A79、外一名の人達が其の晩虚空蔵様のお祭でやる映写機、幻燈機、蓄音機等をリヤカーに載せて運搬して来て私方に立寄つて少し休み直ぐ伏拝のA158と言ふ家へ運んで行きました、夫れで私は間もなく親戚A110がA158さんの家に来るであろうと思つて午後四時過頃A158さんの家へ行つて見ましたがA110は未だ来て居りませんでした、そこで私はその足で虚空蔵様のお祭に行きましたらA70が母と共にキヤンデーを売つており、その隣でA159が石鹸を売つて居りました、私はA70のキヤンデー売りを手伝つてやつたのであります、午後六時頃に為るとA74、A75等が先程の幻燈機等を自転車に積んで持つて来て虚空蔵様の境内で映写する為に幕等を張つて設備に取掛りましたので私は之を手伝つてやりました、それから午後七時半頃夕食を食べに家に帰り家族の者(父は不在)と一緒に食事をしました、それから其の晩列車脱線の仕事に行く時指紋を残さない為に手袋を持つて行かねばならね事を予てから承知して居りましたから私が元鉄道に居る時使つてるた軍手を持つて行かうとしましたが、未だ時間が早いのでもう一度虚空蔵様に行つて約束の時間まで遊び時間を見計つて集合場所へその儘行くのには手袋を持つて行つて人に見られてはまずいと思い塵を捨てる塀の下にその手袋を置いてその上に巾一尺長さ二尺位の木片を乗せて一見して判らない様にしその手袋は家の中に入らなくても道端から直ぐ出せる様に準備をして午後八時半頃再び虚空蔵様の御詣りに参りました、そのお祭に行つてから幻燈の映写を手伝つてやらうと言ひましたがA110が来て居つて幻燈の方はA42に手伝はせるからおまへはキヤンデー売りを手伝つてやれと言ひますので私はキヤンデー売りを手伝つてやりました、その中に幻燈の映写が始まりましたので私は之を見て居りましたが、午後十一時頃に幻燈の映写を止め後片付が始まつたので之を手伝つてやりました私が此の幻燈機の片付けを手伝つてるる時に友人のA71とA70がやつて来ましたから此の二人に対して不用意に「今晩あたり列車の脱線があるのではないかなあ」と話しましたが私はハツト気がつきとんでもない事を話したと思つて心配しましたが其の場は何事もありませんでした、その中に時間も段々十二時近くにもなりますのでもうそろそろA12やA13が待つてゐるA111事務所裏へ行かなければならないと思つてゐる中、A110、A74、A75、A79等も帰る様になつたので私は此の南等の一行と一緒に虚空蔵様の境内を出て伏拝のA31と言ふ魚屋の処まで参りまして其処でA110等の一行と別れて自分の家に帰る振りをして家の前まで来て予て塀の下に隠して置いた手袋を取出し之を持つて家へは入らず家の南の道路を西へ行き、約二百米位行つた処に十字路があり其処から南へ曲つて百米位行くとA111の真裏のA9製板所の前へ出ます、その製板所の南に道路があつてその道路に沿つて南に小さな流れがあつてその流れを跨いで製板所の材木が積んでありますがその製板所の南東の角と道を距てて木が積んである前にA12とA13の二人がしやがんで待つて居りました、私が「お晩です」と声を掛けたらA12が「御苦労です」と言ひついでA13も「御苦労様です」と言ひました、その時の吾々三人の服装はA12は白のワイシヤツ、黒のズボン、短靴、無帽、A13は白の開襟シヤツ、黒のズボン、黒革短靴、無帽、私は白のワイシヤツ、鼠色ズボン、白のズツク靴、無帽でそのワイシヤツの下には薄いメリヤスシヤツを着て居りました、私達は直ぐに其処から出発したのであります、その出発の時刻はA160魚屋の前でA110と別れたのが大体十一時四、五十分頃であつたと思ひますから大体十二時頃であつたと思ひます、其処から三人で真南の森永橋へ通ずる道路を南に向つて進みA161と言ふ人の家の前まで参りますと、A161方では座敷に電気を皎々と点けて未だ人が起きてゐる様でありましたから急いて其処を通り、森永橋の北の袂から濁川に沿ふて鉄道線路に向つて大体川の形に西の方へ道がありますが、その道を通つて永井川駅(永井川信号所の誤と認める)の南に在る踏切を通つて線路の西に出、道路上を南に一寸行くと濁川の橋がありますがその橋を渡つて南に行き約二百五十米詐り行くと鉄道線路へ出る一尺巾位の小道がありますがその小道を通つて線路に出、それから線路上を松川駅の方を向つてどんどん歩き金谷川駅手前のトンネルの入口から左の小道を通つてトンネルの山の上に出て少し行くと道巾が広くなりますがそこを通つてトンネルを越しトンネルの出口の処まで下ると左側に数軒の人家があり道巾も少し広くなつて来ます、その人家の道を南に進むと線路の踏切へ出ますがその踏切から先は金谷川駅で電気も点いて居り見られては危険だと思つて踏切を渡らずに真直ぐ小道を南に進むと戦争中に作つた機関車の待避壕の中に出ます、その待避壕は途中で切れて現在二つに為つた様に為つて居りますがその境目の処から次の待避壕の向つて右上に出て、右の方の縁を待避壕の終りまで進みそれから、畑の横の畑を真直ぐ進み金谷川駅の線路班詰所と分区長官舎の裏の畑の中を南に進み少し低くなつて居る処を通り又高くなつて居る傾斜の畑の中を突切つてその高い処の畑を南の方へ真直ぐ下りますと線路に沿ふた道に出ますがその道を線路に沿ふて五十米か百米松川の方へ進むと踏切があります、その踏切を渡らず金谷川小学校に通ずる道路上を線路と並行して約百五十米位行つた処から畑を横切つて線路に出線路上を松川に向つてどんどん進みました、国道の浅川踏切手前百米位の処に来ると後から貨物列車が来たので線路の松川に向つて左側の土手に一、二尺降り乗車の人から顔を見られない様にしやがんで汽車の通過を待ち列車が通過してから線路に出、浅川踏切四、五十米手前に行つて踏切警手の様子を見ると踏切警手は踏切詰所の前を通つて東南に在る宿舎に入る後姿を見たのでその踏切の処を線路上通過しても大丈夫だと思ひ静かに線路の松川に向つて左側を歩いて通過しました、此の辺まで来るまでは非常に急いだのでありますがそれから少しゆつくり歩いて行きました、その浅川踏切から五百米位行つた処で下りの旅客列車に会ひましたので又松川に向つて線路の左側の土手に一、二尺下り、列車の人に顔を見られない様にしやがんで列車の通過を待ち列車が通過してから又線路に出て線路の左側を松川に向つて歩きました、列車脱線事故地点附近に行きますと下りの機関車一輛が進行して来るのに出会ひましたので又線路の松川に向つて左側の土手の処にしやがんで顔を隠してその機関車の通過するのを待ち、機関車が通過すると又線路に出て一寸行くと列車脱線事故の予定地点へ着きました、併し松川から来る予定の者は未だ来て居りませんでしたのでその辺の現場を見たり等して約三分間程立上り様子を見ましたが未だ松川から誰も来てゐない事が判りましたのでもう少し先へ行つて見様と言ふ事になり、急がずにぼつぼつと松川駅の方へ向つて歩いて行くと松川駅の遠方信号所の五、六十米手前で松川駅の方から線路上を歩いて来る二人の姿が見えましたので私は約束の人がやつて来たと直感しました、前に申落しましたが金谷川トンネルの上り口の処でA12が浅川踏切の先のカーブの処まで行けば松川から二、三人来て待つてゐる筈だからと言ひましたので私はその晩松川から応援者が二、三名確実に来ると言ふ事を知つてゐたのであります、松川遠方信号所の手前五、六十米の処で松川方面から来た者に会ふまでの間余り話もせず煙草もトンネルの上の山を越す時に一本喫んだ丈であります松川の者に会ふとA12が「お晩です」と声を掛けたら松川から来た二人の内一人は「お晩です」と言ひ一人は「今晩は」と言ひました、私もA13も「お晩です」と言ひますと一人は「お晩です」と言ひ、一人は「今晩は」と言つた様であります、此の二人は勿論私の知らない人でありますが一人は年齢二十二、三歳位、丈五尺三寸位、丸顔、長髪で頭を分け油をつけ、開襟国防色様のシヤツ、黒のズボン短靴で、言葉は地方弁で、バールを持つて居りました、他の一人の人は年齢二十一歳位、丈五尺三寸位、面長で少し髪を伸ばし漸く分けられる程度で、白のワイシやツ、黒のズボン、編上靴を穿いてゐる様で、自在スパナを持つて居りました、言葉は都会育ちの者の様でありました、其処で二、三分立止つてA12が何か話してるる様でありました、その中にA12がこれから現場へ行きませうと言ひまして松川から来た二人を加へ私等五人は私等が三人で通つて来た元の線路上を引返し予定の現場へ向つて歩きました、歩いた処は矢張り金谷川に向つて線路の東側を通つて進んだのであります、此の時も余り急ぎませんでした、予定現場から松川駅の方へ百五十米か二百米の処まで来ると上り客車が参りましたので、私等はその列車の前照燈によつて顔を見られてはいけないと思ひ線路の東側の土手へ二、三尺降りて顔を東側の方へ向けてしやがんだのであります、汽車が通過してから又線路に出て予定の現場へ着き二、三分休んで辺りを眺め度胸をつけて居りますとA12が「人が来るといけないから早く取り掛らう」と申しますので、仕事に取掛らうとしたらA12は私に対しお前は見張りをして居れと言ふので私は勝手に松川方面の見張りをする為に現場より五十米位松川の方へ出て見張りをして居りました、A13も見張りをしろと言はれた様で現場より五、六米金谷川方面に離れた地点で金谷川方向の見張りをして居りました、A12はスパナで外軌の継目板のボールトナツトを外し始め、松川から来た顔の丸い方の人がバールを持つてA12が継目板を外す側から外軌の外側の犬釘やチヨツクを抜き始めました、松川の面長の人は抜いた犬釘やチヨツクやナツト等を附近へ投捨てたりしてるる様でありました、此の仕事に着手したのは判然した時刻は判りませんが十七日の午前二時頃と思ひます、松川から来た者が犬釘を抜いてゐる処を見てゐるとまどろくて見て居られませんので、私はその男が犬釘やチヨツクを六米位抜いた処で交替しようと言つてバールを受取つて交替し、それに引続いて、外軌の外側の犬釘やチヨツクを約九米詐り抜いたのであります、その中犬釘二、三本とチヨツク一個位は枕木に喰込んで居つて仲々抜けないし仕事も急いで居りましたので其の儘にして置いたものもあります、それから又松川の面長の男が今度は僕が交替しようと言つて私からバールを受取り私が抜いた外軌の外側の抜いた犬釘に続いて約六米位犬釘やチヨツクを抜いたのであります、それから又私も交替しようと言つてそれに引続いて約二十米位チヨツクや犬釘を抜いたのであります、併し此の二十米位の区間の内、犬釘六、七本とチヨツク三、四本は枕木に喰込んで居て仲々抜けないので其儘にして置きました、その時私が反対側の内軌の外側の犬釘やチヨツクも抜いた方がいいかなあと申したので松川の丸顔の男が「そうだ」と言つて私からバールを受取り内軌の外側の犬釘やチヨツクをA12が継目板を外してゐる附近から六米詐り抜きました、それから又私が交替しようと言つてそれに引続いて八米詐り抜きましたがその区間も犬釘二、三本とチヨツクが二、三ケ所抜けなくて其儘にして置いた処があつた様です、私が相当の経験者として犬釘やチヨツクの仲々抜けないのを其儘にして置いたのがありますので松川から来た人の抜いた個所にも抜けなくて其儘にして置いた犬釘やチヨツクもあつたと思ひます、その抜き取つた犬釘やチヨツクは手の空いてゐる者が附近に投け捨てたりして居りました、チヨツクを抜く時は軌条をテコ台にしたり外側からテコ台にする為に石を置いたり又テコ台を何も使はずにチヨツクそのものにバールを当てて抜いたのであります、此の間A12がやつて居つた継目板外しの仕事をA13が時々交替し手伝つてやつて居る様でありました、その中私等がバールで内軌の犬釘を抜き掛る時分にA12は継目板を一ケ所を完全に取外したのを見ました、結局二十五米長さの外軌一本とその次の外軌一本の八分通りの外側の犬釘チヨツクを少しは残つたが大体抜き取り、その反対側にある内軌の外側の犬釘やチヨツクを合計十五米大体に於て抜取り、継目板一ケ所を完全に取外しましたので、列車脱線の事故を起こさせるに十分の措置が出来たと思ひましたので私が「もう大丈夫だ」と言ひましたら他の者も「大丈夫だ」と言つて止めたのであります私が事故を起すのに十分な処置が出来たと言つたのは私が線路工手としての四年以上の経験で継目板を外し外側の犬釘やチヨツクを五米以上も抜けばカーブの処では絶対に脱線すると言ふ事を知つて居りましたのでもう大丈夫だと言つたのであります、尚その現場は列車の速力も五、六十粁は出す処であらうと考へても居りましたので特にそう思つたのであります、此の脱線処置の仕事をしたのは約二、三十分間であつたと思ひます、その仕事は皆夢中になつて大急ぎでやりました、それで私も抜けない釘は其の儘にして置いた様な訳であります、私は其の仕事を一所懸命でやつたので相当汗をかきました、私が犬釘等を抜く仕事を止めてバールを線路の上に置きましたら松川から来た男が現場の東側の田圃の中にそのバールを捨てたのであります、スパナや継目板はどんなに処分されたかは私は気付きませんでした、その現場は線路の東側に小さい畑があつて畑の東側は田圃であつて畑の北の方に小さな岡があり線路の西は高い土手でその上は余り木のない山の様でありました、此の仕事が終つた時A12は吾々に対し「此処で別れて帰らう、此の事は絶対に秘密を守つて殺されても言はないと言ふ事を誓つて貰ひ度い」と言渡しました、松川からの二人の者は「左様なら」と言つて現場から松川の方へ向つて線路伝ひに帰つて行きました、私とA13とA12は矢張り鉄道線路沿いに金谷川駅に向つて歩き出し相当急いで歩きました、国道の浅川踏切の百米位手前で線路に沿つた西側の小さい川に橋がかかつて居りますがその橋を渡つて西側に出、その川の土手を通つて国道に出て浅川踏切の警手詰所を避けその国道をつき切つて田圃のあぜ道を真直ぐ百米許り行つて鉄道線路に上り再び線路上を福島方向に向つて急いで前進しました、金谷川駅手前の金谷川小学校へ行く道の約百米位手前から又元通つた通りに畑の中を通つて学校へ通ずる道に出、その道路を金谷川駅の方へ進みその踏切の前を通つて来る時に来た通りに踏切から百米位金谷川駅に寄つた道路の上から小高い土手の様な処を上つて斜面に為つている畑を突切つて矢張り金谷川線路班詰所、分区長の官舎裏の畑の中を通つて元来た機関車待避壕の上に出て来た時の通りに待避壕の中を通り金谷川駅の北の踏切の前に出てトンネルの入口に向つて道路上を進行しトンネルを越して再び線路の上に戻り線路上をどんどん歩きました、それから割山の終つた処で今度は線路の東側の高い土手を下りて線路に大体沿つた小道に出、その小道を永井川信号所方向に進み瓦を製造する家の側から東の方へ曲り少し行つた処で北の方へ曲り真直ぐ進んで濁川の森永橋の処へ出ました、そして森永橋の南袂で橋から川下へ五、六間の処の川の土手に腰を下し休みました、私等が其処に腰を下して五分位すると永井川部落の方から車に肥料桶を積んだ肥料汲に来る人がありましたので私等は顔を見られては大変だと思つて土手に顔をつける様にしてしやがんで顔を隠したのであります、その肥料汲取の車は肥料桶を六、七本積んで通つた様に見ましたが私共は顔を隠さねばならないので余り良く見て居る余裕はありませんでした、その車は馬車か牛車かと思いましたが或は荷車であつたかも知れません、その肥料汲車は真直ぐに森永橋を渡つて北の方へ通つて行きました、それから私はその晩指紋よけに使つた手袋をポケツトから出して片方の手袋を丸めて押入れ腰を下して居た附近の地面を手で撫でて小石三、四個を拾い丸めて入れた手袋と外側の手袋との間に少し堅く詰めてその川へ投込む用意をしその橋を一緒に渡りました、私はその橋を渡る時橋の真中からその手袋を川の中へ投込みました森永橋を渡るとその橋の北の袂でA12、A13の二人と別れ私は其処から一人で家へ帰りA12、A13は国道の方へ出て帰つて行つたと思います、申落しましたが私等が帰つて来る途中金谷川駅の直ぐ北にある踏切前を通つて二百五十米位来た処で旅客列車らしい汽車が福島の方から上つて来る音を聞きました、永年鉄道に居たので汽車の走る音で貨物列車か客車かと言ふ事は判りますがその列車の音は客車の様でありました、私等の歩いて居る道と線路との間に小高い岡があつて列車は直接見えませんでした、その時その列車の音を聞いて私は「此の列車が脱線すれば大勢の死傷者が出るであらう」と申しました、それから帰り道トンネルの上を通る時に煙草一本喫みました、私が列車脱線の仕事をする為に相当長い距離を住復する間往復共トンネルの上の山道で一回宛二度煙草を吸ふた丈けで、其の他で煙草を喫まなかつたのは煙草の火で吾々の行動が知られる事を虞れたからであります、私等が先程申しました帰途森永橋で腰を下して休んだ時刻は良く判りませんが大体四時半過頃で休んだ時間は二十分間位だと思います、私等が此の仕事をする為に往復した速度はA9製板所の材木置場の処で集合して出発し浅川踏切へ行くまでは非常に急ぎ、浅川踏切手前で貨物列車が追越してから踏切警手の様子を見たりして一、二分の時間を喰いそれから先は現場までゆつくり歩き現場に着いた時二、三分立止り、其処から松川から来た人が来ないと言つて線路上を松川駅遠方信号まで行く間もゆつくり行き、遠方信号の手前で松川の人に会い現場まで引返す時も比較的ゆつくり歩き、現場で仕事を終つて金谷川トンネル附近まで来る間は相当速度を早めて来てトンネルを越す頃からゆつくり歩いて森永橋の処まで来たのであります、それから私が仕事に使つた手袋は手の内側の栂指の処、人指し指、中指の処が少し痛んで靴修繕の時使ふ麻糸で修繕したものでありますがその修繕した後も使つたので少し破れて居りますが内側が悪く為つている丈けで指の頭は出ませんでした、それから話が前後しますが脱線処置の犬釘やチヨツクを抜いた数でありますが、二十五米の軌条一本に枕木が三十八、九本ありまして、犬釘は枕木一本に外軌、内軌共軌条の両側に一本宛、チヨツクは外軌、内軌共両側丈けで大体枕木三本に一ケ所宛付いて居ります、夫れで先程御話した通りの軌条の長さの内軌外軌共外側丈けを抜いたのであり、その中少しは抜けないのは残しましたので抜いた犬釘の合計は八十数本位、チヨツクの合計は二十個足らずだと思いますが判然した事は判りません、それからその夜の天候でありますが私がA12A13等と一緒に為つて行く途中トンネルの少し手前で雨が少し降りましたが二、三百米位行く中に止んで夫れからは降りませんでした、仕事をして居る時は十米位離れれば人の姿が判らなくなる位の明るさでありました、現場で仕事をしている時は勿論燈火等点ける訳に行きませんのでかんでバールを差込み犬釘が嵌らない時はしやがんで見付けて抜いたのであります、松川から来た者は自在スパナを持つて来ましたが通常継目板のボールトナツト外す時は使はないものであり又犬釘を抜いている模様を見ても鉄道方面に関係があつて其の方面の仕事を良く知つている経験者であるとは思はれません、従つて松川の此の二人は線路工事には素人の者ではないかと思います、私は先程も申した通り此の二人は住所も氏名も知らず又聞きもしませんでした、私は薄明りで顔を見たのとお晩ですと言ふ挨拶をしたり、バールの交替の時少し口をきいた程度で細かい事は判りませんが体の格好や顔の輪廓は判つて居りますので本人を見れば判ると思います、(中略)夫れから事件後その結果は新聞や世間の人から聞いて良く承知しておりますが現場へは何だか恐しくて一回も見に行つて居りません、次に私が家へ帰つた時の事でありますが家へ帰りついたのは大体十七日の午前五時頃であつたと思います、私は裏からそつと家に入りその晩私の親戚で福島市a町に住むA162子(当十二年)同A163(当十年)同A164(当九年)が私の家へ遊びに来て私や祖母A43が寝る部屋に泊つて居りましたのでA162の寝ている処に行つて同人の髪の毛を引張つたのであります、併しA162は目を醒さず寝て居りました、私は共の部屋で祖母A43、A162子等と並べて床が敷いてあつたので自分の床に入つて寝みました、その朝(十七日)午前七時頃起き祖母A43に「午前一時頃帰つて来た」と嘘をつきました、斯様に祖母に対し午前一時頃帰つたと言つたり、A162子の髪の毛を引張つたりしたのは後でその夜の私のアリバイを作る為に致した事であります、尚申落しましたが家へ帰つて来てから私の寝る部屋に入るには裏の方から入つて私の寝る座敷の方へ外から廻り其の部屋の障子が一尺余開いてあつたのでそーと少し開けて入り蚊張が吊つてあつたからそつと蚊張を巻繰つて中に入つたのであります、祖母A43は良く眠つて居つて私が帰つたのは判らなかつたかと思います、(中略)只今に於ては此の列車顛覆事件に加担しその結果私等の行為によつて顛覆した列車の機関士や機関助士を三名も殺し心から悪い事をしたと残念に思つて居ります、此の事件をやつてから頭の中がもしやもしやして狂いそうになる程精神的の苦しみを続けましてどんなに心の中で苦しんだか判りません、最初警察に来た時は同志の者との約束もあり、絶対に言はない積りでありましたが列車顛覆の為死んだ人達の霊が私の体に迫つて来る様な気持になつて、精神的な苦しみに堪えず、こんな苦しみをするならば到底将来此の苦しみを続けて生きて行く事は出来ないと思い此の苦しみから逃がれる為に自ら進んで犯した事件の真相を告白し責任を果したいと考えて警察官に対し告白をした様な次第であります、此の事を全部告白してから何だか大きな償をした様な気持に為つて夜も良く眠られる様になりました、私の只今の気持は本当に真人間になつたと喜ふ気持で一切の苦しみから逃れた様な気が致します、私が此の事件でどう言ふ事になるか判りませんが若し世の中に出る様な事に為れば立派な人間の心持を続け終生世の中の為に真面目な人間と言はれて働いて行きたいと思つて居ります、御示し領置第二〇六号手袋は私が列車脱線工事をした時に使つた片方の手袋で濁川の森永橋の上から川の中へ投捨てた手袋に相違ありません、此の破れたのは鉄道でバールやハンマーを使つた為に内側の力の入る良く道具と摺れる場所である事と修繕をした跡の処に残つている糸が靴屋の使ふ麻糸で修繕をしてある事等によつて明瞭であります、此の修繕に使つた糸は郷ノ目の河野靴店から私が貰つて修繕したものでありますそれから手首の内側の真中附近に小指の先半分位の穴があいて居りますが私の見憶えのあるものでありますからどうしても間違いないと思います、私は心から悪い事をしたと思つて二、三日前に検事さん宛に嘆願書を出した様な訳で私の心持は嘆願書に書いた通り誰に何と言はれても正しい心持の人間になりたいと言ふ以外には何もないし、死んだ機関士等にも済まないと思つて居ります、出来る丈け御寛大に御願い致します、』

(2) A19被告のA7調書

『(前略)

問 その計画は誰が実行することになつたのか。

答 それはA15さんが「僕は始めて出て行くので土地の事情が判らないので君も一緒に行つてくれ」と云われたので結局A15さんと私が行く様になつたのです。

問 その相談はどの位の時間がかかつたのか。

答 約三〇分位でした。

問 すると何時頃になるのか。

答 大体一〇時前後だつたと思います。

問 その相談を終えてから皆はどうしたか。

答 それから私は皆より一足先にそこからA21源三郎さんと二人で出て労組事務所に行きました外の者は私達が出ると間もなく労組事務所に参りました。

問 組合事務所え行つてからどうしたか。

答 私が組合事務所え行つたところA18A23さんが事務の整理をして居りA18さんがその側でその手伝をして居りました、私達も事務所へ入ると間もなく続いてA20、A22の二人がやつて来たのでわれわれは雑談をして居りました。すると其処えA14、A16、A17さんの三名が鞄を取りに事務所へやつて来て鞄を取つて直ぐ帰つて行きました。

問 それからどうしたか。

答 A1、A15(代)、A14さんの三人は先程申上げた様に自分の鞄を持つて直ぐ事務所から帰つたのでその後の行動は判りません、それで事務所に残つた私達A18、同A23さんを含め六人はお腹が減つたので晩御飯でも喰べようという話になりその中A21さんは自分の泊つている八坂寮から自分の米五合位を持つて来たのでそれを炊いて皆んなで喰べたのです。

問 その後どうしたか。

答 夕食を喰べて少し経つて午後十一時少し前頃列車脱線の道具を用意することになつていてA21、A20、A22の三人が「一寸松川駅まで行つて来る」と云つて外え行つたので私はその時「あゝ道具を取りに行くのだな」と直感致しました。

問 その時の三人の服装如何。

答 A21は白地に青の縦縞の開襟シヤツと黒ズボンに白ズツクそれに濃い鼠色のハンチングを被りA20は白ワイシヤツに白い長ズボンに下駄履きに無帽、A22は白ワイシヤツに黒ズボンにゴム草履に無帽でした。

問 A20等が事務所を出て行つてから残つた人達は何をしていたか。

答 何もせずに唯雑談して居りました。

問 それでA20達は何か道具を持つて来たか。

答 A20達は組合事務所を出てから約三〇分位経つてから帰つて参りました。

問 その時証人はA20達が何か道具を持つて来たのを見たか。

答 私はA20達が組合事務所へ入つて来た時には何も持つていなかつたので何か道具を持つて来たのかどうか判りませんでした。

問 その時証人はA20達が道具を持つて来て何処かえ隠してあるのだな等とは考えなかつたか。

答 別にそんな事は考えませんでした、別に気にもしていませんでしたから。

問 それでは証人は何時その道具を持つて来てあると云う事に気附いたか。

答 それはA15さんがその中事務所えやつて来て同人から誘われて出掛けるときそれを見て始めて列車脱線に使ふ道具はバールとスパナという事が判つたのです。

問 それではA20等は組合事務所へ帰つて来てから皆は何をしたか。

答 それから私達は事務所でぽかんとして居ても仕様がないので歌でも歌うと云ふのでA18さんの音頭でインターナシヨナル、若者よ、メーデー歌等を大声で合唱致しました。

間 それらどうしたか。

答 私達が歌を歌つて居ると其処えA15さんが参りました、それでA15さんも一緒に歌を歌つたように記憶致して居ります、それで私達が歌を歌ひ終ると間もなくA15さんが私に「これから出掛けよう」と云ふ趣旨の事を云つて私を誘ひましたので二人で列車の脱線をするために事務所を出掛けた次第です。

問 それは何時頃か。

答 歌を歌い終つたのは一時頃でなかつたかと思いますから一時半頃(八月十七日午前)でなかつたかと思います。

問 事務所を出掛けるとき何か道具を持つて行つたのか。

答 組合事務所の出入口を出ると直ぐ左側(出入口の東側)にバール一とイギリススパナ一(自在スパナ又はモンキースパナ)が置いてありましたのでA15さんがスパナを私がバールを持つて出掛けたのです。

問 そのバールとスパナは先程云つたA20、A21、A22の三人が松川駅から持つて来たものか。

答 私はその三人が松川駅から持つて来たものだと思つて居ります。

問 組合事務所を出掛けてからどういう経路で現場まで行つたのか。

答 私は脱線現場や時間等の事は細く聞いて居りませんでしたので出発する時間や現場は具体的に知りませんでしたのですが、A15さんは幹部なので知つていると思つて何時もその行動に従つた訳ですが、A15さんは本年八月十一、二日松川工場え来たのでまだその前に松川方面には余り来て居りませんので、兎に角汽車の線路に出るまでは私が道案内致しました、それは組合事務所を出てから直ぐ東え出て畑を抜け八坂神社の階段を降りて鉄道官舎前の小径え出て八坂寮の方を曲つてそこをずつと西え向つて歩き三、四分して鉄道線路に出ました。

問 鉄道線路に出てからどうしたか。

答 線路に出てからは線路の右側(東側)を大体A15さんが先になり福島方面(北方)に向つて歩いて行きました。

問 歩調は早かつたか遅かつたか。

答 大体普通の足並で歩きました。

問 歩いている間に誰か人に会つたか。

答 それは東北本線と川俣線の分岐点から約百米か二百米北方福島方面え行つたところ(その地点は私は今まで一回も歩いた事がなく又その晩は暗かつたので余りよく判りません)で福島方面から来た三人連れの男に出会いました。

問 証人はその三人連れに会つたときどんな人達だと思つたか。

答 私はその人達は何処かそこえらえ用達しにでも行く人かと思いました。

問 そうしたらどうしたか。

答 私達がその三人連れに向い会うと私達の中のA15さんと福島方面から来た人が立ち止りました、それでA15さんはその人達と何か挨拶を交した様でした、それで私はこの三人連れの男は前に執行部の人達が「福島方面からも手伝えに来る」と云つたその人達だなと直感致しました。

問 それからどうしたか。

答 それで私達は全部で五人となり私達松川の者はその儘北方に歩き出し福島方面から来た人は其処から引返し福島方面え(北方)私達松川の者はそこまで歩いて行つたと同じ様に線路の右側(東側)を福島方面から来た三人は先頭になり次に、A15さん一番後に私が附き歩調は普通でした。

問 歩いている内に列車に会つたか。

答 会いました。

問 それは貨車か客車か。

答 汽車の音と車輌の窓明りで客車であるという事が判りました。

問 客車と会つたとき皆んなはどうしたか。

答 福島方面から来た中の一人が「下りろ」(土手から下え降りること)といつたので皆んなは歩いて行つた右側の土手より二、三米下りて、しやがんで顔を伏せて汽車に乗つている人達から顔を見られないように致しました。

問 それからどうしたか。

答 その中客車が通過したので私達は再びこれまで歩いて来た線路の右側(福島え向つて右側)に出て続いて歩き出しました、それから少し歩いて十分位して(この点ははつきり判りません)線路が左にカーブした処で左が山になつて居り右が田圃(だつたと思ふ)になつている地点で前に歩いて行つた者が止まつたので私もその場で止まりました。

問 其処え着いたのは何時頃か。

答 多分午前二時頃(八月十七日午前)だつたと思います。

問 其処え着いてからどうしたか。

答 現場え着いてから間もなく福島の人達が作業に取り掛つた様です、それは私達松川の者が持つて行つたバールやスパナを現場に着くと直ぐ福島の人達に渡したので、最初は福島の人達が作業に取り掛つたものと考えられるからです。

問 すると松川から行つた者は何をしたのか。

答 現場に着くと私達が持つて行つたバールやスパナを福島の人達に渡したところ私達に見張りをしろと云つた(左様に記憶して居ります)ので私達は先ず見張を致しました、それはA15さんは現場から松川方面に五、六米離れた地点で同方面を見張り私は福島方面に矢張り五、六米離れたところで同方面を見張りをして居りました。

問 福島の人達は何処から作業を始めたか。

答 それはカーブになつている線路の外側の線路の外側の犬釘や線路に当てた木をバールでぬき始め又線路を継ぎ合せてある鉄板をスパナで取り始めたのです。

問 それからどうしたか。

答 福島方面から来た人は犬釘等約十分位かかつて抜き福島から来た一人が交代してくれといいましたので私はそれと交代致しました。

問 A15は交代したのか。

答 私は無中だつたので誰がどう言う仕事をしたかよく判りません。

問 証人が交代してから又福島の者と交代したのか。

答 私は五、六本犬釘を抜くと福島から来た者の一人がお前なんか駄目だと言つて私の持つていたバールを取つて福島の者が同様外側の犬釘を抜き始めました、それから福島の者はどの位犬釘や線路に当てた木を抜いたか判りません。

間 証人は何交代したか。

答 私は一回やつただけであります。

問 カーブになつている線路の内側の線路の外側の犬釘等は抜かなかつたか。

答 それは判りませんでした。

問 外側の線路の内側の犬釘はどうか。

答 それも判りませんでした。

問 線路を継ぎ合せるために両側に当ててある鉄板を取り外したのか。

答 福島から来た者が二人でその作業に当つて居りましたが取り外したのかどうか私は見張りをしていたのでよく判りませんでした。

問 すると犬釘等をどの位抜いたのか。

答 私は二〇米位抜いたと思いますがその点よく判りませんそれは私は余り作業をして居らず見張りをしていたのでその点については判然り申上ずられません。

問 仕事にかかつた時間はどの位か。

答 約二、三〇分位だつたと思います。

問 それでは何時頃になるのか。

答 現場に着いたのは二時前後だつたので二時半近くではなかつたかと思います。

問 どうして仕事を止めたのか。

答 それは福島から来た者の一人がもうこれでよい止めようと言つたので皆んながこの仕事を止めたのです。

問 福島から来た者の中で誰かその作業に馴れている者があつたか。

答 ありました、それは犬釘等を抜くのに全然まごつかず手際よくポンポン抜いて居りました。

間 抜いた犬釘やボールト鉄板等はどうしたか。

答 抜いた犬釘やボールト等は線路の東側にある田圃に投げたりしたものがあると記憶して居ります。 問 それでは仕事に使つたバールやスパナはどうしたか。

答 最後に作業したのは福島から来た人達で私達松川の者は仕事を終えて直ぐその儘別れて帰つたのでバールやスパナはどう処分したかは私には判りません。

問 証人ら松川の者は福島の人達と何か話合つたことがあるか。

答 別れる一寸前福島の者が私達にこのことは絶対に口外するなと云われましたが、その外の事は前に話さなかつたような気が致します。

問 証人達は福島の者たちと別れてからどうしたか。

答 私達は福島の人たちより一足先に現場より元来た線路を松川方面に向い帰つて参りました、そして、八坂寮の裏から左に曲り元来た鉄道官舎の前を通り八坂神社の階段を登り畑を突切つて組合事務所に戻つたのであります。

問 その時は何時頃であつたか。

答 三時前後だつたと記憶して居ります。

問 事務所へ帰つて来てからどうしたか。

答 私が事務所へ帰ると

A18

A23

A20

A22

A21

の五人がまだ寝ずに起きて居りました、それから私は事務所の南側の板の間に新聞紙を敷き赤旗をかけて寝みました。

(中略)

問 証人は八月十七日朝列車顛覆事故のあつたことを知つているか。

答 それは知つて居ります。

問 それは何によつて知つたか。

答 私が朝六時半頃起きて朝食を喰べに家に行く途中工場で知つているA165さんから聞きました。 問 それは何時頃か。

答 それは朝七時少し前頃でした。

問 それを聞いてどう考えたか。

答 一言で言いばいやな気持でした。その気持は言い表はせません。

問 A21、A20、A22等はその晩どうしたか。

答 その晩事務所に泊りました。』

右両自白が任意性を欠くものでないことはすでに述べたところであり、ここでは論議の外におくが、右自白調書を虚心坦かいに読めば両供述とも如何にも渋滞なく、卒直淡々として述べられており、その調子に無理がなく、押し付けられた影など微塵も減じられず、それ自体真相を語つているものと思わしめるに十分なものがあるのである。のみならずA4自白には自分で経験したものでなければ到底述べ得ないような供述が随所に認められるのである。ここではその顕著なものだけを挙げてみるが、

(a) A4自らがA4予言と称せられる不用意な放言をしている事実。

(b) 事故発生の現場え赴く途中A4がA161方の座敷にはこうこうとして電気がついていたのを認めたという事実。

(c) 国鉄側A4ら三名と松川側A19、A15二名が出会いの場面から脱線事故予定の地点まで引返えす途中で上り列車に出会い、これに見咎められねよう土手下に下りてしやがみ右列車をやり過したという事実。

(d) A4ら三名が帰路の途中森永橋の南袂の土手に腰を下して休憩し且つその休憩中肥車に出会つたという事実。

(e) A4は帰宅後A162の髪の毛を引張つたという事実。

等々である。しかも右(a)については猪狩裁判官の証人A70に対する昭和二四年一〇月一九口付証人尋問調書中の

『私及びA119、A4は福島市aにある尋常小学校の同級生であり学校当時から今日迄親しく交際して居るので同人等を知つて居ります、私は本年(昭和二十四年)八月十六日福島市大字aにある虚空蔵様のお祭に行きました、私はその日午後一時頃から母と虚空蔵様の坂を五間位上つた処でキヤンデー売を始め売れそうな場所を転々と坂道を上の方に場所をかえて居りましたが午後十一時過頃坂道を約五十間を上つた処に店を開いて居るとA71が来たので私はA71と一緒に本堂の方に上つて行くと本堂とお寺の木の門の中間位の処でA4が本堂の方から帰つて来るのに出会つたのです、その時刻は十一時半頃かも知れません、その際A4は私とA71に対し「今夜列車顛覆があるんじやないか」と恰も私等に質問するような口振りで話したことを覚えて居ります、それから「遅くなるから帰る」と言つてA4は急いで下つて行つたので私とA71はいつも親しく交際して居るのに今夜に限つて奴がおこもりをしないで帰るのは面白くなく思つて私とA71は「なんだあいつ汚ない」と悪口を言いながら本堂の方に行つてお詣りをしその晩は一緒におこもりして翌朝(十七日)五時頃A166会社のボーで眼をさましA71と一緒に急いで家に帰つたのであります、A4と行き会つた時の同人の服装は長袖の白フイシヤツを着ねずみ色の長ズボンをはき白ズツク靴で無帽でありました、』旨の供述記載が、

(b)については一審一四回公判における証人A167の

「私は昨年(昭和二十四年)八月頃松川駅と金谷川駅間において列車が脱線顛覆したことを知つて居ります、黒岩の虚空蔵様のお祭りを知つて居ます、虚空蔵様のお祭りは一年に何回あるか判りませんが私の知つているのは一回だけです、それは八月ですが日は忘れました、列車顛覆事故とお祭りとではお祭りが一日早かつたと思ひます、私は松川の自宅を出ましてA118製菓会社の前にあります家内の実家に寄り其処から夜の七時過ぎに御詣りに行きました、家内の実家は福島市大字aです、実家の主人はA112と申します、虚空蔵様から帰つたのは午後九時頃でした、虚空蔵様をお詣りしてその足で福島市内に出て稲荷神社のお祭りでしたので其処を参詣し家内の実家へ帰つたのは午後十時半か十一時近くでした、それから十二時半頃までお茶呑を致しました、其の晩は其処に泊りました、寝たのは午前一時近くと思つて居ります、A12方で寝るまでお茶呑みをしてゐたのです、場所はA12方の表廊下でした、其処から廊下の前に塀があつて道路が斜に見えます、廊下の南側が道路で私の座つてゐたところはその北東になります、私の斜になつて居て塀の切目から道路が見えるのです、その塀は廊下の端と玄関のところとが切目になつて居り玄関の前は塀はないのです、その晩私が福島から帰つたときは相当人通がありましたが十二時過はそうなかつたと思ひます、その後は二組か三組位の人通りだつたと記憶致して居ります、それは十二時過ぎてからと思ひます、最後の組は十二時半過であつたと思ひます、私の目撃した終りの組は三人の男でした、北の方から参りA118製菓会社の方向に向つて行きました、縁側(廊下)から道路までの距離は二間半乃至三間位です、三人組の服装は判然りしませんが大体殆んどが黒く襟の辺が白く見えました、年恰好は殆んど二十三、四歳位と思ひました、塊つて通つた様に記憶します、縦隊でした、帽子は被つて居らず、履物は何んであつたか判りませんでした、三人の背の高さは大体同じ位と思いました、そのときA112方では電燈が点いていました、その頃の天候は最初小雨でしたが寝る頃には雨も止んで東の方が白くなつて来たように記憶しています、三人組を見たときは外は真暗でした、八畳の間から廊下近くに電燈を引いたのでその明りで見えました」旨の供述が、

(c)に関しては一審一四回公判における証人108の

「私は昭和十八年一月十八日から鉄道に勤めて居り現在は機関士をやつて居ります、昨年(昭和二十四年)八月頃は機関士として勤務して居りました、私は昨年八月中に金谷川駅と松川駅間に於て汽車脱線顛覆事故のあつたことを知つて居ります、その場所も大体知つて居ります、八月十六日は第一四一列車の本務機関士として福島駅と白石間の上下を運転致し同月十七日は第一一二列車の後部補機として白石駅と郡山駅間を運転致しました、第一一二列車は八月十七日の多分午前一時二十七分頃福島駅を発車したと思ひます、福島駅は定時に発車しましたが永井川信号所で下り第四一一列車と交換の為約四分遅れて永井川信号所を発車しました、その列車は金谷川駅、松川駅間では停車致しませんでした、金谷川駅を何時に通過したか現在記憶して居りません、松川駅を何時頃通過したか良く記憶がありませんが午前一時五十九分頃松川駅を通過したと思ひます、この列車は大体四分遅れて金谷川駅と松川駅を通過したと思ひます、私は列車脱線顛覆した場所は大体知つて居りますが私が第一一二列車の後部補機々関士として金谷川駅と松川駅間の浅川踏切を過ぎて線路が曲線から直線になるところから幾分過ぎた頃三人乃至五人と思ふが多分三、四人の男の人を見ました、その三人乃至五人の男の人は線路に沿つて居る土手の稍々中間より幾分下つたところと思ふが列車と反対の方向に向つて歩いて居たと思はれました、そしてその男の人は列車と擦違ひました、その場所は列車脱線のあつた場所から何米離れて居たかと言ふことは明白には判りませんが記憶にあるのは線路が曲線から直線になつて幾分過ぎたところであつたと思ひます、幾分過ぎたと言ふのは松川駅の方に向つて幾分過ぎたと言ふことです、私が見た男の人の服装は判然判りませんが黒色のズボンに白のシヤツを着て居た様に見えました、その人達は線路の土手の中間よりやゝ下の処で何か重い荷物でも持つて居る様な恰好で幾分前かがみになり列車とは反対の方向に向いて歩いて居りました、その土手は松川駅に向つてつまり列車の進行方向に向つて左でありました、三人乃至五人の男は帽子は被つて居なかつたと思ひます、頭の髪は長かつたと思ひます、年令は二十歳位から三十歳以下と思はれました、私は第一一二列車の後部補機々関士として白石駅と郡山駅間を運転して居たが郡山駅で機関車を解放し炭水線に入つて発車準備をして待機して居りました、私が勤務した列車の機関助手はA109君でありました、私が最初に列車の脱線事故を知つたのは郡山駅で多分第一五一列車を索引して郡山機関区で侍機中のことでした、私はその事故を聞いて機関助手のA109に松川、金谷川駅間で列車が脱線したのは松川駅方面に行く浅川踏切を過ぎた附近ではないかと話しました、私は浅川踏切と松川駅間で人を見たのでその人が怪しいのではないかと話をしたのです、三人乃至五人の男の人は皆同じ様な姿勢で歩いて居た様に感じました、その人達は土手のやや下目のあたりを歩いて居たのではないかと思ひます、顔は皆列車と反対の方向を向いて居りました、尚第一一二列車は客車で準急であります、第一一二列車が列車顛覆のあつたと思はれる処を通過した時別に何とも感じませんでした、」旨の供述が、

(d)については一審一四回公判における証人A116の

「私は信夫郡a村大字bc番地で大体三十年位農業をやつて居り肥料としては人糞を使つて居りますが、その人糞肥料は主として福島市a町から受けて居ります、私は昨年(昭和二十四年)八月中に松川駅と金谷川駅の間において列車が脱線顛覆したことを知つて居りますがその日の朝どういうことをしたかは日記をつけて居りませんから判然りしませんが、その朝は肥料汲みに出かけたと思います、私はその朝市内a町へ人糞を汲みに出掛ける為め荷車に肥料桶六本を積みその荷車を私が挽いて私の子供の長七と行きました、出掛けた時刻は正確な時間は判りませんが午前四時半か五時頃と思います、家を出て濁川の森永橋を渡りましたがその橋を渡る頃その附近で人影を見また、私は車を挽いて北に向つて進んで行つたのでありますが私の進んで行く東側の方に約三十間離れて居たところに居りました、人影を見たのは橋を渡る前で進行に向つて右側でした、その人影の場所は川の土手から僅かに離れて居り川の渕から二、三間、橋からは約三十間位離れて居たと思います、それは道路の上で判然りしませんがしやがんで居た様に思います、その人の数は大体三人位居た風でした、大体男で女でなかつたと思います、幾つ位かは足をとめて見たわけでもありませんし何の気もなく通過ぎたので判然り致しませんが老人とは思いませんでした、その時その人達は帽子を被つていなかつた様に思います、三人は余り離れていたとは思いませんでした、互に話を語る位の距離であつたと思います、その時三人は話していた様であつたかどうかは足を止めて見た訳でありませんから判りません、私は森永橋から国道に出て森合に行きましたが橋を渡る前に三人の人影を見ただけでその後ふりかへりもしませんでした、その森合まで肥を貰いに行つたのは虚空蔵様のお祭りの日で八月十七日の朝と思います、私が三人の人影を見たときの明るさは暗いと言う程でもなく少し明るいことは明るかつたと思います、又肥桶を積む頃の明るさは積むのに支障のない程度の明るさでした、」旨の供述、

及び一審五一回公判における証人A15A12の

『私は国家地方警察巡査で本年(昭和二十五年)四月八日裁判所が東北本線永井川信号所南方の山を下りたと言う地点から東北本線東側田圃道をA118製菓前、森永橋に至るまで及び濁川の検証をした際A47巡査とA12被告の戒護に当りました、その時の検証は脱線現場より帰途濁川附近で休憩したと言うことに付てその附近を検証したのであります、私はA4を知つて居ります、それは実地検証でA12被告を戒護してから知る様になつたのであります、四月八日午後はA118製菓工場の正門前道路で濁川に沿つた崩れた処があり、そこで裁判長と大塚弁護人が会話して居りました、その時私はA12被告を戒護して居つて裁判長より川上の方に約一間位、大塚弁護人より四、五尺離れたところに位置して居りました、A4被告はその中間に居り私の直ぐ前位の処に居りました、又A12被告は私から約二尺位川上に居りました、A4被告は右裁判長と大塚弁護人の話の時A12被告に向つて「A12ちやん、A12ちやん」と呼びましたがA12被告は振返りも返事もしませんでしたするとA4被告はA12被告に対し「俺達が休んだのはもう少し向うの方だつたな」と川上の方を顎でしやくりましたが、A12被告は何も話をしませんでした、A12被告が返事もせず振返りもしないのでA4被告は鉛筆を右手にとつて下唇にあて濁川の方を見て居りました、顎でしやくつたと言うのは「もう少し向うだつた」と顎でしやくつたのですが西の方を向けたので私は横の位置になりましたが、何米向うの事かその地点までは判りませんでした、私等はその時森永橋と裁判長の間に居りました、その地点は裁判長と森永橋の間に当ります、』旨の供述が、それぞれ裏付証拠として存在し、その真実性を保障しているのである。そしてA4自白とA19自白との間には前示国鉄側と松川側との出会の場面から脱線てんぷく作業に至るまでのてん末について大綱において一致しており、しかもA19自白については(1)昭和二四年一〇月七日付A20被告に対するA7裁判官の証人尋問調書中の

『A21、A19、私等は組合事務所へ行くとA18と同A23(A23の誤記と認む以下同様)さんが事務の整理をしておりました、それで私達は腹が減つたので飯でも喰うべと言つてA21が自分の米を電熱器で炊き始めました、それから午後十時半になつたので私はA21とA22に「時間だから行こう」と言つて三人で事務所を出て畑の間を通り八坂神社の鳥居をくぐり駅前通りに出てキヤンデー屋の処を左に廻つて踏切を越して新聞屋の脇を通り鉄道官舎の前を通り保線区倉庫に参りました、その倉庫の正面の左側にある材料置場の道路に面した板戸を先づ私が持上げて取り外しその材料置場の中に入り続いてA22が中に入り、A21は自分は表で見張りをして居ると言つて表に待つていたので私は中が真暗なので両手で手捜りで探したところ先づ私が奥の方にバールがあつたのを見付けて続いてA22はスパナを見付けたので二人がその材料置場から出たのであります、帰るときは私とA22がバールを持ち見張つていたA21がスパナを持つて帰つたのであります、その往復には誰とも合はなかつたと思います、それで事務所へ帰つたのは午後十一時頃と思います、組合事務所の入口の東側の隅にバールもスパナも寝かせて置きました、そのバールは約一米位ではなかつたかと思います、重さは大分重く太さは直径五糎位ではなかつたかと思います、スパナは長さ一尺位ではなかつたかと思います、よくモンキースパナと言うものです、事務所へ帰ると私は事務所に居たもの皆んなに「持つて来た」と申しました、そしたら皆んな事務所から出て持つて来たスパナやバールを見ましたその時誰か何とか言つた様でしたがそれは忘れました、(押収に係る証第七号及第八号を示す)その時持つて来たバール及スパナはそれに間違ありません、バールの長さは私は約一米位と申上げましたが私の持つて来た時長さが鼻か口までありましたから約一米四、五十糎であつたのです、スパナは長さ一尺位と申上げましたがこれはそれより少し短いですがその時持つて来たものに間違ありません、事務所へ帰つてから其処に残つていたものと一緒に直ぐ前に炊いた飯を喰べました、それからビラ書したり雑談をしたりインター等を歌つたり致しました、そうしている中に一時半に(十七日午前)になりますとA15さんがA19さんに現場に行かうと言つて私達が持つて来たバールとスパナを持つて行きました、それで私達は事務所の出入口まで出てA15とA19が私達が持つて来たバールとスパナを持つて出掛けるのを見送りました、その時誰か知りませんが「行つ来」と言いました、私達残つた者はビラ書きや雑談をして居りました、A15やA19は三時前後(十七日午前)帰つて来ました、私はその時寝る準備をしていたのでA15やA19がやつて来た様子をいろいろ外の人に話して居ましたが私は聞きませんでした、それからA15、A22は寝るために八坂寮に行きました、それで私とA19とA21は事務所の板の間に新聞紙を敷き私とA19は赤旗をかけ、A21は幻燈機の白幕をかけて寝ました、それからA18と同A23は事務所に起きていたと言う事にするために(それでアリバイをつけるため)事務所の板の間にある机にもたれてあごひざして起きている様な恰好をして居眠りして居りました、その朝起きたのは六時頃でした、私は朝起きると又ビラ貼りをする糊を作るためにうどん粉を買うと思つて松川駅の上の方にある粉屋に出掛けました、その粉屋に行く途中A168床屋さんの前で会社の女工さんのA169から列車てん覆事故を聞いて知りました、その時私は夕ベA15やA19がやつたんだなと思ひました、その時私は本当に嫌な感じを受けました。』旨の供述記載、及び同年一〇月二二日付A7裁判官のA22被告に対する証人尋問調書中の『それで私は断り切れず承諾したのです、私はその時始めて汽車てん覆の話を聞いたのです、その相談が終つたのは午後十時頃ではなかつたかと思います、その相談が終るとA21、A20、A19、それに私の四人はそこを出て組合事務所に行きました、A14さん等四人は引続きその部屋に残つて居りました、A14さん等は其処で続いて顛覆の細い計画をして居たのではないかと思つて居ります、従つて直ぐは帰らなかつたと思います、私達は組合事務所え行つてからビラ書きをしたり少し歌を歌つたりして居りました、その中A21君は自分の米を四合位持出して飯を炊き始めました、そうする中に十時半頃になるとA21君がもう行くべと言つたので私は保線区に行くと暗いと大変だから燐寸を持つて行くべと言つてA155の机の上にあつた燐寸一箱を持つて取りズボンの右ポケツトに入れて私、A21、A20の三人は保線区えバールとスパナを取りに出掛けました、私達は組合事務所を出てから直ぐ左に曲り畑の畦を通り八坂神社の鳥居をくぐり県道え出て右に曲り踏切りを渡つて新聞屋の手前の小径を左に入り大体二百米位行つてコンタリートの土手の上(線路の側にある)を通り保線区倉庫え行きました、倉庫え行つてから道路端の板戸の二枚の板戸の中道路から向つて右側の板戸)大体真中位に打附けてある横棧をA21が真中、その左が私、右がA20の三人で下から持ち上げその持ち上つた戸を手前に引くと直ぐその戸が手前側に外れたので真ん中にいたA21がその戸を左の板戸の方に大体人間が入れる位ずらしました、するとA20君が先ずその倉庫の中に入り続いて私がその中に入つて行きました、その板戸を持ち上げて手前に引き寄せると直ぐその戸が外れたので何処に鍵がかかつて居たのか又鍵があつたのかなかつたのか判りませんでした、A21君は表で見張りをして居りましたA20と私が倉庫の中に入つたが真暗で何処にバールやスパナがあるか判らないので私は二、三歩入ると持つて行つた燐寸を摺つて灯りを点けるとA20君がずつと奥え行きバールを持出し私はスパナを持出したのであります、それから私が持出したスパナをA21に渡し私とA20と二人でバールを持つて帰りました、外した倉庫の板戸は元通りにしめて来ましたがその戸はぴつたりはまりませんでした、私達三人はその倉庫から元来た道を通り県道に出てから直ぐ右え曲り踏切り手前の小径を左に曲り約五十米位行つて右に曲つて線路を渡り鉄道官舎の間を通り会社の守衛所の裏を通りA25さんの家の脇を通り組合事務所に帰りました、私達がそのとつてきたバールとスパナは組合事務所の入口に向つて事務所の右隅表に置きました、スパナはA21君が地上に寝かせて置きバールはA20君が事務所の隣りの物置の棧に一方かけて横に寝かせて置きました、私達は事務所え帰ると出掛けるとき電熱器にかけて行つた飯が出来て居たので皆んなでそれを喰べました、事務所え帰つて来たのは午後十一時頃でした私達がバール等盗みに行つたときの服装は、A21君は白シヤツに黒ズボンに下駄履きで鳥打帽をかむつて行つたと思います、A20君は白いシヤツにホームスパンのズボン(白と黒の斑なもの)に下駄履きで無帽でした、私は白シヤツにホームスパン(A20と似た様なズボン)にゴム裏草履に無帽でした、私達は食事をしてから皆んなビラ書きをしたり雑談したりして居りました、それからインターとかメーデー歌とか或は赤旗等の歌を大声で歌いました、それはA14からそういわれて居たので歌つたのですその時組合事務所にはA19、A21、A20それに私の四人とそれに私達先程申上げた組合室で列車てん覆の話を終えて事務所に来たときA18さんとA23さんの二人が居りましたがその時も引続きその二人も居りました、食事後私達がビラを書いたり歌を歌つたりしたのはA18が言つてやつたのです、A14等が列車顛覆の話を私達にしたときA14さんは「A18、同A23が居るから」と言つて居りましたが、その外の事は何か言つたようでしたが今覚えて居りません、A18がそのやうにビラ書きの指図や歌の音頭をとつたのは私達がA14さんから列車てん覆の話を聞いて組合事務所に来てから約十分か二十分位してA14さんが組合事務所にやつて来てA18、A23さんを表に連れ出し何かひそひそ話をしていたのでその時A14きんがA18さん達に列車顛覆の事やアリバイの事を話したのではないかと思います、私達は十二時半頃まで歌を歌つてから又ビラ書きを始め約三十分位してからA14さんから示された通り寝る仕事をし皆ごろごろし始めました、それから一時半近くになるとがたがた下駄の音がするので私が起きて見ると外の者は皆んな出口の所に集つていたのでこれからA19君達が列車てん覆に出掛けるのだと思いました、私が起きた時はA19君はもう表に出て居り出掛けるところでした、私が起きて事務所の入口のところまで行くとA15さんはもう出掛けるところで私はその後姿を見ました、私は一時半近くになると寝て居りましたので何時頃A15さんが来たのか判然り判りませんが私が寝てから後来た事と思いますから多分一時半近くに事務所え来たのではないかと思います、出掛ける時の服装はA19君はチヤツク附の土色つぽいシヤツに鼠色の濃い縞の様なズボンを履き短靴に無帽の様でしたA15さんは白シヤツに黒ズボンそれにその当時A15さんは何時も白ずつくしかはいて居りませんのでその時も多分白ズツクだつたと思います、帽子は被つて居りません、A18さんはA19ちやん(A19のこと)が出て行く時「確りやつて来い」と言いA23ちやんは「見附からないやうにやつてきな」とか何とか言いました、A21君だつたかA20君だつたか「今行くのかい」等と言つて居りました、A15等が出掛けてから、A18さんはA54さんの机A23さんは自分の机にもたれて起きている様な恰好をして居りました、A21君と私はA54さんの私の後で新聞紙を敷いて幻燈機の白幕をかけA20はやはり新聞紙を敷いて赤旗を被つて寝ました、A15等が帰つて来たのは私は寝ていたのでよく判りません、私は七時前頃起きて七時頃寮に洗面に行くと下り信号のカーブの処で列車が顛覆しているという事を聞かされて始めてその日朝列車顛覆があつたことを知りました、私はその列車顛覆は夕べA14さん等が相談したものだと考えました、それで私はその日の朝五時頃サイレンが鳴つたのでそれが列車顛覆ではなかつたかと思いどの様になつているかそれを見たいと思つて居りましたところその中後からA20君も洗面に来たのでA20君と見に行くべと話した嫌様次第です。』旨の供述記載、及びさきに記したA21被告、A22被告の各供述によつて裏付けされているのである。なお、A19自白の真実性を更に裏書するものとして一審五一回公判における証人A170の

『私は現在宮城刑務所看守部長でありますが昨年(昭和二十四年)十二月も同様でした、宮城刑務所の方で松川事件の被告戒護応援の為めに十二月十二日(昭和二十四年十二月十二日)から十六日までこちらの福島刑務所に来て勤務しました、私は本件被告人のA19、A22を知つて居ります、それは戒護応援のため福島の方に勤務したので知つたのです、十二月十六日A22、A19のことに付て記憶に残つて居ることがあります、それは検察官が五十何項目かの陳述書を読み上げて午前中それで終つて被告を中食の為め裁判所内の留置場に入れ、午後の裁判にかかる為め法廷につれて来る際留置場の塀の所で看守のA171と言う担当が手錠をかけようとした時A22被告がA19被告に対しこの者が顛覆さしたとの態度を示し非常に追及して居たのを私は見たのです、A19はそれに対しても何も応答しませんでした、A22被告は別に興奮した態度も見えませんでした、追及した言葉は列車顛覆をしたと言うので非常にその事件に付て責めつけられて居るその模様を見たのです、私はA19がどういうことをして起訴されたか又A22がどう言うことをしたか判りませんが、唯その当時の模様から又A22被告のそう言う様子から見てA19被告が顛覆させたのかと想像はつくがその他は何によつてこうされてるかは判りません、A22被告の話からA19が顛覆さしたと見えました、追及した方がA22被告で言われた方がA19被告です、その時言つて居た言葉の内容は「この野郎が汽車を引つ繰り返した、この野郎が汽車を引つ繰り返した為めこう言うことになつた、この野郎が悪いんだ」と言つて居りました、先程追及されたと言つたのはこれらの言葉です。』旨の供述、一審一八回公判における証人A172の『私は新聞記者であります、私は本件の被告人A19を知つて居ります、私は昨年(昭和二十四年)十月六日被告人A19に対する勾留理由開示の裁判があつた事を知つて居ります、私は新聞記事取材のためその勾留理由開示の法廷に来て居りましたので知つて居るのです、私はその日裁判所構内に来て居る時此の法廷外でA19に会つた事があります、それは此の裏(裁判官席の後を指す)の部屋とその向うの部屋との間の廊下の一番端の処でした、A19を戒護して居りましたのは福島地区警察署のA95部長とA31という刑事でした、その外にも一人居たように思われますが、はつきりした事は忘れてしまいました、その時私はA19に言葉をかけたことがあります、最初私がA19君に「A19君元気かい」と声をかけましたらA19君は「元気です」と答えました、それから私は「君はこの次公判だね」と言いますとA19君は下を向いた儘頷きました、そしてすぐ私は「A19君今日の公判はどうだい、気分はどうだい」と話しかけましたら、A19君は、一寸その間に間がありましたそれに対して「私はやつた事については本当の事を述べ今日からは良心的にすつきりした気持になりたい」と言いました、丁度その話の最中、同僚のA96記者が私の左側に来てその話が終ると同時にA96君がA19君に「A19君」「どうだい」とか「元気だね」とかそのような事を言つたと思いますが、そしたらA19君が「とんでもない事をしてどうも済みません」と下を見なから言いました、それから再び私はA19君に「a町の人達にも、A2の人達にもA19君は評判が良く、皆同情をもつて見て居る、若し歎願書という話でもあつたら僕も一筆書いても良い」と言いましたら、A19君は「歎願書の事は宜しくお願いします」と言いました、大体会話の内容はそれだけです、その会話が終つてから私はその右の廊下を通り便所に行つて用便を済まし、此の法廷に入りました、法廷前に廊下で私達と会つた時のA19の態度は私達と話終つた時何かゆつたりした感じが致しました、そしてA96君がA19君に煙草をやりましたら、A19君は煙草をうまそうに喫つて居りました。』旨の供述、

同じ公判における証人A96の

『私は新聞記者であります、私は本件の被告人A19を知つて居ります、昨年(昭和二十四年)の十月六日A19に対する勾留理由開示の裁判が当公廷であつたことを知つております、私はA93の裁判所担当記者としてその法廷に出ていたから知つておるのです、私はその日裁判所に来ている時法廷外の裁判所の構内でA19に会いました、それはこの法廷のかげの地方法務局の総務課の前の渡り廊下のところで会いました、私がA19君と会つたのは勾留理由開示裁判のある前です、私が一寸便所に立つた時渡り廊下で勾留理由開示の順番を待つため戒護に当つたA95部長が右にA31巡査が左におり、A19君はその間に立つて手錠をかけられてうつむいておりました、そしてそこにうちのA94記者が居て、二言、三言、しやべつていたようでした、私はその場所でA19君と言葉を交わしました、A94記者と何かしやべつていたようでしたので、私は何気なく「どうしたい」といいましたら彼は「飛んでもないことをして申し訳ありませんでした」といつてうつむいていました、私がA19君と言葉を交わしたのはそれだけです、私はそれから法廷に入つたのです、それから私はA19君についてなされた勾留理由開示の裁判を傍聴しました、其の時の法廷に於ける状況は、私が席に帰つたらA94記者も私の右の席に帰つて来て、しやべつておりましたところA19君があの入口(この時証人は法廷の西側の入口を指差した)からこの法廷に入つて来てうなだれておりました、そしてA7判事から開示を受け、それから大塚弁護人がA24弁護人を紹介されたのであつたか、A24弁護人が大塚弁護人を紹介されたのであつたかあいまいなのですが、紹介されてからA19君にいろいろと自己紹介されたようでした、A19君は警察で拷問されて虚偽の陳述をしたといつて泣かれたようでした、その時A19君は入口から入る時は相当うなだれて入つたように見受けましたが傍聴席から「A19ちゃんしつかり」という声が出たら元気づいたようでした、それから当時ここ(この時証人は証人台の後の被告人席を指差した)に坐る時もうなだれて何かビクビクされていたようでしたが虚偽の陳述をしたと言つてからもビクビクしてうなだれて泣かれていたようでした、私がこの法廷外で会つた時のA19君の態度は真赤な顔をしてうつむいて……癖かどうか判りませんが……A19君はうつむいて時々ニコニコ笑つたり頭を振つたりしておりました、元気は悪いという程でもなく、良いという程でもありませんでした、法廷内に入つてからと法廷外の時とを比べるとまあ感じの問題ですが法務局の前にいた時の方が元気が良かつたように思います、私はA19君に「飛んでもないことをして、済みませんでした」と言われた時、私は当時A19君とA4君が自供しているという情報をとつていたが本当に自供したかどうか、私自身の心証がありませんでしたからとに角A19君かA4君に会いたいと思つていた時A19君がそういわれたので矢張りやつたのかなあと思いました、私が言葉を交わした時A94記者が歎願書のことを何か言つて居りました、彼とA19君とは取材の関係からと思いますが前から知つて居たようでした、その時A19君は「よろしくお願いいたします」と言つて居りました、私はその前にたばこを一本どうだいといつてA19君にやつたらその時A94記者が話しておつたのですが、A19君はそのたばこに火を点けながらお願いしますといつて頭を下げたのです、本当に頼むと思いました私はA93の社会部の第一線記者として裁判所や検察庁を担当して取材に当り、資料を集めていたのです、ところが当局は面会を禁止して被告人に会われないようにしていたので、私達はA4君を保原に移したのを三日位経つてから初めて知つた位でした、そんな関係で私達は裏面の記事を集めるだけで、被告人に会わなかつたから、やつたのかどうかは判らなかつたのです、それで私達はできるだけ会つてきいて見なければならないと思つておつたところ、そこで会つたので、それを絶好の機会と思つてきいたらそういわれたのでやつたのかと思つたのです、やつたというのは松川のてん覆事件のことを指すのです。』旨の供述、及び一審一七回公判における証人A95の

『私は昨年一〇月六日に本件の被告人であるA19外六名の勾留理由開示法廷に立会つたことがあります、その立会をするに至つた理由は被疑者が監獄代用である福島地区署の監房に入つていた関係上戒護の任に当つたが、一般看守巡査の監督権を持つていたのですべてについて責任をもつて戒護に当りました、その際A19を戒護したことがありますどこで戒護したかとのお尋ねですが法廷の進行を円満にするため連絡係をおき、法廷の裏にある会計室の脇の裁判所の庁舎から通ずる廊下の十字路の処で椅子に腰をかけさせて順番の来るまで待機させておりました、私がA19を戒護していたときたまたまA94記者が出てきてA19に声をかけたことがありました、その会話の内容全部は記憶していませんが、二こと三こと記憶しております、私はそのとき北を向いており、私の右にA19が居りました処そこえA94記者が来て「やあA19ちやん元気かい」と云つた処A19は「エエ」と云つて首をまげて肯いて挨拶したように思います、そしてA94記者は「A19ちやん間もないね」と云いそれから身体の具合をきいたように記憶します、A94記者はA19に「今日の公判はどうだね」と云つたところ、A19はやつたことはやつたと判然言つてすつきりした気持になり度い」と云つたように思いますそうする中に名前は判らないがA96という新聞記者が来て「やあA19ちやん」といつたところがA19は「どうも済みませんでした」と云つたように、記憶します、それからA94記者は「A19ちやん煙草あるか」とA19に云つたそうすると側にいたA96記者は「A19ちやん松川の方では人気が良いからもしやつたのならば嘆願書でも出したらいいのではないか、もしそうなれば俺も一はだ脱いでやる」と云つたところ、A19は「どうかよろしくお願します」と云つたように記憶します、その時私はA94記者に余りしやべらないようにしてくれと云つている中にA40巡査が「済みました」と云つて連絡に来たので法廷にA19を連れて行つたのです。』旨の供述、の各存在することは看過のできない点であり、また、この点に関し一審三七回公判におけるA19被告の証人としての供述中に

『八月一七日の朝東北本線金谷川駅松川駅間で列車脱線てん覆のあつたことは友達から聞いて知りました、その朝私は六時半頃組合事務所を出て丁度駅と松川駅との中間にあるA173工業松川工場の裏を通つて近道をする処があるのですが、その辺に入らうとしたときに松川工場の従業員であるA165が後から自転車で来たので私が「今朝は何だい早くから」というと「汽車が脱線した」と云い、そのとき初めて知つたのですそれから家に帰つてから私は外でビラ貼りをしておつた為フイシヤツを汚して了い母に洗濯をして貰いそれから茶色のジヤンバーを着、靴をはいて出かけました(裁判長の問「フイシヤツを汚したと言うが、特に汚れるような何かがあつたのですか」答「特に汚れるということはありませんでして汗で汚れたのです。」)』との趣旨の供述の存することは一審以来実行行為者とされている被告殊にA4被告の自白に当夜衣類が汚れた旨の供述がないことはその自白が虚偽で不合理なことを示すものであると強く主張されていることに鑑み注目すべき点である。叙上の次第でA4、A19両自白は真実性は豊かであつて、官憲のデツチ上げであるとか、あるいは虚偽架空のものであるなどと云つて到底非難のできない筋合のものであることが判るのである。

第三本件実行行為に関する限りにおいて、原判決には刑訴四一一条四号にいわゆる再審事由があるとも認められない。

以上を総括すると、原判示の実行行為に関する上告論旨は、刑訴四〇五条の上告理由にも当らないし、また職権によつて、記録を調べても同法四一一条一号三号四号を適用すべきものとは認められないということになるのである。そうだとすれば、原判示の実行行為に加担しているA4、A12、A13、A15、A19、A20、A21、A22の各被告はこの実行行為に基づく罪責を到底免れ得ないのではないか。

多数意見はこれを要約すると、原判示の共同謀議の部分が連絡謀議の点で疑があり、その結果実行行為の部分にも^惑をもたざるを得ず、延いて事件全体の認定の上に影響ありというのであつて、ひつきよう共同謀議の部分が崩れたから実行行為の点はもはや審理の限りでないという議論に帰着するのである。

しかし、私見はその議論には到底承服できない。教唆と実行正犯とが同時に起訴された場合、教唆の点に疑惑があるからといつて、それが事件全体の認定の上に響き、実行正犯についての審理を進め得ないということになるであろうか。本件の共同謀議と実行行為の関係竝にその取扱方は右教唆と実行正犯のそれと異るところがあるであろうか。寡聞な私見は実務上多数意見のような取扱方をした前例を知らないのである。私は多数意見に抗して、共同謀議の点に疑惑があつても、実行行為のくだりを詮議追及すべきであることを繰り返えし繰り返えし主張したが、遂に容れられなかつたのである。そして、多数意見の一部からは、本件公訴の共同謀議と実行行為とは不可分のもので、共同謀議から切り離した実行行為は訴因に成つていないのであり且つ又実行行為だけで意思連絡の点はどう説明するのか、動機の説明を欠いていいのか等々の攻撃に直面したのである。しかし判示の実行行為が本件訴因の重要な部分を形成していることは疑のないところであり、実行行為を切り離して認定したからといつて全部の一部を認定したに過ぎないのであつて、訴因の同一性を害したとは言えないし、また、そのような認定は原判決の事実認定の線をいささかも踏み出してはいないのであるから、上告審が新しい事実を認定したものとも云えない。また、そう認定することによつて実行行為に関する限りすでに出尽している被告人らの防禦方法を封じたものということのできないことも勿論である。そして、原判決の実行行為の認定そのものが、実行行為に加担している者の間に意思の連絡のあることをうたつていて余りあるのであり、また動機の点も説明のできないわけのものではない。してみると共同謀議に疑点があるとしても、実行行為の部分を取上げて詮議し且つ認定のできないわけのものではない筈である。多数意見の建前をとれば教唆犯と二人以上の実行正犯が同時に起訴され教唆の事実が認められない場合、実行正犯の関係は訴因の中にない、実行正犯の意思連絡も認められないというような結論になるのであろう。私はその可なる所以を知らない。では、いつたい、彼らに対しどんな罪責を帰せしめるのであるか、判決の構造はどうするのか、という発問があるであろう。私も上来説示したような実行行為に関する論議だけで本件が解決点に到達するものとは考えていない。本件に終止符を打つについては更に多くの論議さるべき問題のあることを知つている。しかしそれらの点にまで私見を展開することはこの際差控えたいと思う。何となれば、本件が原審に差戻しと決定された以上、これ以上私見を発表することは事実審の審理且裁判に支障となるのおそれなきを保し難いからである。

叙上が私の反対意見の要領である。

(裁判長裁判官 田中耕太郎 裁判官 小谷勝重 裁判官 島保 裁判官 藤田八郎 裁判官 入江俊郎 裁判官 池田克 裁判官 垂水克己 裁判官 河村大助 裁判官 下飯坂潤夫 裁判官 奥野健一 裁判官 高橋潔 裁判官 高木常七)

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